第3話

 思考が現実に帰ってくる。


 奈津さんは僕の話に興味なんかないのだというような動作で、パスタを巻いたフォークを口に運び、ゆっくりと咀嚼している。

 そして、彼女は突然、テーブルの脇に置かれた調味料のケースからペパーソースを取って、それを盛大に振りかけ始めた。

 毒々しい朱色の液体が飛び散って、パスタの表面を埋めつくす。これじゃあ本来の味が分からなくなりそうだ。


「よく分からないんだけど」と奈津さんは前置く。「子どもっていうのは大体みんなそういうものなんじゃないの? 特別なのはむしろ君の方だった。君は幼い時から他人の心情ばかりをうかがって、周りに合わせて動くことに命をかけるみたいな馬鹿な生き方をしてた」


「僕は変わるべきですか?」

「ううん。そんな君だから好きだよ」


 奈津さんが白ワインを勢いよく口に含む。


「私、アルコール駄目なんだ」と彼女は言って、さらに呷った。

 僕もジンジャーエールを一口飲んで、それから核心に触れる質問をした。


「奈津さんは、なんでここに戻ってきたんです? そろそろ教えてください」

「前に話したでしょ」

「僕が恋しくなったから? ふざけるのも大概にしてくださいよ。いつまで人の好意を利用したら気が済むんですか!」


 僕はあえて強い言葉を使った。けれど、知っている。僕なんかの言葉では、彼女を傷つけることすら叶わない。僕は、彼女に傷の一つすら残せない。


 奈津さんは一杯目をぐっと飲み干して、通りかかった店員に再び同じワインを注文した。その頬は明らかに紅潮し、露出した部分の腕がまだらに赤くなっている。


「辞めちゃったんだ、大学」


 ぽつりと、彼女が零す。そうして自嘲的な笑みを浮かべる。


「理由を聞いてもいいですか」


 僕は驚きを隠せないまま、遠慮気味に尋ねた。


「なにもかもに疲れちゃって。私、自分がこんなに駄目な人間だって知らなかったから。もっと上手く生きれるつもりだったから」


 奈津さんはそこで一息置いて、さっき注いでもらった二杯目のワインを自傷するみたいに煽った。


「ある時から、私、朝に起きられなくなった。信じられないくらい身体が重くて。嘘じゃないの、ほんとに。それから正体不明の不安がしつこく私を付き纏うようになってさ、そのせいでいくつも単位を落とした。勤務してたバイトも辞めた。朝が来るのが怖くなった。生きてる限り、人は頑張り続けなくちゃならないよね? 時間は無慈悲に過ぎていくし、普通のレールを踏み外した人間は冷たい視線に晒される。そういうのってすごく残酷なことなんだと思った。ねえ、景くん。君は知らないだろうけどさ、生きてるだけで心はすり減っていくし、大事なものは損なわれていく。それは取り返しのつかないことなんだよ。致命的に、どうしようもなく」


 口を開く度、彼女の声は湿りを帯び、瞳は涙に濡れていった。

 僕は何も言えないまま、言い訳するみたいにパスタを咀嚼した。奈津さんも血まみれのようなパスタを口の中に詰め込んでいた。


「要するに、奈津さんは僕に助けを求めにきたんですね?」


 一通り食べ終えた後、僕はそう切りだした。

 奈津さんは三杯目のワインを飲んでいた。


「貴女は僕自身が好きなわけじゃなくて、貴女を好きでいる僕が好きなんでしょう?」

「うん、そうかもね」


 呆気ないほど簡単に彼女は頷く。

 伏せられた目に、もう涙は溜まっていなかった。

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