心臓が見つからない

深夜

はーとがみつからない(上)


 下半身が生えていた。壁から。レポート地獄の果てに見る幻覚かと思って目をすがめる。しかしある。下半身がある。生えている。街灯の影にあるせいで見づらいが、紛れもなく人間の下半身だ。ズボンを穿いた二本の足が、尻を天に向けて力なく垂れさがっている。

 引き返すか、このまま進むか。

 とっさに考えたのはその二択だ。おれは男で大人で、人並みくらいに体力はある。だが時刻は深夜一時過ぎだ。このあたりはさびれきって空き家も多く、駅から十分は歩いたが人間の姿なんてどこにもない。そこにたっての不審物だ。警戒もする。

どうするか迷ったが、結局はこのまま進むことにした。下宿はそこの角を曲がった先だ。だれのいたずらか知らないが、ここまできて遠回りをするのもしゃくだ。幸いにも道幅はある。後ろをすり抜けるだけの余裕は十分だ。

 そう思って歩き出したはいいものの、不気味は不気味だ。遠目にはマネキンであるようにも見えた。服屋でよく見る腰から下だけのマネキン、よく見るやつだ。ちょうどこの下半身もジーパンを履いている。そういう、下半身だけのマネキンが壁に立てかけられているのだと思おうとした。

 だが、近づけば近づくほど、どう見ても人間の足だ。

 そいつはたぶん男で、若者で、あちこち破けてボロボロのジーパンを履いて、棒っきれのように細長い足の持ち主だ。そしてそいつは人の家の石塀をぶち抜くかたちで、上半身を塀の向こう側に突っ込み、尻から下だけをこちらに向けている。

 だから次に思ったのは、まさか死んでるんじゃないだろうなということだ。とっさにコートのポケットに入れたスマホを確かめる。110か、119か。事件ですか、事故ですか。見た目だけでは判別できない。事件かつ事故だ。だが、どうだろう、軽く膝を曲げてぶらさがる足は、どことなく死体という感じがしなかった。

 セミは、と思った。セミは、足を広げているのが生きてるやつ。死ねば体が縮んで足を閉じる。だから道でひっくりかえっているセミは、足を曲げていれば死体だ。人間の足はどうなのか。とうとう手の届く距離まできてしまったが、足は二本とも身動き一つしない。


「おい」

 反応はない。もう一度、強めに「おい」と呼びかける。

「あんた、だいじょうぶか。おい、聞こえてるか」

 夜中の住宅街はしんとして、おれの声はさみしくなるくらい大きく響いた。あまり大声を出すと周囲の住人が起きてくるだろう。二度三度と尻を叩く。おれにはまだ、これが騒ぐような事態なのか判別がつきかねていた。なにせ壁から突き出た尻だ。十二月の寒空に壁から尻。なんだそれは。

 叩きながら呼びかけると、尻に動きがあった。

「だいじょうぶか。救急車呼ぶか。しゃべれるか」

 壁の向こうからの返事はない。だが足の主は所在なさげにもぞもぞとジーパンの足をすりあわせた。生きている。死んではいない。その事実はわずかながらおれを安心させた。遅れて、改めて見ると間抜けすぎる。

「こんなとこでなにやってんだ。ここあんたんちか?」

 近所とは言え下宿だ。近所付き合いはまるでない。空き家だった気もする。

「このままだったら警察呼ばれるぞ。こっち出てこれそうか」

 反応はない。聞こえていないということはないはずだ。それともおれが向こうの声を聞き取れていないだけか。だまって耳を傾ける。夜は夜として相変わらず静かだ。ジーパンの足がどこかあせったように宙を掻く、衣擦れの音だけがせわしない。しかし動きに反して呻きや息づかい、そういうものは感じられない。塀と言ってもおれの目線の高さと同じくらいの塀だ。

 返事くらいしろよ。

 急激に、相手をしているのが馬鹿らしくなってきた。

 似たような光景を思い出す。大学前の飲み屋通りだ。晩に通るとよく学生が路肩で酔いつぶれている。さっきも二、三人落ちているのを見てきたところだ。こんなひとけのないところで酔いつぶれるやつがいるのかは知らんが、ひとがレポートの締め切りに追われている中、こいつはなんだ、馬鹿みたいに塀にあいた穴だか隙間に身体を突っ込んで、尻だけ出して。本当になんなんだ。


「大丈夫そうならもう行くから。いいよな」

「まっ……!」


 突然に声が聞こえ、おれは大いに驚いた。

 声がしたのが塀の向こう側からなら、おれはちっとも驚かなかった。だが声は、後ろから聞こえた、だれもいないはずの後ろから。だれだ。だれもいない。だれがいる?

