第2話
『彼』が現れたのは、イチョウの葉が牢の中に滑り込んできた秋の日。フォレッタとつまらない小競り合いを繰り広げている間に、見張りの兵士が騒ぎ出した。
「王子。わざわざこのようなところまで、おいでにならなくても……」
「魔女はここか?」
凛とした低く、良く通る声が響いた。その声一つで、兵士たちに流れる空気が一変する。
「はい。こちらでございます。どうぞお気をつけて」
その声に合わせて、カツカツと石畳を踏む複数の音が近づいてくる。
王子? 誰のことかしら。まあ、ここは大人しくしておくのが得策ね。フォレッタも同じことを思ったのか、それ以上わたしに突っかかってくることはなかった。
足音は迫り、牢の入り口のすぐ、左側から二番目の檻に収監されているわたしの前に、歩きにくくて値段が張りそうなブーツが止まる。
見上げると、妖艶な笑みをたたえた青年が、藁の上に座るわたしを見下ろしていた。
サラサラの金髪に、空を閉じ込めたような青色の瞳。瞳の下には小さなホクロ。
とくん。
体の奥で、心臓が鳴る。久しぶりに感じた高揚感。まるでわたしの心の扉を、何かが叩いているみたい。同時に、この感情を飲み込んでしまえば、もう後戻りできない。そう、思った。
魔女は、愛することを知らない。人の欲望から生み出されたから。人に、裏切られたから。
わたしが生まれたのは、王都の貴族街。子爵夫人シデリカ様のお屋敷。シデリカ様は、占いや魔術が好きなチャーミングな方でね。旦那様のアムール子爵との間に子どもがいなかったから、流行りの禁書で生み出したわたしを可愛がってくれた。
わたしは、なぜシデリカ様はわたしに構ってくれるのか分からなかった。
布や糸の買い付けに行ってくれるのも、食べなくても生きていけるのに、専属料理人を押しのけて美味しいシチューを作ってくれるのも。わたしが今着ている黒と白のエプロンドレスだって、シデリカ様が作ってくれた。
わたしに尽くして何が楽しいのかしら? 何か利益を被ることでもあるのかしら?
ある日、そう問いかけたわたしに、シデリカ様は、
「愛、よ。無償の」
って。うれしそうな笑顔だったわ。
どうして? わたしはあなたを愛することを知らない。だって、魔女だから。あなたの役に立つためだけに生まれてきた道具だから。わたしはあなたを愛せないのに、それでも尽くしてくれる理由は?
わたしは、相手に何も求めずに尽くすことが、『愛』なのだと言葉だけで理解した。
シデリカ様の顔を見るたび、心が温かくなる。もっと見ていたいと思うようになった。これが、『愛』?
人間の感情を分かりかけたとき、一人の貴族が、魔女に殺された。
魔女は危険。魔女は人の形をした魔獣だ。そんなことが貴族の間で囁かれるようになったとき。
ある日、シデリカ様は、外出するとき珍しくわたしを連れていかなかった。不思議に思いながらお屋敷でお留守番をしていたら、騎士団が乗り込んできた。
「ソルシエール。お前は幸いにも人を殺していない。魔術島へ監禁する」
ドルミール王国の紋章を刻んだ鎧を身にまとった、大柄で無表情の男たちは、抵抗するわたしを火で炙った。拘束され、シデリカ様からもらった杖はその場で焼かれた。体が煮えたぎるように熱かったのは、火のせいなのか、怒りのせいなのか、分からなかった。同時に火に対する恐怖心が植え付けられた。魔獣が入るような大き目のゲージに入れられ、多分、船に積まれたんだと思う。
気が付いたら、牢の檻の中だった。
牢に入れられたとき、危なかった、と思った。シデリカ様はわたしを裏切った。きっとシデリカ様はわたしが彼女を殺すことを危惧したから、シデリカ様は外出を装って騎士団に助けを求めたか、わたしが連れていかれるのを見たくなかったのか。
ああ、危なかった。
わたしももうすぐ、シデリカ様を愛してしまうところだったわ。
やっぱり、人間の『愛』など、ろくなことがないわ。
そこで絡んできた鬱陶しいフォレッタから話を聞けば、他の魔女たちは人間に蔑まれて、野望を叶えるための道具として、都合よく扱われていたことを聞いた。
シデリカ様は? わたしに構うことを愛だと言っていた。だからますます、わたしは『愛』が分からなくなった。
人間の心、『愛』を知ったとき、身が滅びる。
そう思って、これまで過ごしてきた。
「お前たちが、魔女か?」
わたしが過去を思い出している間、それでも彼はわたしの心の扉を叩いてくる。
「ソルシエールといったか? アナトール王子がお前に質問なさっている。礼儀がなさすぎるぞ」
と兵士の声。
うるさい。黙って。わたしは今、彼の声を聞きたいの。しゃがれた声で遮らないで。
「ええ、わたしはソルシエール。アナトール王子といったわね? もっと、顔を見せて」
裏切られた人間。だけど、もっと、もっと。心が訴えかけてくる。
「魔女! 貴様、自分の立場を分かっているのか⁉」
兵士が顔を真っ赤にして声を張り上げる。
「良い、好きにさせろ」
アナトールはひらひらと手を振ったあと、わたしに目線を合わせるようにして、しゃがんだ。
目と目が会う。
どうしようもなく心臓が鳴りだす。
ぽつぽつ
ザアアアアァ
バケツをひっくり返したように、雨が降りだす。ムワンとした空気が辺りに漂う。
「雨か。私は雨が好きではない。帰るぞ」
アナトールはあからさまに顔をしかめ、立ち上がろうとする。
「待って!」
わたしは咄嗟に柵と柵の間から手を伸ばし、アナトールの腕を掴んだ。掴んだときに見えた右手の手のひらには、白い包帯が巻かれていた。
「やすやすと王子に触るな! 離さなければ手を斬る!」
鞘から剣を引き抜いた兵士を、アナトールが制した。
「何の用だい、ソルシエール。大したことがなかったら、この兵士に斬り捨ててもらおうか?」
本気なのか、ふざけているのかは、分からない。薄ら笑いを浮かべるアナトールの目は人を射抜けそうなほど鋭い。でもわたしは、名前を呼んでくれたことがうれしくて、それどころではなかった。
「雨を! 雨をあがらせてみせるわ! アナトール王子のために」
「ほう。面白いことを言ってくれるね。でもその状態じゃ、魔術は使えないだろう?」
笑みを崩さずに問い返すアナトール。馬鹿なことを言うなという心の声はそのまま顔に出ていたけれど、そんなこと気にしない。
「杖。ガラクタでもいいからちょうだい。手首の鎖は繋いだままでいいから。魔力もここ数日食べていないから、ほとんど残っていないわ」
兵士たちが顔を見合わせる。人に興味のないわたしがここまで言うのは初めてで、「どうしたものか」と言いたげだ。すると、
「はっはっは。分かった。良いだろう。そこの者。薪を持ってこい。やすりをかければ、すぐ杖になる」
アナトールが腹を抱えて笑い出した。
分かってくれた?
わたしの頬は紅潮する。兵士はアナトールの言葉を聞くなり、杖を用意するためにアナトールを連れて牢を出ていった。
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