はーとがみつからない(下)



 返事はない。沈黙は肯定だ。スローイングの体勢を取る。投げこむと言っても実際には塀の向こうに落とすだけだ。あとは手を放すだけという段になって、首は「待って」と声を上げた。

「声でかい。なんだよ」

「え。これ冗談じゃなくマジで言ってる? やだやだやだやだ無理無理無理怖い怖い怖い。一緒に行ってくれる流れだったろ?」

「そんな流れはなかった。不法侵入だからなこんなん。こっちは年明けまでにレポート十本書かないと単位落とすんだよ、警察沙汰になったら終わりだ」

「レポート十本? なにそのクソ時間割。選択ミスってるって。いやほんとに言ってる? 頭使ってる? じゃあもしさあ落ちた先に池とかあったらどうすんの? ガーデニングの串みたいなやつとかあったら? 死ぬじゃん? おれこんな、酒とか飲んでるし、首だけだし、こんななのにこんなかわいそうとか思わないわけ?」

 うるせえなとしか思わない。なにが俺的にはこっちのがオススメだ。なんでぜんぶ人にやってもらおうとしてんだこいつ。

「自分で勝手に酔って身体突っ込んだんだろ」

 首がここで騒ぎ続けると、声を不審に思って住人が様子を見にきかねない。仕方なく塀の上からいったん下におろす。首がマジかこいつという目でおれを見るので、もちろんマジだという目でこちらも返す。おれからすると見ず知らずの他人にそこまで善意を期待しているほうが信じられない。

「待って。待って。えーっと、じゃあ、とりあえず向こうまで連れてって。で、身体につなげてくれたら、穴から脱出するのは自分でやるから」

「そんな磁石みたいにくっつくかよ」

「くっつけるから! だって見ろよこの高さ、おれが向こうに飛ばされたって、自分の首拾えないし、地面に落ちて終わりじゃん、なにもできないじゃん、無意味じゃん」

「おれの知ったことじゃない」

「そんなこと言わないでさあ、ここまできたら助けて帰ろうよお。そしたら就活とかで学生時代は人命救助で生首を助けて感謝されましたって言えるじゃん。面接官もきみそれどういうことって食いつくから。大ウケだから」

「アホだと思われるだろそんなん」

 往生際の悪い生首だ。足のほうはさっきの暴れようが嘘のよう、とっくにあきらめてぶらさがっているというのに。

 というのも、穴の位置が微妙に高いのだ。腹よりも少し高いくらいの位置にあるせいで、足が地面についていない。塀の向こうはどうだろう。足を見るぶんには腕も細長そうだが、地面につくかというと微妙だ。人命救助。……人命、救助。首の言うことを鵜呑みにするわけではないが、たしかにこの状況を見て泥棒とは思わないだろう。現に、泥棒ではないのだから。

「……じゃあ、向こうまで。連れてったらおれは帰る」

 それでいいだろ、と念を押す。

 調子が良いもので、生首はわかってるとばかりにゆるんだ口をわざとらしく閉じて見せた。


 さて、目線の高さはなじみのある高さだ。走り高跳びはまず目線の高さからはじめて、どんどんバーの位置を上げていく。おれの専門はトラックだが、跳躍も好きだ。この高さなら助走はいらない。塀は塀だ。ただの壁。バーと違って触れても反則にならない。おれが体重をかけても折れやしない。助走はいらない。二度三度と足を慣らし、スニーカーが足に合っていることを確認する。周囲に人の姿がないことを確認する。おれのコンディションよりこちらのほうがよほど重要だ。人に見られるわけにはいかない。幸い無人だ。ならばいい。跳ねると同時に塀に手を置き、乗り越える。塀の向こうには何もない。ならば安心だ。安心して着地する。腕の中、すっげ、と首が小さくこぼしたのが聞こえた。

 ……いや、何もないのは変じゃないか?

