クエン酸の小泉君

ゆきと

クエン酸の小泉君

 立花美咲は大学一年の夏に、家から徒歩十分のコンビニでアルバイトを始めた。今は三年生なので、二年働いたことになる。大学へは実から片道一時間半かかるため、シフトは土曜と日曜がメインになっている。たまに、平日の夕方のシフトが埋まらない時に、急きょ学校が終わってから入ることがある。

 あの日も、学食でランチを食べている時に、店長の吉岡久美から連絡があった。

〈お疲れさま。急で申し訳ないんだけど、今日の夕勤に出れないですか?〉

 美咲は一分くらい迷ってから既読にした。

《お疲れ様です。今日は四時限目まであるので、七時半頃からなら出れます》

 先週の土曜日に生理痛がひどくて休ませてもらったので、借りを返しておこうと思ったのだ。

〈助かります。いつもありがとう〉

 秒で返信が来た。美咲の授業の時間割を把握しているので、7時半から出れることを予想していたことだろう。

《ちなみに相方は誰ですか?》

〈ないしょ♡〉

 はぁ? どういうこと? 今日はもともと河本君と佐藤さんの日で、佐藤さんはめったに休むことは無いから、河本くんが休みなんだろうけど、♡って、どういうこと? 佐藤さんの方が休みってこと? 河本くんは高校二年生で、そう言われて見れば、背が高くて男前な方だしモテそうだけど、恋愛対象として意識したことがなかった。まったく久美さんも、こういうとこは、しっかりオバちゃんなんだから……。

《了解です》

 講義が始まる時間が近づいていたので、そっけない返信で切り上げた。


 七時三〇分ジャストに小走りでバックルームに入って、出勤登録をして、ユニフォームをはおって売場に出ると、二〇代くらいの見知らぬ男性がレジに立っていた。

「お疲れ様です。小泉と言います。よろしくお願いします」

 と、彼は笑顔で言った。日本人男子のお手本のようなイケメンだと思った。目や鼻といったパーツに際立った特徴はなく、身長一七五センチくらいの中肉中背で、髪の毛も短か過ぎない程度の黒の短髪だ。華やかな感じではない。でも欠点が全く無い。消去法で、イケメンと認定する他ない、といった感じだ。

「お疲れ様です。店長は? あ、私は立花です」

 美咲はちょっとキョドっていた。

「ちょうど入れ違いで帰られました」

「えっと、新人さんですよね?」

 まったく、久美さん、紹介して引き合わせるくらいして帰ってくれよ!

「はい、今日が初日です。でも、一年くらい別のお店で働いた経験があるので、レジとか通常の業務はだいたいできます」

「そうなんですね……。では、私は品出しをしてきますね」

 美咲は笑顔で真っすぐ見られるのに耐えられなくなり逃げ出した。


「すみませーん」

 美咲がカップラーメンを棚に出していると、入口の方からお客様の呼ぶ声が聞こえた。

「はい、しょうしょうお待ちください」

 と、小泉君の声がして、お客様の方へ向かったようだった。美咲が、そちらの方へ向かいながら様子を見ていると、彼が水入れの容器を持って、小走りで入口の方に向かっているのが見えた。

「どうしました?」近づいて美咲が聞くと、

「ポットのお湯が無くなっていたので足しておきました」と小泉君が言った。

「ポットは二台あるんですけど、一台は壊れてるんですよ。困りますね。早くどうにかしてもうらように、店長に言っておきますね」

 もうかれこれ一ヵ月近く、壊れたポットがバックルームに置きっぱなしになっている。故障の第一発見者は美咲だった。


「ポットのお湯が無くなってますよ」

「はい、しょうしょうお待ちください」

 レジに三人並んでいて、身動き取れない。隣のレジの王さんも無理そうだ。

「お湯が無いよ」

 そうこうしているうちに、別のお客様からも言われた。ガテン系の大きな男性だ。

「はい、しょうしょうお待ちください」

 どうしよう。仕方ない、先にポットを替えてくるしかないか。会計中のお婆さんは、お金を出すのに時間かかっているようだ。

「すぐに戻りますので、しょうしょうお待ちください」

 と、お婆さんに言って、バックルームにある予備のポットを取りに走った。同じ型のポットが裏にあるので、売場のものと差し替えるだけだ。一分くらいしか掛からないはずだ。磁石になっているポット側のコードを外して、売場のポット置き場まで慎重にダッシュした。売場のポットのコードも外して、裏のポットと入れ替える。

「お待たせしました」と言ってポット置き場を去って、

「お持たせしました」と言ってレジに戻ると、お婆さんは最後の一円玉を出し終えたところだった。

 アドレナリンが出ているのを感じながら満足していると、先ほどポットの前にいたお客様がレジの横にまたやって来た。

「ボタン押してもお湯が出ないよ」

 えぇー、コードがちゃんと刺さってなかったのかな? ロック解除ボタンは押してくれたのかな?

