第2話

「ずっと聞きたかったんだけどさ、君から見て、やっぱり私は変わった?」


 頼んだ料理がテーブルに運ばれてくる。

 奈津さんはフォークでパスタを丁寧に巻いた。爪に塗られたマニキュアが塗装中の壁みたいに剥がれていた。


 彼女に夏を捧げると誓わされたあの日から、半月ほどが経つけれど、僕たちは夏らしいことの一つもしていなかった。大抵は昼時に集まり、こうやって一緒にランチをする。それから、当てもなく歩き続ける。知らない駅に降りて、夜が更けるまで、ただひたすらに足を酷使する。


 奈津さんの求めている答えが分からなくて、僕は慎重に言葉を選んだ。


「……変わったように、見えます」

「どの辺が?」

「なんていうのかな。昔の貴女はもっと余裕がありました。いつだって自信に満ちていて、正しさの象徴みたいでした。そう、例えば――」



 例えば、小学三年生の頃に時を遡る。


 当時、僕はコンビニで万引きしたことがあった。何を盗んだのかのは曖昧だけれど、バックヤードまで連れていかれて尋問を受けた記憶だけは明確にある。両親や学校に関することについて聞かれたけれど、僕は堅く口を閉ざしていた。

 

「どうしてこんなことしたんだ?」


 何度目かの問いだった。僕は意地になって、無言を貫く。

 僕だって別に、したくてやった訳じゃないのだ。目の前に座る店長らしき小太りのおじさんに対し、いよいよ身勝手な憎しみさえ抱き始めた頃。店側のドアが開いて、一人の店員が小走りでこちらにやってきた。彼の後ろには、知り合いの女の子がいた。


「立て込んでいるところすみません。実は――」

「その子、私の弟なんです!」


 奈津さんが大声でデタラメを言った。店員はそこで初めて彼女が跡を付けてきていたことに気づいたようで、分かりやすく慌てていた。


 店長が煩わしそうに顔をあげる。

 奈津さんは臆する様子もなく、確かな足どりで僕の隣までやってきて、深々と頭を下げた。

 どうやら僕の現状を少なからず把握しているらしい。


「本当にごめんなさい! もう二度と迷惑はおかけしません! どうか今回ばかりは見逃してもらえませんか!」


 入ってくるなり熱心に謝りだした少女に、店長は気圧されている。


「ほら、景くんも!」


 奈津さんに無理やり頭を下げさせられた。

 それで、「ごめんなさい」と僕も素直に謝る。自分のせいで彼女に恥を欠かせたくなかったからだ。


「そりゃあ、私だって大事にはしたくないんだけどね、こういうのは謝ったからといって許されるもんじゃないんだよ。物を盗むってのはね、犯罪だよ、犯罪!」


 店長はいやに犯罪、というワードを強調し、机をバンバンと叩いた。


 はあ、と奈津さんがため息を吐く。

 突然、彼女は何かに打たれたみたいに僕の手を掴んだ。凄まじい力で腕が引っ張られる。僕は半ば強制的に走りだす。


「待ちなさい!」


 後方から怒鳴り声が響く。

 僕たちは脇目も振らず走り続ける。店を抜け、道路を駆ける。


 狭い路地に入った。肩で息をしながら、奈津さんは建物の壁に背を預けて僕を睨んだ。


「ねえ、なんでこんな馬鹿な真似したの」

「奈津ちゃんもそれ聞くわけ? 別に、僕がなにしたって勝手だろ」

「違う!」

「は?」

「クラスの子に命令されたんでしょ? どうしてあんな奴らの言うこと聞くの?」


 背筋がそっと寒くなった。

 彼女は一体、どこまでを知っていたんだろう。


「……これは僕が望んでやったことなんだ」


 僕は素直に自分の思いを吐露した。

 今思えば、その発言がいかに愚かしいかということが分かるんだけど、当時は真剣だったのだ。本当に。


「なにそれ、くだらない」


 奈津さんは軽蔑的な目線をこちらに寄越し、そう吐き捨てた。


「君の両親だって悲しむよ」

「それこそどうだっていい。みんなして両親がどうとかうざいよ」

「分かった。じゃあ私が悲しむからやめてよ。前から言いたかったんだけどね、君の、その無自覚な自己犠牲の精神が、私をいつだって苦しめるんだよ」

「……なんで」


 初耳だった。奈津さんは、僕になんて興味がないのだとばかり思っていた。

 彼女は僅かに顔を赤らめて言う。


「言わせないでよ。そんなの、私が君のことを好きだからに決まってるじゃない」


 心臓がぎゅっとなる。こんな気持ちになるのは初めてだった。

 奈津さんは膝を曲げて、僕に視線を合わせた。それから、僕の頭にぽんと手をのせて、ゆっくりと撫でてくれる。


「ねえ、約束してくれる? もう二度と、私を悲しませるような真似はしないって」

「うん」


 僕は自然と頷いていた。いや、頷くしかなかった。顔が、信じられないくらいに熱かった。

 この瞬間、僕は自身の胸中に潜んでいた奈津さんへの好意を明確に自覚した。


 しかし、僕がその想いを伝えられることはなかった。時は過ぎ、彼女は大学進学を機に上京し、それ以来僕たちは疎遠になったからだ。


 後日、僕は警察から両親と一緒に呼びだされ、事情聴取を受けた。母親はひどい混乱に陥って、僕に数々の言葉を浴びせてきたけれど、それらは何一つだって心に響かなかった。今となっては、苦い記憶だ。

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