第3話
ホスピスは大学病院の敷地内にあった。場所からして予想はしていたのだが、エレベーターを降りたところで廊下に穴を見つけてしまう。横断歩道の停止した穴とは違い、蝸牛みたいな速度でじりじりと、でも確実に目標地点へ向けて移動している。
「こっち」
「ああ。うん」
素知らぬ顔で通り過ぎたが、雰囲気で分かる。あれは誰かを迎えに行く途中の穴だ。
「こんにちは、タカコ先生」
ドアを開けた笹本が明るい声で言った。普段の大人ぶった声はどこへやら、素直で溌溂とした元気な女の子の声だった。
「あら、明日香ちゃん。また来てくれたのね」
おっとりとした声を聞いても、俺の中に大した懐かしさは湧いてこない。
「そちらは?」
「私と一緒にお世話になってた、千葉洋樹君です」
本を読んでいたらしいタカコ先生は、鼻にのせたままの老眼鏡を避けるように上目遣いでこちらを見た。
「まあまあ。本当に連れて来てくれたの」
「暇そうだったんで」
笹本が俺の背中をぶっ叩いて部屋に押し込んだ。抗議の視線は気味が悪いほどの温かな笑みで黙殺される。
「大きくなったわね。私のこと、覚えてないかもしれないけれど」
「あ、いえ。その」
老眼鏡を外した顔をちゃんと見ると、向こうも目を合わせてにっこり笑ってくれる。
ここにきて、何となく見覚えがある気はしてきた。今は白髪と黒髪が混ざり合うショートヘアを全部黒にして、肉が落ちた頬をもっとふっくらさせて、しわが多くなった肌を伸ばして。脳内補正していたら、しっくりくる姿に近づいてきた感じがする。
「前に明日香ちゃんが来てくれたとき、洋樹君の話が出てね。じゃあ今度連れてくるからって」
「えっ。じゃあ最初から、俺のこと連れてくる予定だったのか」
「まあね」
笹本は素っ気なく言って、土産の箱を開け始めた。先生と俺で明らかに態度が違う。
「何で早く言ってくれな……」
「あんたはこれでも食べてなさい!」
目の前にタルトが突き出される。恐ろしい目に気圧されて仕方なく一口食べた。
「あ、これ美味い」
「洋樹君は初めて? ここ、美味しいのよね」
先生も小さな一口をゆっくりとかみしめる。
「このお店、タルトとプリンは絶品なのよ。ケーキはイマイチなんだけど」
「それはケーキ屋として大丈夫なんですか」
俺が微妙なケーキ屋に気を取られている間に、タカコ先生と笹本は雑談をはじめていた。何とか君が何部に入ったとか、何とかちゃんがどこでバイトをしているとか。どの名前も俺は覚えていなかった。
「先生って、そんなに皆のこと覚えてるものなんですか」
「全員詳しくは難しいけれど、完全に忘れたりはしないわ。特徴ある子は良く覚えてるものよ」
あなたもね、とこちらを見て笑う。嫌な予感がした。
「赤ちゃんってよく、何もない壁とかをじっと見つめてることがあるでしょう。部屋の隅っこを指差したり、何なら話しかけてたり」
「ああ、超怖いヤツ」
笹本が頷いている。
「成長とともに無くなっていくものだけれど、洋樹君って卒園までずっとそれをやってたの。お散歩の途中によくあったわ。何見てるのって聞いたら、『穴が開いてるよ』って」
「俺、不思議ちゃんだったんですね」
再び笹本が大きく頷いた。
「あんた、今も時々やってるよね」
「うそ」
「自覚ないの? 掃除の後で濡れてる階段の下をぼーっと見つめてたりとか、通学途中の道で線路の一点を眺めてたりとか、急に横断歩道の真ん中を二度見したりとか」
そんなに見られていたか。
「このストーカーめ」
「視界に見切れるそっちが悪い」
「笹本はチャリ通じゃないだろ。通学途中とか何で知ってんだよ」
「よく電車の中から見えんのよ」
先生が面白そうに笑った。その表情のせいだろうか、来た時よりずっと血色が良くなったように感じる。
「今も楽しそうで良かった。二人は長い付き合いだものね」
これには笹本も微妙な顔をした。
俺たちは学区の関係で別の小学校に通い、中学でまた一緒になった。子供の六年は長いものだ。それだけ期間が空けば互いの存在もほぼ忘れて、中学で会った時には他人同然になっていた。周囲の大人たちだけが「昔よく遊んでた子」と言って勝手に懐かしがっていたくらい。高校まで一緒になったのは単なる偶然である。
「縁は異なもの、味なものってね」
「腐れ縁は迷惑です」
再びギャーギャー言い始めた高校生を見て、タカコ先生はなぜだか嬉しそうだった。
「好きなだけ喧嘩すればいいから。そうしてずっと、仲良くね」
優しく諭すような、記憶の中に言い遺すような口調。言葉に詰まる俺に代わって笹本が言った。
「矛盾してません?」
「してないわ」
もう二人して和やかな談笑に戻っている。俺は何となくそこに入り辛くて、タルトの残りに夢中になっているふりをした。わざと咀嚼時間を引き延ばしながら思う。同じ年数を生きてきたはずが、笹本は俺よりずっと大人に近づいているようだ。
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