 気のせい、ではない。

「……あーっと、そのぉ、びびらすつもりとかなくてぇ」

 どこか間延びした男の声はそう続けた。

「声かけようって思ってたんだけどさあ、タイミング見計らってて、だって、どう考えても変だし、俺が、いや、俺がっていうかさあ、なんかぜんぶ変で」


 ……側溝だ。


 声はたしかにそこからしていた。尻が生えているのとは反対側、塀に沿う溝。蓋のないただの溝だが、とてもじゃないが人間が隠れられるような幅をしていない。

「いまって何時くらい? もしかして終電終わった?」

 声を上げなかったのは、現実感がなかったからだ。

 コートのポケットからスマホを出し、上にスワイプしてライトをつける。溝の中にいたものは急な光を浴びせられ、ぎゃっと声を上げた。とてもじゃないが、信じられない。

「……溝って、そんな深くないよな」

「やっぱ、そうよな」

 と男は言った。

 溝の中の男はおれのひとりごとに答えて言った。

「起きたらこんなんなってて。これ何の罰? なにこれ? ぜんぜん動けねぇし、さすがにこのままだと何らかの死因で死ぬよなあって、マジで困ってて。あのさ、悪いけど先に上あげてもらっていい?」

 溝に入った男の生首は言った。

 言って、引きつった笑みで、生首はおれを見た。

 スマホのライトが前後を照らす。隠れている身体はない。首は首だ。溝にはまったボールと同じように、生首が溝にはまって男の声で話している。

「お兄さん聞いてる? ほんとに、寒すぎて手足の感覚なくなってて」

「冗談にしては笑えねえ」

「そ。笑えないくらい寒い。寒い越えて痛い。だからごめんけど早く」

 痛い。痛み。頭のけがは素人が触ったらまずいんじゃないかと思ったが、生首だ。怪我どころの話じゃない、頭だ。頭が、頭だけだから。自分で自分が混乱しているのがわかったが、おれはとにかく男の言葉に従った。

 首の、断面のほうに触るのは抵抗がある。そういう配慮から顔にかかった前髪をつかみあげたのだが、痛ぇと首は悲鳴を上げた。

「もの扱いすんな!」

「どこ持ちゃいいんだよ」

「わかるだろ、ふつうに両手で、そーっとやさしく!」

 注文にならって左右の手を耳の上あたりに添えて持ちあげる。首は、重い。嫌な重みだ。ボールの重さではない。中身に液体が詰まった重みだ。そして冷たい。おれの手もたいがい冷えていたが、首の冷たさはそういうものではなく、首が濡れているための冷たさだった。しんなりと湿った髪が手の甲にまとわりつき、気味が悪い。首は男の首のくせに髪が長く、溝に転がっていたせいで髪には落ち葉だらけだった。

「うわすご。なにこれ。やば」

 首は目だけできょろきょろと下を見渡した。

「あー、なんにせよおにいさんが通りかかってくれてよかった。ここマジでひと通らんね。朝までこのままだったらほんと死んでた。助かったわほんと」

「これ助かってるか?」

「なんでおれ生きてんの?」

「こっちが知りたい」

「や、これやっぱ首から下ないよな? あせったー。薄々そうじゃないかって思ったけどさあ、幽霊的な? 自分がどうなってるか自分じゃわからんし。これもう死んでんのかなって不安だったから、いやー、首だけでも意外と生きてるもんだな」

