第5話

 そのまま鬼ごっこみたいに横断歩道を渡って、ふざけながら自販機が煌々と光る高架下に入った。落書きされた「メメント・モリ」の文字が嫌というほど視界を奪い、一緒に描かれた踊る骸骨たちが昼間より躍動的に見える。楽しかった気分が一瞬で罪悪感に変わった。


「どうしたの、急に黙って」

「いや」


笹本が俺の視線を辿って落書きに気づく。その意味にすぐ思い至る辺り、やはり笹本は聡い人間なのだろう。


「笑ったら長谷川君に悪いと思った? それともタカコ先生?」

「どっちも」


急に方向を変えた笹本が自販機に直行し、よく選びもせずにジュースを二本買った。ピピッ、という決済の音が大きく響く。


「ほれ。今日の御駄賃」

「サンキュー」


自転車を止めてジュースを開ける。久しく飲んでいない、極甘のミルクセーキだった。


「私さ、笑っていいと思う」

「うん?」


笹本は自分の缶を両手で弄びながらも、視線は壁の落書きを向いていた。


「メメント・モリって、元々そういう意味だし。明日どうなるか分からないからこそ、今は楽しくいようってこと。それでいいと思う」

「そういうもんかな」

「いざって時、その方が満足して終われる気がするから」


体温が戻ってくる感覚がする。何だか妙に嬉しかった。それを言おうと隣を見ると、笹本がいない。


「あれ、どこ……」

「わんわんわん!」


小さなトンネルいっぱいに甲高い哭き声と悲鳴が反響する。いつの間にか背後に潜んでいた笹本が、耳元で盛大に叫んでくれたのだ。


「なんだよ、やめろよ!」

「今日イチ面白かった光景の再現」

「しつこいな」


そうだった。笹本は意外と陰湿なんだった。


「ついでにストレス発散ね。ああスッキリした」

「こっちにストレス横流しすんなよ」

「我慢せい」


 ちょっと安心した。なんだ、やっぱり俺と同じ、こいつも充分に子供じゃないか。



 ひとしきり笑って満足したらしい笹本がポツリと言った。

「ねえ。犬はニオイを見ているかもしれないって話、知ってる?」

「何それ」

「まだ可能性の話なんだけどさ。犬の脳の中では、嗅覚を司る部分と視覚を司る部分が繋がっているっていう研究報告があるんだって。だから犬はニオイを視覚として見ているのかもしれない」

「へえ」


小さく咳払いするのが聞こえる。


「だから何って訳じゃないんだけど。もしそれが本当だとしたら、人には見えないものが見えてる景色って、どんな感じなんだろうって」

「そう、だな」


なぜ急にそんな話を、なんて聞くべきだったのかもしれない。でもその先に続くであろう会話を考えると、今の俺にはまだ、明確にあの穴を説明できる自信がない。


「言葉では説明しづらい風景、かもな」

「そう。そっか」


ごめんな笹本。今はまだ、犬は自分の言葉を見つけていないんだ。


「でもさ。もしも、いつか。犬が自分の見ている景色を伝える言葉を持てたらさ。ちゃんと話すから、聞いてほしい……と思うんだ」


笹本が小さく笑った。


「帰ろっか」



そこから駅まではあっという間だった。笹本が片手をあげて別れを示す。


「じゃ、今度こそ解散で。また明日」

「じゃあな」


自転車に片足をかけて、まだこちらを見ている笹本に言った。


「気を付けて帰れよ。穴に落ちないように」

「は?」


微妙に口を開けたまま停止した顔は面白かった。いつもの大人ぶったすまし顔より、俺はこっちの顔の方が好きだ。そんな単純なことに今日、ようやく気付いたなんて。


「暗いからドブにはまるなって意味だよ。ま、それはそれで面白いけど」

「何それ!」


 怒られる前に全力で逃げた。今日初めてちゃんと笑えた気がした。笑って良いよな、長谷川。俺はまだ生きてるんだからさ。

 生きるということはたぶん、穴の隣で息をしているようなものだと思う。それは長谷川も、笹本も、タカコ先生も、俺も同じことだ。ならば今日も笑っておこう。穴に落ちるまでの時間を一日だって無駄にしないように。

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