第3話
数分後。アナトールは、薪で作られた即席の杖を持って私の前に現れた。降りしきる雨はまだやみそうになかった。
「さて。その魔術とやらを、見せてもらおうか」
柵と柵の間からわたしは杖を受け取る。触れたアナトールの手は、骨ばっていて、冷たかった。きっと、心が温かい人なのよ、きっと。
久しぶりの杖の感触に、わたしの中に滞留している魔力がうごめくのが分かった。
といっても、食べ物をもらっていないせいで、魔力らしい魔力はほんの少ししか残っていなけれど。
粗い削りのザラザラとした杖を握りしめ、目を閉じる。
魔力が杖に流れて、杖が意思を持って鈍い光を放つ。
「我が名はソルシエール。悠久の空が流す涙の魔石よ。我が身に眠る魔石をもってして、この詠唱を成功させたまえ」
そう、小さくつぶやけば、牢の上に広がる分厚い雲の切れ間から、天使が降りてくるみたいに柔らかな光が差し込む。杖にさらに魔力を流し続けると、グレーの雲はあっという間に退散して、秋の澄んだ空へと姿を変えた。同時に、爽やかな風が牢の中にいるわたしたちの頬を撫でる。
雨をあがらせる魔術。他の魔女から馬鹿にされた、わたしが初めて覚えた魔術。使うのは、実に十年ぶりかしら。
魔女は一般的に、積乱雲を呼び寄せ、雨と雷を起こす魔術を好むし、それが一番簡単で初歩的な魔術であることから、生まれて初めて使う魔術に選ばれることが多い。
実際、牢の中にいる魔女たちも収監される前は当たり前のように使っていたそうよ。魔女たちが雨の日にため息をつくのは、雨が嫌いだからじゃなくて、雨を全身で浴びたいのに檻の中、鎖で繋がれている自分がやりきれないんですって。
でもわたしは違った。雨なんか大嫌いよ。……嫌い、というよりは、晴れた日が好き、の方が正しいかしら。
高く青く澄んだ空に浮かぶ、真っ白な雲。ひやりとした秋の風が足元を滑り抜けていく、今日みたいな日。
だからわたしは雲を呼び寄せる魔術は知らない。代わりに雲を押しのける魔術を覚えたの。
「おお……これは……」
アナトールの感嘆を聞いて我に返ると、牢の中でも分かる。
陽の光が差し込んでいた。
上手くいった。
アナトールは空と同じ色の目をキラキラと輝かせて、檻の中のわたしに目線を合わせた。
「ソルシエール。私は驚いたよ。まさか、こんなに素晴らしい魔術を使える魔女がいたとは。
とくん。
また、心臓が高鳴る。兵士に松明を近づけられたときとは違う。もっと甘くて切ない感じ。
「アナトール王子は、わたしを変だと思わないの? 雨をあがらせる魔女なんで、見掛け倒しも良いとこだわ」
「そんなこと思わないな。私は晴れている日が好きなんだ。誰よりも」
太陽の光を受けて輝く金髪が揺れた瞬間、強い風が吹き込む。わたしの腰まである長い黒髪も揺れる。
わたしと、おんなじ。晴れた日が、好き。
柵の外から包帯の巻かれた手が伸びてきて、杖を取り上げられる。
「楽しかった。ありがとう、魔女様」
アナトールはそれだけ言うと、わたしに背を向けて去っていく。
「……っ! アナトール! 雨がやまない日があったら、ここに来て。必ずわたしが晴らしてみせるから!」
何とかそれだけ絞り出すと、アナトールは背を向けたままひらひらと手を振った。
太陽が、彼の金髪を照り付けていた。
まだ心臓がうるさい。別れたばかりなのに、もう会いたい。
これは、愛の端くれ?
心のどこかで『愛』を知れば、身が滅びると訴えかけてくる。でも、それでも良かった。身が滅んでも良い。
そう思ったのは、あんたが初めてよ、アナトール。
生まれて今年で十六年。
わたし、ソルシエールは『愛』を知りかけている。
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