第4話

 夕暮れのチャイムが鳴る頃、俺たちはお暇することにした。もう外が暗くなっている。


「来てくれてありがとう」


先生が穏やかな笑顔で手を振り、俺は頭を下げてドアを閉めた。


「ふうん。意外と礼儀正しいんだ」

「だろ」


普段の俺なら違ったと思う。今は笹本に引っ張られているだけだ。



 エレベーターに向かって歩き始めると、来るときに見た穴が廊下の曲がり角あたりまで迫っているのが見えた。このスピードなら明日の夜から明後日の朝くらいだろうか。


「あのさ、俺が言える義理でもないんだけど。できれば明日も見舞いに来てくんね?」


笹本が足を止めてまじまじと俺の顔を見た。


「なに、急に」

「何て言うか。その」


無意味に首の後ろをさすって目を逸らした。手ごろな言い訳を探すが、だめだ。何も浮かんでこない。もうすぐ穴に落ちるからなどと言えるわけがなかった。

 一方の笹本は困惑の表情を隠そうともせず、はっきりしない俺に何か言おうと口を開く。そのまま何度かゆっくりとパクパクしたあと、最後は前に向き直って言った。


「分かった」

「え、いいの」

「いいよ」


脱力とともに温かい安堵感が広がる。


「その代わり、自分も来てよ?」

「あ。はい」

「明日のお見舞い代もそっち持ちで」

「うっ」


今月の小遣いは足りるだろうか。



 外は夕暮れ途中の空に青と黄色とオレンジがせめぎ合っていた。少々不気味なグラデーションだが、病室の窓から見ていたより周囲はまだずっと明るく感じる。

 笹本が適当に手を振って言った。


「じゃ、解散で」

「駅まで行くよ。ここからだと道分かんないから」


笹本は一拍置いて「そう」とだけ言い、来た時と同じように少しずれた位置で歩き始めた。


「タルト、美味しかったでしょ」


迷わず頷く。確かにあれは美味かった。


「タカコ先生、もうほとんど何も食べられないんだけどね。あの店のタルトとプリンだけは、ちょっと食べてくれるの」


 ちらっと斜め前の顔を盗み見る。灯り始めた蛍光灯の下、ほんのり紅い頬があたたかな色をしていた。ハンドルを握る俺の指がピクリと動く。


「じゃあ明日はプリンだな」

「賛成」


さっきの交差点まで来た。信号はまた赤だったが、今はそんなに嫌ではない。


「笹本、ずっと一人で見舞いに行ってたの」

「まあね」


通り過ぎる車の音がやけに煩く感じた。静かな時間を邪魔しないで欲しい。


「保育所時代って、熱出してお迎えが呼ばれることが何度もあるでしょ。うちの親は

毎回なかなか来なくて、結局何時間もタカコ先生が付いててくれてた。その時に約束したの。先生が病気になったら、私が看病してあげるねって」

「子供の言うことだろ」

「約束は守らなきゃ」


答える前に信号が青になって、先に歩き始めた笹本の後を慌てて追った。


「ちなみに千葉君も、先生と約束してたよね」

「何だっけ」

「大きくなったらお菓子の家をプレゼントするねって」

「無理だろ!」


昔の俺よ、よく考えて言え。


「約束は早めに果たしといたら」

「どうやってだよ」

「明日には犬に暗殺されてるかもしれないんだし」


思わず発言主を二度見した。


「どういう意味だよ」

「そういう意味だよ」


笹本が笑い声をあげながら逃げて、俺も自転車を押しながら後を追う。ムカついているのに顔は笑っていた。

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