第3話 すうちゃん
すうちゃんが家にやって来た日のことをあたしは鮮明に覚えている。小学三年生になった四月、初夏を思わせる強い陽光に、白いブラウスの腕やランドセルのくっついた背中を汗ばませながら帰ってくると、玄関にお母さんの靴があった。退院が遅れていたお母さんがようやく帰ってきたのだ。嬉しくなって、ただいまと言いながらリビングの扉を大きく開けると、ソファにお母さんが座っていた。私を見て「おかえり」とほほえむ。その傍らには、三月にお父さんが組み立てた白いベビーベッド。その中に寝かされていたのが小っちゃなすうちゃんだった。
のぞきこむと、死んだ子ネコが仰向けに寝かされているように見えた。「頭を触っちゃだめよ」お母さんがそう言い、私はうなずく。ふいにぐったりしていた子ネコは頭をゆらりと動かし、ふやあ、と声をあげた。ふやあ。何だ、これは? 泣いてる? 死にかけてる? 焦ってお母さんを見る。だって、ときどき遥香おばちゃんが抱っこしてくる綾乃ちゃんは、床の間に飾る二段重ねの鏡餅みたいにずっしりしてて、家の外でも聞こえるくらい、たくましい声で泣く。「綾乃ちゃんはもう八か月だからね」お母さんは笑ってそう言うと、立ち上がり、ベッドの中をのぞきこむ。すうちゃんはあっさりと泣き止み、ふたたび真っ白な布団の海に沈み込むように眠ってしまった。「お姉ちゃんに挨拶したのかな?」お母さんはそう言い「茜お姉ちゃん、よろしくね」と、あたしの頭をなでてくれた。
すうちゃんは小さかった。予定日を過ぎて生まれたのに体重は2000グラムに届かず、両親を心配させた。しょっちゅう泣いていたけれど、その声は不安になるくらい小さくて、しゃっくりにしか聞こえなかった。
赤ちゃんじゃなくなってもすうちゃんはよく泣いた。相変らず声をたてず、ただ、大きな目から涙をぽろぽろ流す。大声を上げないのは、そんな労力を費やさなくとも、必ず、すぐに誰かが気づいて抱きしめてくれると学んでしまったからだ。すうちゃんが顔じゅう涙や鼻水でぐちゃぐちゃにして、静かにしゃくりあげはじめると、お母さんもお父さんもすぐに駆け寄って抱き上げる。何て抜け目ない甘ったれなんだろう。私はそんなすうちゃんに苛立った。でも、苛立ちは心を奪われている証拠だ。苛立ちを裏打ちするのはとめどない愛おしさだ。あたしはすうちゃんが可愛くてたまらなかった。お父さんよりもお母さんよりも、あたしが一番、すうちゃんに甘かった。
あたしが中学三年生になったとき、すうちゃんは小学校に入学した。両親から溺愛されて育ったあの子は、極端に引っ込み思案の内弁慶になった。知らない人が来たり、新しいことをやらなければならないときには、怯えてあたしの後ろに隠れる。震えながら、アカネちゃん、と甘ったれた声で呼びかけられると、あたしは何でもしてあげたくなった。すうちゃんの悪口を言った近所の悪ガキに凄んで泣かせたり、ふたりでこっそりアイスキャンディーを三本ずつ食べてすうちゃんがおなかを壊したとき、お母さんは顔をしかめてあたしを叱った。そんなときすうちゃんは何ひとつ言わず、あたしの背中にしがみついているだけだった。でも、むくれたあたしが部屋に閉じこもると、「アカネちゃん、ごめんね」と大きな目を潤ませながら抱きついてきた。暖かくって湿っぽい小さな背中をとんとんと叩いていると、すぐに苛立ちは消え去った。
小学校三年生になったころから、すうちゃんはあまりあたしにまとわりつかなくなった。あたしの背中から飛び出し、友達を作り、自力で冒険を始めたのだ。
翌年、あたしは大学生になった。自宅生だったけど勉強に部活に忙しくなり、すうちゃんを構う余裕がなくなると、すうちゃんとの物理的な距離は一気に開いた。でもそれに反比例して、あたしはすうちゃんとの精神的な距離を縮めようとしていたのかもしれない。
大学三年生の時に一年間チェコに留学した。留学を終え帰国したとき、自分と同級生たちのベクトルが手の施しようがないくらい乖離しているのに気づいた。戸惑いながら周囲を見回すうちに気になりはじめたのが青磁だった。
彼は190センチを超える長身とおっとりした優雅さで人目を引いた。ただ、臆病だった。自分から他人と交わろうとはせず、いつも、困ったような顔をして笑っている。彼に興味を持った女の子も、ひとことふたこと声をかけ、気の利いた返事が返ってこないとわかると、それ以上の関係に進もうとはしなかった。とはいえ、彼が孤独を愛していたというわけではない。飲み会や学科のイベントにはよく参加して場の片隅でみんなを見ている。
青磁も一年間の留学から帰国したばかりで、彼だけが変わっていないように思えた。いや、彼にはそもそもスカラーしかないんじゃないだろうか。そう感じとった私は、彼に付き合ってほしいと告げた。
青磁と付き合いはじめると、あたしは彼をさまざまなところに連れ出した。演奏会、美術館、ハイキング。青磁はいつも、あたしの一歩後ろで真面目な顔をして、すべてを吸いこもうと目を凝らす。ときに後ろからあたしの肩を抱いたりしたけど、あたしの先には出ようとしない。そんな青磁に幼いころのすうちゃんが重なった。あたしは奇妙な満足感を覚えた。
青磁が愛していたのがフランツ・カフカだ。あたしにはカフカはわからない。何がおもしろいの、と尋ねると、『城』を薦められた。無理して読んだけれど、やっぱりわからない。青磁は柔らかなほほえみを浮かべ「面白くないところが魅力なんです」と言う。「そんな禅問答でごまかさないで」と語気を荒げると、困ったようにこちらを見た。「この話を読んでいると正義に守られたマジョリティと異端者であるマイノリティの関係があやふやになってくるような気がして。村人たちはしかつめらしい話を繰り返しますが、その言葉が重なるほど、いびつで滑稽に思えてくるんです」。
いつしかすうちゃんと青磁が知り合った。幼いころとは打って変わって物怖じしなくなったすうちゃんだけど、初対面の人には警戒を示した。青磁にすんなりなついたのを見て、ほっとすると同時に違和感を持った。青磁がすうちゃんに向ける目も気になった。でも、二年後、あの子の部屋でふたりがキスしているのを見せつけられるとは思いもしなかった。すうちゃんが十五歳になったばかりのことだった。それから七年、あたしは一度もあの子に会っていない。
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