「しょうしょうお待ちください……」

 このセリフを言うのは何度目だろう。ショウショウという言葉になんだか違和感を感じた。ショウショウって何のことだ? ああ、少々か……。

 レジがやっと途切れたのでレジ休止中のボードを出してポットを見に行くと、コードはちゃんと刺さっていた。電源ボタンも点灯している。ロック解除ボタンを押すと、赤いボタンが点灯したので問題ない。

 出てくれぇ、と念じながら給湯ボタンを押した。ウンともスンとも言わない。モーターが空回りしているのでも、何かが詰まって動きにくいとかでもないようだ。全くの無反応。これは完全に故障だと判断して、元のポットを持ってくることにした。シンクで故障中のポットの中の熱湯を元のポットに移し替えた。一気に傾けたので、飛び散った熱い粒が腕に数カ所刺さったが、無視した。売場のポット置き場に持って行ってセットして、すぐに沸騰ボタンを押した。温度を見ると、八〇度になっていた。

「すぐに沸くと思いますので、しょうしょうお待ちください」

「うん、ありがとう」

 意外と優しいお客様で、ちょっとギャップ萌えしたのを思い出した。


 小泉君は、ポットのフタを開けて中を見ていた。見た目はまだ新しいのだが、中に湯アカというのか、茶色っぽい木の皮のようなものがへばり付いている。たぶんこれが原因なのだろう。

 久美さんが、修理に出すと五千円かかると言っていた。備品台帳から新品を買うと八千五百円くらいなので、買った方が早いと思うのだが、型が変わっているので今あるポットとコードを共有できるか分からないとのことだった。確かに、本体側でコードの差し替えが出来ないと不便だ。毎回、わざわざ台の後ろのコンセントからコードを抜かなければならなくなる。同じメーカーなので、もしかしたら同じコードかもしれないので問い合わせてみると言っていたけど、どうなっているのか……。

「これ、たぶん直りますよ」

 と、不意に小泉君は予言した。

「そこの百円ショップまだ開いてますよね。五分くらい出て来ていいですか?」

「はい、それは大丈夫ですけど……」

 この時間は客数が少ないし、納品も無い日なので、一人でもぜんぜん問題は無かった。ただ、新人の相方さんが勤務中に店外に出るのを許可したことになるのかと、微妙だった。


「在りました! これで直ると思います」

 と、帰って来た小泉君は嬉しそうにクエン酸と書かれた袋を見せた。黄色っぽい袋に白い粉がけっこう入っていた。おにぎり一個分くらいはあるかもしれない。これが百十円で売っているのかと少し驚いた。

 小泉君は、ポットの底にある網のキャップを外して、穴の上に袋半分くらいのクエン酸を山盛りにした。それから売場のポットからコップ二~三杯分くらいのお湯をくんで来て、穴にクエン酸を流し込むように、上からかけた。クエン酸はすぐに溶けて透明になって、穴の中に流れ込んだようだった。底に三センチくらいお湯が溜まった状態で、小泉君はコードをコンセントにさして、沸騰させた。

「二時間くらいこのままにしておいたら直ると思います」

 と、小泉君は再び予言して、レジに戻って行った。美咲も品出しの作業に戻った。ちょうどシフトが終わるのは二時間後だ。半信半疑で、どうなることか、どっちにしても楽しみだった。小泉君は、タバコの補充をしたりファーストフードをチェックしながらタブレットを操作したり、テキパキと動いていた。美咲は、これが初日の働きぶりかねぇ、とニヤニヤしながら呆れていた。


 二時間後、夜勤さんと入れ替わってバックルームに入ると、二人でポットの前に行った。

 美咲がわくわくして待っていると、小泉くんは、どうぞ、という感じで、美咲にボタンを押すようにうながした。

 ウィーーーーンという、静かな滑らかな音がして、円柱形のきれいなお湯が流れ出た。

「やったー!」と小泉君はガッツポーズをした。

「すごい、すごい、やった! クエン酸の袋半分だから五〇円くらいですよね。店長が修理するのに五千円かかるって言ってたので、五千円請求していいですよ。私から言っておきますよ。ほんと、マジでスゴイ」

 美咲は自分でも驚くくらい大げさに喜んだ。こんな声を出したのは、どれくらいぶりだろう。大学一年の時の新歓コンパ以来かもしれない。

「四九五〇円の荒利益で、粗利率九九%か、悪くないな……」と小泉君は言った。

 粗利率? 何かを何かで割るんだったよな……、と美咲が考えていると、

「嘘ですよ。サービスにしておきます」

 と、小泉君も浮かれているようだった。

 小泉君は、美咲が抽出したクエン酸入りのお湯をポットに戻した。それから、満タンまで水を足してフタをして、〈クエン酸で洗浄中です〉と書いたメモをフタの上に貼り付けた。ペン習字のお手本のような、正しく美しい文字だった。

「丸一日くらいこのままにしておくと中が綺麗になります。クエン酸水はトイレ掃除なんかに使えるので、冷やしてスプレーボトルに入れて保管するのがお勧めです」

と、ユニフォームをたたんでリュックに入れながら小泉君は言った。

「へえ、なるほど。わたし明日もシフトなのでやっておきます」

「ありがとうございます」

 美咲はポーカーフェイスで頭をフル回転させて、話題の候補をリストアップしていた。

 学生さんですか? 掃除のこと詳しいですね? 家は近くですか? 中学はどこですか? いや地元じゃないか。こんな人がいたら絶対に知らないはずがない。次のシフトはいつ……

「では、お疲れ様です」

 と、小泉君は、あっさり去って行ってしまった。

 美咲はしばらくの間、一歩も動かずに立ったままだった。ふと我にかえると、防犯カメラと目が合った。誰かが映像を見たら静止画像だと勘違いされるだろうと思い、苦笑した。告白してフラれたようなショックが少しあった。もし久美さんがこの映像を見たら、すべてを見透かされてしまうだろう、と思っていると通知が鳴った。やっぱり久美さんからだった。

〈今日は、ありがとう! 新人さんと大丈夫でした?〉

《大丈夫でしたけど……、あの人、何者ですか?》

〈ないしょ♡〉

 このやろう! ババァ!

《了解です》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クエン酸の小泉君 ゆきと @yu_ki_to

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画