心臓
冬の朝は遅い。そう思っていたのは昨日までだ。朝がくるのが早すぎる。今日は特にそう思う。帰ってきたのが夜の二時過ぎで、そこから風呂場とリビングを何往復かして、やっとひと息ついた。気分を入れ替えるためにコーヒーでも飲もうかと、立った台所の小窓から薄明るい朝日がにじんでいるのだから絶望もする。
なにも、できていない。
レポートも休息もなにもかもだ。
疲労だけがある。あとはむなしさ、だろうか。
人助けをしたのだと思えば聞こえはいい。しかしいまとなっては、助けたのが果たして人なのか自信がなくなってきているところだ。生首だけの男と、その下半身。上半身はない。そんなわけのわからない生き物が、おれの布団を占領している。目を離したら消えていてくれないか、朝になったら消えてなくなる、そんな幻覚であってくれないか。目頭をきつく押さえ、放す。毛布からは血色の悪そうな男の足がはみでている。
信じがたい現実だ。近所の塀に突き刺さった尻が、実は身体の上半分をなくした哀れな尻で、近くに落ちていた生首がやかましく騒ぐのでおれはいま知らん男の生首と下半身を持ち帰らされている。なんだそれは。
ありのままを話したところで、警察も消防も救急も信じてくれるとは思えない。おれ自身でさえ信じられないのだから、他人に納得させるのは不可能というものだ。
……にしても、よく寝る気になるもんだ。
生首は
早起きしたと思って、せめて生産性のあることをしよう。
そう思って気持ちを切り替えなければやっていられない。今日は木曜日だ。燃えるゴミの日。ゴミ出しでもしておこう。
台所の隅にかためておいたゴミ箱の中身を、回収用のビニール袋に移す。共用のゴミ捨て場は階段を降りてすぐ裏手だが、夜明けの空気は肌に冷たい。コートを羽織って靴を履き、ゴミ袋を手に外へ出た。
嫌な予感がしたのはゴミ捨て場が目に入ったそのときだ。
カラスよけのネットの上に、一枚の上着が広げられていた。背の部分が全体的に赤色で、袖の部分だけが黒い男物の上着だ。ネットの下には前日の晩に置かれたゴミ袋がすでにいくつか詰まっていて、赤い上着はゴミ袋を布団代わりにうつ伏せになっている。押しつぶされたゴミ袋は上着の形にへこんでいる。質量がある。
もう説明は不要だろう。
おれはそいつの肩をつかんで引っくり返した。
うっと喉から声が漏れたのは、別に首の切断面がグロかったからじゃない。ごろりと転がった、そいつの胸元がゲロまみれだったからだ。朝から最悪のものを拝まされた。早起きなんてするもんじゃない。こんなものを見せられるくらいなら、ゴミ収集車がくるまで寝ておけばよかった。
目の前にあるのは酔っ払いの上半身だ。
胸は上気している。心臓は動いている。
だがあるべきはずの場所に首はない。下半身もない。そいつらならいまごろおれの部屋の布団でのんきに丸まって休んでいる。深夜にゴミ捨て場で行き倒れて眠る、そんな終わりの酔っ払いの末路をたどったのは、この上半身だけだったらしい。
これですべてのパーツがそろったというわけだ、文字どおりに。
「……うるせえよ」
夜の色が濃い朝焼けに目を向ける。吐く息が白い。
考えるとうんざりする思考に追いつかれそうで、おれは上着のそでをまくった。
とりあえず運ぼう。それで洗濯機を回そう。そのあいだ、朝練がてらマラソンでもしよう。最近走り込みをサボっていたからちょうどいい。たまには家で朝飯を食おう。食ったら一回昼まで寝よう。レポートはいったん忘れる。単位のひとつふたつ落としたところで、路上で身体を三分割して落とすやつよりはましだ。おれはそう心に決めた。
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