 尻がはまっていたのはこの裏側だったはずだ。ならこっち側には上半身が突き出ていないとおかしい。しゃがんだまま振り返る。たしかに塀には同じ高さに穴が開いている。

 だが、ない。

 上半身がどこにもない。

 暗がりに見える穴は、向こう側から下半身が詰まって塞がっている。

「どういうこと?」

 首が小声で言った。訊かれても、おれにもわからない。

 降りた先の庭は、おれの下宿の部屋と同じくらいの広さだ。つまりそう広くない。隠れられるところも限られている。明かりをつけるのは抵抗があるが、スマホのライトを窓に向けないよう慎重に、地面と、軒下を照らす。

 やはり同じだ。

 それらしきものはどこにもない。

 上半身は塀の内側から忽然と消えていた。

「あんた、そういやなんで溝にいたんだ」

「え、おれ?」

「尻が詰まって出られなかったんだろ。なのになんで塀の外に首があるんだ」

「……えー、なんでだろ。起きたらもうはまってて……逃げた、とか?」

「逃げたって」

「俺わりと細いから、門の下とか、やろうと思えばまあくぐれるよなって。そっから逃げたとか、腰から上だけ。で、頭はなんか、うっかり落とした? とか」

 へへへ、と首が照れ照れはにかみ笑った。

 得体の知れない生態に今更ながらめまいがする。

「じゃあこっちに来たのは無意味だったと」

「いやいやあるある、足、ほら、俺の足」

 おれは尻がはまっている穴を改めて見直した。暗くて助かった。穴をふさぐように身体の断面がおさまっているらしいが、暗くてよく見えない。明るかったら吐いていたかもしれない。これを押すなんて絶対に嫌だという願いが通じたのか、尻が詰まってしまった原因はほどなく見つかった。尻がというより、ベルトの金具が穴の出っ張りに引っかかっているらしい。どうりで足だけでがんばっても抜け出せないはずだ。暗闇に苦労はしたが、どうにかベルトを抜いてやる。これなら向こう側から脱出させられるだろう。

 長居は無用。入ったときと同じ要領で塀を乗り越える。

 足のほうの問題はこれで解決だ。

 上半身は見つからないが、それはおれの問題ではない。なんなら足のほうも、解決してやったのはただのなりゆきだ。残す問題は――


「てかさ、一回出直さない? ヤバい寒いし。俺ちょっと耐えらんなさそう。鈴之助クンちってここからどのくらい? 近い?」


 ――この生首だ。

 どうやら次は家までついてくるつもりらしい。いやそれよりも、

「……名前、なんで知ってんの」

「ん。なにが?」

「言っただろさっきおれのこと、鈴之助って。名乗ってないよな、まだ」

「そうだっけ? 教えてくれたと思ったけどなあ」

 小脇に抱えていた首を持って真正面に据える。

 不健康そうな色白の面長。濡れて張りついてはいるがパーマがかった長めの黒髪。両耳ともにピアスだらけの若い男。改めて見てもまったく見覚えはない。正面から見据えられても、首は気まずそうな様子ひとつ見せず、にっと歯を見せて笑った。

「だって、俺のこと地べたに転がすようなことするから。カバンとかも開けっばで超不用心だし、定期入れに学生証入れとくとか、真面目かって。てか鈴之助くんって東横大? じゃあ俺と同じじゃん。友達ともだち」

「最悪」

「そんなこと言うなよ。俺たちもう友達みたいなもんじゃん。それに俺こんなとこにこんな状態で置いていかれたら、朝までに凍死するし。泥酔で路上で凍死、手足はバラバラで上半身は見つからず。怪事件じゃん。そうなったら鈴之助くんも困るよなあ」

「無関係だ」

「そうかもね。でも警察はそう思ってくれるかなあ」

 生首の男は目を細めた。

「俺のデニムもだいぶ荒っぽく触ってくれたし。争った痕跡? みたいなさ。指紋とかどのくらいわかんのかな。あっはは。鈴之助クンさ、駅のほうから歩いてきたろ。いま帰りだよなあ。終電、他に何人くらい下りた? おれさあ、ここでけっこう長いこと転がってたけど、誰も通らなくて。警察はまず目撃者を探すよなあ。そうなったら駅前の監視カメラとか? たどってすぐに発見だ。もしおれが死んだら無罪潔癖ショーメイできんの?」

