第4話 茶房カフカ
青磁と約束した日曜日。少し遅れたことに焦りながら電車を降り、母に借りた日傘を開いた。日本の夏のこの暴力的な暑さは、ヨーロッパの夏に慣れてしまった身にはことさら堪える。銀色の裏地が張られた黒い日傘の陰に体を押し込めながら歩く。
工場街のはずれにそのお店はあった。茶房カフカ。古くて小さなお店だ。クリーム色の外壁も通りに面した両開き窓もきれいに手入れされていて、大切に使われているのがわかる。玄関ドアに掛けられたプレートは手作りなのだろう。クリーム色の板に角張ったフォントでレタリングされた店名と、店名を挟むように並んだ黒いカラスの絵の素人っぽさがアンバランスでユーモラスで、思わず店をのぞき込みたくなる。
日傘を閉じてドアを開けた。
カラン。
乾いた風が柔らかに頬をかすめた。正面から左手にカウンターが伸び、その奥の作りつけの棚にはいくつもの茶葉の缶が並んでる。左手にはカウンターに向かい合うように四人がけのテーブルがふたつ並び、右手には二人掛けのテーブルが四つ、縦に並んでいる。
四人がけの席のひとつに年配の男女が座り、ミントを浮かべたアイスティーを飲んでいた。右手奥に青磁がいて、二人掛けの席にひとりで座る若い男性客の注文を取っている。会釈して一番手前の二人掛け席に浅く腰かけた。ひんやりした風が肌を直接なで、ぐつぐつと煮えたぎる体からすうっと熱を奪っていく。
見るでもなく二人に目をやると、青磁が焦ったようにこちらにやって来た。
「青磁、遅れてごめん」
「いいえ、ようこそ。あの、席はここでいいんですか?」
「どういうこと? 風が直接当たるから? 外、すごく暑かったから、この席は気持ちいいわよ」
青磁がおずおずと奥のテーブルに目をやる。その仕草があまりにも商売慣れしていなくて、私は思わず笑った。
「あちらのお客さんの注文が先でしょ? 私はあとでいいから」
「ああ、そうですね、じゃあ、こちら、メニューになりますから、ごゆっくりご覧ください。すぐにお水を持ってきます」
「ありがとう」
とても居心地のよい店だ。飾り気がなく、使い込まれた木のテーブルと椅子が並んでいるだけなのは、お茶を純粋に楽しんでもらおうとする青磁ならではの気配りなのだろう。掃除が行き届いているのも几帳面な青磁らしい。
四人がけテーブルの男女はミントティーを飲みながら読書をしていた。ときおりグレイヘアの男性が赤いフレームの眼鏡をかけた女性に話しかけ、そのたびに女性は文庫本にしおりをはさみ、眼鏡をはずし、お茶を飲みながら答えている。
奥の二人掛けの席に座る男性は、ハードカバーの本を取り出して読み始めた。青磁ほどではないが手足の長い細身の若者だ。大学生だろうか。本に目を落とすその面立ちに、なぜか目を奪われた。と、男性が目を上げ、こちらを見る。ぶしつけな視線を不審がるでもなく、ふわりとほほえまれ、あたしは慌てて目をそらした。
注文したサクランボの果物茶が私のもとに運ばれてきたタイミングで、年配のカップルは店を出ていった。彼らのテーブルを片付けると青磁がやって来た。向かいに座る。
「本当にマスターやってるんだ。奈津から話を聞いたときには青磁に客商売なんてって思ったけれど、案外合っているのかもね」
「ありがとう。ようやく慣れてきたところです。茜さんがチェコに行ってしまってからもう五年ですね。あちらの生活には慣れましたか? 留学の時とはまた違うんでしょうね?」
「――青磁、まだあの子と付き合っているの?」
青磁の顔にさっと朱が差す。色白だから、とにかく目立つのだ。あのころ、顔を見ながら質問していれば、たとえ口をつぐんでいたって、すうちゃんへの恋心はすぐにわかっただろう。
「付き合っています」
「すうちゃんだけと?」
「――いいえ」
その言葉に思わずかっとなった。七年前の言葉がよみがえる。
「ぼくはあなたたちふたりともが好きです。みんなで生きていけませんか?」
「どうして? あの子のこと、本気で愛してないの? あたしを捨てて、あの子を選んだよね? まじめに責任取ってよ。他にも恋人がいるって、どういうこと? ポリアモリー? それって優柔不断や浮気の単なる言い訳でしょ? 何考えてるの――」
「ねえ、それくらいにしといてよ――」
