第5話

 僕は今、住宅街を彷徨っている。つまり負けを認めたのだ。


 奈津さんに、会いに行きたいというむねのメッセージを送り続けること三日(何だかストーカーみたいだけれど)、彼女から母方の旧姓だけが脈絡なく送られてきた。


 だから僕は、地道に家の表札を一つずつ確認して回るという、途方もない手段に出ている。近所の人からすれば不審者にしか見えなかっただろう。僕は汗だくになりながら、それでも目当ての苗字が記された表札を見つける。一般的な木造の二階建て家屋だ。


 覚悟を決めて、インターホンを押す。


 ほどなくして、玄関から現れたのは一人のお祖母さんだった。キッと結ばれた口もとが僅かに奈津さんを思わせる。


「すみませんが、どなたでしょう?」


 不審そうな目を向けられ、台詞を用意していなかった僕は、慌てて頭を回転させる。

 

「ええと、奈津さんの知り合いで……」


 お祖母さんはため息を吐いた。いやによそよそしい態度だった。


「悪いんだけどね、今あの子は人と会えるような状況じゃないの。また今度にしてもらえる?」


「でも……えっと、その」と僕は口ごもる。ここで引き下がる訳にはいかない。


「恋人なんです」


 僕は口から出任せを言った。決して願望がもれたとか、そういうんじゃない。

 途端にお祖母さんの顔が和らぐのが分かった。恋人、という単語は効果的だったらしい。


「あら、ごめんなさいね。あの子ったら自分のことをなにも話さないのよ」

「奈津さんは今、どうしてますか?」

「実は、部屋に籠もりきりでね。まともに食事も摂ってないし、ずっと塞ぎ込んでいるみたいで。あの子に会いたいのなら、二階の突き当たりの部屋よ」


 そう言って、お祖母さんは僕を家に招き入れてくれた。


「……いいんですか?」

「もちろんよ。ぜひ顔を見せてあげて」



 遠慮なく二階に上がらせてもらい、僕は奈津さんの自室の扉をノックする。

 返事はない。扉に耳を当ててみる。微かに扇風機の羽音が聞こえた。


「開けますよ」


 やはり返事はない。

 僕はノブを掴み、そっと扉を押し開けた。


 むわっとした空気に息が詰まる。

 物が散乱した室内の隅。脱ぎ捨てられた服の山の上で、奈津さんが体を抱え込むようにして丸くなっていた。手には鋭利な裁ち鋏を握っている。


「……奈津さん?」


 僕の頭に、最悪な展開が過ぎる。彼女は身動き一つしない。息すらしていないように見えた。


「ねえ、奈津さん!」


 近寄って、その体を揺する。

 むくりと彼女が身を起こす。拍子にひらひらと数本の髪が舞う。不格好に切り詰めたショートヘア。辺りに散乱する髪の束。充血した目。頬に残る涙の痕。

 僕はようやく、彼女の本当の異変に気づく。


「なんだ、景くんか。ほんとに来たんだ。最低なところを見られちゃったな」

「……髪を切ったんですか?」

「ちょっと、衝動的にやっちゃって……」


 奈津さんは何でもないことのように言って、へらへらと笑った。


「お風呂入ってきていいかな」

「……はい」


 約一時間後、お風呂からあがった奈津さんが戻ってくる。彼女はタオルも持たず、濡れた髪から水を滴らせていた。スウェットの肩部分が染みている。


 奈津さんは焦点の合わない目でこちらに近寄ってきて、そのままくずおれるように僕の肩に頭を乗せた。耳もとで彼女のか細い声がする。


「間違っても、責めたりだとか否定したりだとかしないでね。私がいちばん私自身にうんざりしてるの。死んじゃいたいくらいに」


 僕は彼女の背中に腕を回すべきか迷って、結局伸ばしかけた手を引っ込める。


「私のこと、嫌わないでくれる?」

「……好きです」


 あんなに言えずにいた言葉が、簡単に口をつくから不思議だ。


「うん、ありがとう」

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