「証明も何もおれが来たときにはあんたはバラバラだった。こんなわけわからんことするわけないだろ」

「理由とか動機とか別に知らんけど。俺もなんでこんななってるかわからんし。でも鈴之助クン俺の財布盗ったよな。ゴートーチシショウガイザイ」

 言われて気づいた。たしかに壁に生えた尻のポケットから財布は抜いた。いまもおれのカバンの一番上に載せてある。でもそれは状況が状況というだけの話で、こいつに受け取る手があればとっくに返している。

「あ、いいよいいよ。どうせ俺いま持てんし。持てないから、俺が鈴之助クンに頼んで、預かってもらってただけし。落ち着いたらまた返してくれたらいいから」

 立派に人を脅しているというのに、首の口調は一貫してへらへらとして変わらない。その余裕ぶった口ぶりから、日頃から他人をうまく使うことに慣れているやつなのだということはたやすく想像がついて、その瞬間、ぜんぶがぜんぶ面倒くさくなった。


 トラックに立ったときを思い出す。

 鼻から息を吸い、冷たい空気を肺に溜め、ゆっくりと口から吐く。

 そうすると、不思議と気分が落ち着いた。

 

 その場にしゃがんで生首を地面に置く。

 続いてカバンの中から財布、煙草の箱とライター、ズボンのベルトを首の前に並べる。

 首の男は目をぱとぱちとさせておれと手荷物とを交互に見た。

「ん? うん?」

「じゃあ」

 おれは立ち上がった。

「は?」

「帰る」

「さっきの聞いてた? 事件なったら鈴之助クン絶対まずいって。わかってる? 言っとくけど俺このまま行くなら大声出すから。人がくるまでわめくし騒ぐし、そうなったら困んの誰かわかってる?」

 首がとやかく言う。ぜんぶ無視した。知らん。帰る。家では十本の提出レポートがおれの帰りを待っている。もっと早くにこうするべきだった。これ以上こんなやつとは関わらないほうがいい。溝に戻さなかったのはせめてもの情けだ。翌日もしも事件になっていたらおとなしく自首しよう。帰る。走って帰る。こういうときのための陸上部だ。


「おれほんっっっっとに困ってて!」


 場をわきまえない大声につい足が止まる。

 ここで振り向いたら負けだ。構わず足を前に進めるべきだ。


「……トイレ行きたい」


 思って、いたのだが。

「たぶん、たぶんだけど、俺さあ、だっていま下の感覚とかないけど俺、飲んで帰ってたところで、これから駅、行くところで、あーあ、さみいな便所寄ってくりゃよかったな、駅まで歩くしって」

「声おさえろって」

「直前まで! こんななる直前まで思ってて、いま、いまついさっき、そうだったなって思い出して、でもいまこんなで、つながってないからぜんぜん、ぜんぜん忘れてて」

 首が死ぬほど情けない声でまくしたてる。おれの手は知らずと口元をなでていた。壁から生えていた両足が妙に内股だったことを思い出したからだ。そしていま、足は変わらない位置に、寄っかかるようにして生えている。違うのは、足の先が両方とも地面についていることだ。

 引っかかっていたベルトを抜いてやったのだから、こいつはいつでも脱出できる。にもかかわらず、足は壁のそばを離れようとしない。おれにはそれが自分の意志で壁のくぼみに身を引っかけ、横転するのを防いでいるように見えた。

 倒れないように、少しの衝撃でさえも致命的になるから慎重に、万が一にも倒れないように。

「鈴之助くんちってここからどのくらい? 近い? すぐそこ? もう見えてる? 俺たぶんそんな重くないし、俺が邪魔なら足だけでもいいから、ちょっと走って、抱えて、寄らせてくんないかなあ」

 泣き言とは泣きながら言うから泣き言というのだ。最初からそう言えアホ、一丁前に脅しで人を動かそうとするなと口にするのをぐっとこらえる。

 ……走って10秒。

 言うよりも、足を動かすほうがおれにとってはよほど早い。




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