いきなり声をかけられて驚く。奥の席にひとりで座っていた青年だった。なぜ口出ししてくるのか。むっとしながら、ひらめいた。
「あなた、もしかして青磁の恋人?」
青年が目を見張り、くすりと笑った。その仕草に苛立ちが募る。青年はさらりと答えた。
「そうだけど」
「にやにやするの、止めて。いつから青磁と付き合ってるの? 青磁には恋人がいるって知っていて付き合い始めたの――」
「茜ちゃん」
驚いた。青磁を見る。「どうしてあんたの恋人があたしの名前を知ってるのよ?!」青磁は困った顔でこちらと青年を交互に見る。その仕草に馬鹿にされている気がして青磁をにらむ。青年の低い声が響いた。
「茜ちゃん、本当に、俺のことわからない? そりゃあ、俺は高校の寮に入ったし、茜ちゃんはチェコに行っちゃったから、まる七年間会っていないわけだけど、そこまできれいさっぱり忘れなくてもいいじゃん?」
驚愕した。立ち上がり、青年の顔をしげしげと見る。すうちゃんなの? 似ている気はするけれど、小柄で線が細くって泣き虫だった、あのすうちゃん? 青年は青磁と顔を見合わせ、ばつの悪そうな顔で笑っている。
「俺、そんなに変わった?」
ちょっと恥ずかしそうなその口調はまぎれもなくすうちゃんだ。ひたひたと押し寄せてきた懐かしさや愛おしさは、次の瞬間、しぶきを立てて襲ってきた恥ずかしさと照れくささに攫われていった。返す波で怒りが掘り起こされてしまわないよう、あたしは浅く息をする。
「すうちゃん、あんた何しにきたの? というか、なんであたしが今日この時間にここに来るってわかったの?」
「ごめんなさい、ぼくが口にしてしまったんです。まさか帰国を伝えていないとは思わなくて」
「アカネちゃん、元気だった? ずっとアカネちゃんと話したかった。だから、思い切って来たんだ」
その屈託のない口ぶりは昔のすうちゃんそのままだ。あたしをうまく利用して、欲しいものは何でも、無邪気に笑いながら奪っていった。あのころの苦い気持ちがよみがえる。その苦さを助長するのは愛おしさだ。いつだって、あたしはすうちゃんが可愛くてたまらない。目の前で恋人を奪うという、最低な裏切りを受けたあとでも。
すうちゃんと青磁がキスしていたのは、すうちゃんがしかけたことに違いない。青磁にそんな度胸はない。あの日、血が上りがんがんと音が反響する頭の中で、またあの子にやられたとわかった瞬間、あたしは青磁の頬を思いっきり張り倒していた。すうちゃんの誘いにまんまと載せられ、あたしを裏切り、あたしとすうちゃんの仲をめちゃくちゃにして――あたしから青磁を失わせた青磁を。
「あ、あたしは、あんたなんかに会いたくなかった。約束もしていない――」
すうちゃんがあたしを抱きしめた。抱きしめるすうちゃんの思いがけない大きさに虚を突かれた。うちは両親とも大柄で、おかげであたしも178センチある。でもすうちゃんはいつまでたっても小さかった。小さいまま声変わりを迎え、もう背は伸びないのかもねと母がため息をついていたのに。いつの間にか、あたしの身長を越えていたんだ。
「ねえ、俺が泣いていたときには、いつもこうやって抱きしめてくれたよね。
アカネちゃん、俺はセイジが好きで、セイジも俺のことが好き、だから問題なんてないの。たしかにセイジには俺以外にも恋人がいるけれど、愛情は互いに独立してるんだ。アカネちゃんが親父もおふくろも好きなのと同じ。だから俺は不安じゃないし、幸せだよ。
それよりも、俺、あの日のことを――」
あたしは両手ですうちゃんの大きな体を押しのけた。
「それ以上言わないで。あたしはあんたを許す気はない。謝罪は不要。でも、ひとつお願いがある。あたしにじゃなく、青磁に謝って」
すうちゃんの顔にとまどいが浮かんだ。青磁と顔を見合わせる。青磁が神経質に瞬きをする。すうちゃんはもう一度こちらを見てしばらく黙っていたけれど、青磁に向き直り、低い声で言った。
「セイジ、ごめんなさい」
「もっと丁寧に」
「――俺が悪かったです。許してください。もう、しません」
素直に頭を下げて謝罪するすうちゃんを見て、何かがかさかさと音を立てて崩れていく気がした。とうに中味を失った形骸か、もとより存在しない幻か。青磁が苦しそうに顔をゆがめる。
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