恋の隔たりは三年

矢見マドカ

第1話

 恋の隔たりは、三年が相場だと決まっている。

 交際してから三年経つと、破局を迎える恋人たちというのは実に多いらしい。

 僕と彼女の年の差もちょうど三年で、だからという訳ではないけど。せめてあと一年。

 あと一年早く生まれてきたなら、貴女の背中に追いつけたのかもしれないと、そんなふうには思う。



 *



 夜の学校に忍び込んでいた。

 いつか、夏休みの真夜中に、僕が奈津なつさんと校内に侵入したのも今日だった。

 傍から見れば、馬鹿みたいな光景にしか映らないんだろうけど、それは僕にしてみればとても重要で、切実な行いだったのだ。

 暗く沈んだ廊下を進み、突き当たりで足を止める。途端に、過去の記憶が脳裏に浮かぶ。


「私たちが同い年だったら、こんな世界線もあったのかもね」


 窓際の後ろから二番目。つまりは僕の前の席に、奈津さんが座っている。こちらを振り返って僕の机に頬杖をつき、長い睫毛に縁どられた目を伏せ、皮肉げに口もとを歪ませている。ガラス越しに差し込む微かな月明かりだけが、彼女の姿を不安定に照らす。


「でも、貴女は僕を好きにならない」


 奈津さんは目を丸くして、それから呆れたみたいに微笑む。


「そうだね。私、年上が好きなの」


 今この瞬間にだって、僕は彼女の声音を鮮明に思いだせる。自信に満ちた、何にも揺らがない確固とした声音を。

 僕は強く頭を振る。そうやって、苦い記憶を振り払おうとする。そのまま教室の引き戸に手をかけて、横方向に力を入れた。木製の扉が軋んだ音を立てて――


 人がいた。

 窓際の一番後ろの席に、人影があった。


 一気に心臓の辺りが捩れ、冷や汗が滲んで、僕は逃げだす。

 誰かが追いかけてくる足音がする。

 もうすぐ階段に差しかかるという頃になって、その誰かは僕の腕を掴む。


「待って!」


 聞き覚えがあった。けれど、それは聞こえるはずのない声だった。


けいくん!」


 僕は泣きたいような気持ちで、目の前の彼女と向き合う。長い歳月を積みあげて形成されてきた憧憬が、一瞬にして崩れ落ちる。


「……奈津さん?」

 


 *



 誰にも見つからないよう細心の注意を払いながら、僕たちは校内から抜けだした。

 夏の夜更けは、外気がひんやりとしていて気持ちがいい。どこか夢見心地なままに、覚束ない足どりで、僕は奈津さんの隣を歩く。


「どうして奈津さんがここにいるんです?」

「ねえ、なんで君はそうやって私を責め立てるようなことを言うの」


 当然の疑問を投げかける僕に、奈津さんは悲痛を滲ませた声で怒った。

 

「まずは久しぶりの再会を喜ぼうよ」

「僕だって、そうしたいですけど……」


 不意に、彼女が足を止める。

 傍らに立つ街灯はしきりに明滅を繰り返していて、ただでさえ薄暗い夜道に、より不気味な雰囲気をもたらしている。


「納得いかないって顔だね?」

「まあ、はい」

「実はね、私は景くんのことが大好きで、途端に君が恋しくなった。だから、この寂れた町に帰ってきた。それじゃだめ?」

「誰がそんなふざけた理由で納得するんです?」


 奈津さんが宙を仰ぐ。その姿は、星を探しているように見えなくもない。けれど、実際はたぶん何も見ていないのだろう。

 やがて、呟くみたいに彼女は言う。


「ねえ、景くん。お願いがあるの」

「……なんですか」

「私とこの夏を過ごしてほしい」

「そんなの、いくらでも――」

「違うよ。君は分かってない!」


 簡単に肯定しようとする僕に、彼女は強く言葉を被せてきた。


「私とこの夏を過ごすっていうのはね、その他の全てを捨て去ることに等しいんだよ。君が必死に頑張ってるであろう受験勉強も、家族や友人と過ごすための時間も、全部ぜんぶ捨てて、私とだけ一緒にいてほしいの」


 そこで、彼女はようやく僕を正面から見据えた。


 僕は肩にかけているスクールバッグの持ち手の部分を、無意識のうちにぎゅっと強く握る。家を抜けだす際に、慌てて手にしてきたそのなかには、重たい赤本がそのまま入っている。表紙には、奈津さんが通っている都内の大学名。


「景くん。君は私に、この夏の全てを捧げる覚悟があるのかな」


 答えは決まっていた。悩む余地はなかった。

 こちらに選択を委ねるような物言いが、何だか奈津さんらしくなくて、僕はそのことの方がずっと気がかりだった。


「……捧げるだなんて。当たり前じゃないですか。これは僕の願いでもあるんですよ。僕が貴女と一緒にいたいから、そうするだけの話です」


 僕の返答に、彼女はひどく安心したような顔をした。


「うん、よかった。それが聞けて満足。君なら、そう言ってくれるって信じてた」

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