「生き、てるか?」

 死んでるだろ。どう見ても。

 なんせ首だけだ。首だけで生きられる生き物はいない。いるのかもしれないが、人間はそういうふうにできていない。にもかかわらず男は首から下がないこと以外、のんきなもので、しゃべればしゃべるほど緊張感が失われていく。年はたぶん同い年くらいだろう。キャンパスですれ違ってもそう違和感はなさそうだ。そんな男の首を、いまおれは両手で持っている。その事実がじわじわと現実をむしばんでくる。少なくとも両手に感じる感覚は現実だ。とても夢だとは思えない。

「とりあえず、いまからでも救急車呼んだほうが」

「救急車? いいっていいって、酔って救急車とか恥ずいし。あ、でも終電終わってるかあ。さすがに朝まで外はなあ……寒いし、こっから歩くのもめんどいし」

「歩く、のか」

「あ、俺って酔っててもわりとしっかり歩けるから」

「はあ」

「あ、でもだめだわ。足ないし。え? 足ないよな。あれ? ない? なんで?」

 どこまで正気でしゃべっているのか、まったくわからん。

 だが生首が濡れているのは、血ではなさそうだ。おそらくは側溝に水でも溜まっていたのだろう。こうしてしゃべっていると血の匂いはせず、酒臭さが鼻につく。だからといって安心感はない。不信感が湧くばかりだ。

 おれは無言で、首を壁から生えた下半身のほうへ向けた。

「あ、俺だ。え。刺さってる。なんで?」

「さあ……」

「え。なにこれ夢? ごめん、あの、もうちょっと近く行ってもらっていい?」

 ジーパンを履いた下半身は、相も変わらず壁のぶらさがっている。生首は自分のことを棚に上げて「え、なにこれキモ」と連呼した。……自分で自分の尻を拝むってのは、たしかに貴重っちゃ貴重という気もする。

「とりあえずスマホ取って」

 首があまりに自然に言うので、最初はおれに言われたものだとわからなかった。

「ねえ、スマホ。どっかポケットに入ってると思うから」

「おれが?」

「うん。」

「あんたの?」

「いやだって、おれこんなだし。手、もなんか、ないっぽいし」

 流されている。それは自分もでもそう思う。

 おれは立ち去るタイミングを完全に失っていた。気持ちの上ではいますぐにでも帰りたいが、怪我人(と呼ぶのが正解なのかは判断に困るが)を置いて去るのは良心が咎める。

 スマホくらいならいいか。

 おれは首を片手で持ち直し、足の右側のポケットに手を差し入れた。

「うおっ」

「おわ!」

 急に飛び跳ねた足に驚き、あわてて手を引っこめる。

 蹴り飛ばされない位置で、おれは生首の顔をうかがった。生首は何度も瞬きをしていた。本当に驚いたのだと思う。おれと目が合うと、たぶんやつは首を横に振ろうとして、首だけしかないのを思い出し、ますます瞬きの回数を多くした。

「ちがう。俺じゃない。ちがうって。触られた感覚とかなかったし、動かそうとしても、さっきから、ぜんぜんつながってないみたいな、おれがわかるのってほんと、首から上の感覚しかなくてぇ」

「本当にあんたの足なのか、これ」

「トーンホライズンの七十年物!」

 言ってから、首はおれがわからんという顔をしたのを察したのか、察し悪いなこいつという顔をして「デニムだってデニム。ヴィンテージデニム。あれ古着屋でさあ、たまったま入荷してんの見つけて即効で取り置き頼んで。一点ものだからギリギリまで値段交渉して、スロで貯まるまで三ヶ月もかかって、ほんっとにほしかったやつで」

「へえ」

「二つとない品だから。間違いないから」

 破れて膝が見えてるわけわからんジーパンが、こいつには大事なものらしい。

 俺は肩にかけていたカバンを地面に下ろした。首も置く。邪魔だからだ。足がものを聞くのかどうかは知らないが、周囲に人がいることを確信した足は見るからに警戒していた。足の裏が地面につかないせいで踏ん張れないらしい。妙に内股に縮こまっているのを見るとかわいそうになってきた。

 もし別人だったらおれは変質者だが、そこはもう首の言うことを信じるほかない。

 強張った足のうち、左足だけを持ち上げ、股の間に強引に身体を押し込んだ。案の定、足は暴れ出したが、人間の身体は、腿の内側に割り込んできたものを追い出せるようにはできていない。蹴りつけようとしてきた足を腕で固定し、空いた手でポケットをまさぐる。足からしたら何をされるのかわからないのだから恐怖でしかないだろう。足はやたらめったらに暴れたが、塀の向こうからは、やはりというべきか、抗議の声ひとつ、物音ひとつしなかった。

 で、結果はというと外れだ。

 出てきたのは尻ポケットの二つ折り財布。それから煙草の箱、一緒に入っていたライターだけだ。

「うそ」

 結果を見せると、首はあからさまに落胆した。

「えー、じゃタクシー呼べないじゃん。最悪」

「タクシーよりもっとあるだろ」

「なにが」

「あれどうすんだよ、足」

「どうするって言われても」

「レスキュー呼んだりとか」

「いらんいらん。ケツがはまって穴から出られませんって、世界笑い者ニュース枠じゃん」

「だいだいなんで穴にはまって……そもそもなんで首だけなんだよ」

「んなこと聞かれても」

「聞くだろ。夜中の住宅街で、尻から下だけ壁から生やして、生首だけそのへんに転がってて。救急車もレスキューもいらねえんなら、あと警察くらいしか連絡するとこねえよ」

「だって別に普通だし。飲みの帰りで、駅まで歩いてて、歩くのだりいなあって、思ってたらなんか、俺なら通れるわってなって、実際頭とか肩はきついけどまあ余裕で、したら腰んとこでつっかえて、前にも後ろにも進まんくなって、あっヤベこれ死ぬわって」

「世界笑い者ニュース枠じゃねえか」

「あーもう、通るんじゃなかったって、諦めて、そのまま寝て」

「は?」

「寝て起きたらこんなん首だけなってた。はい終わり。地べた冷えるからさあ、一回そっちどうにかしてもらっていい? 個人的にはカイロとか分けてくれたらうれしいなあって」

「ない」

 こいつがろくでもないやつなのは十分にわかった。考えるのはおれ自身の身の振り方だ。夜道でしゃがんで生首と会話、傍らには塀に突き刺さった尻。もしこのタイミングで通報か、さもなくば通りがかった警官に職質でもされようものなら、いったいどんな言い逃れができるのだろう。

「じゃああれ、引っ張ってやるから暴れんなって説得して」

「無理」

「自分の足だろ」

「いや聞く耳持たんし。俺じゃ動かせないし」

 生首は色味のない唇を尖らせた。どうしてこの状況でふてぶてしく振る舞えるのか。ああ、とけだるげに息を吐いた。

「向こう側からならどうにかなんじゃね?」

「なんとか」

「押すとか」

「あとは」

「引っ張るとか? 俺的にはこっちのがオススメ。もうちょっとで通れそうだなってとこまでは来てたから、向こうから腕とかつかんで引っ張ってくれたら、案外するっと抜けんじゃないかな~って」

 生首は髪の長い卑屈そうな面構えのわりに、歯を見せて快活に笑った。地べたに首だけで転がってるやつの笑みとは思えない。どういう理屈か知らないが、こいつは首だけでも元気そうだ。

 おれは荷物をまとめて肩にかけ、同じ腕で生首を持ちあげた。

 念のため、塀の両側をよく確認する。塀は塀だ。ただの石の壁。古い家なのか有刺鉄線も侵入防止柵もない。警報装置だとかセンサーは目で見る限りなさそうだ。明かりがともっている窓はなく、おれたちが家の前で騒いでいてもだれも様子を見にこないのだから、留守か空き家……は期待しすぎか。だが、おれが来る前にこいつが塀に上半身を突っ込んで騒いだはずだ。そのときなにも起きていないなら、

「あれ。門あっちだけど、もしかしてこっからいくつもり? マジ? 乗り越える感じ? 片腕でいけんの? あれだったら俺こっちで待っとくけど。すげぇ。背ぇ高いもんな」

 まあ、いけるだろう。


「じゃ、こっから投げこんでやるから」

「は?」

「あとは自分でなんとかしてくれ」





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