第2話

 赤信号で足を止める。俺は笹本に言われるがまま、自転車を押して知らない道までお供をしていた。


「どこまで行くんだよ」

「もうちょっと先まで」


 周囲にあるのは無人の児童公園、スプレーで落書きされた高架下の短いトンネル、そして欠伸を連発する笹本。片手で口元を隠す隙間から声がしっかり漏れていた。


「もう、月曜日って眠すぎて困る」

「早く帰って寝りゃいいじゃん」

「嫌だ。せっかくの早上がりなのに」

「明日は普通に学校だしな」


二人して自然と黙った。たぶん同じことを考えていたと思う。俺たちが面倒がっている明日が、長谷川にはもう来ないのだと。


「こういう時って、何の話しても不謹慎な気がしない?」

「分かる」

「明日も学校キツイなぁ。しばらく教室で笑っちゃいけない空気なんだろうし」


でも、こんな時間は人生で何度もあるのだろう。俺たち人間は穴に追われながら生きているのだから。



 横断を促す鳥の声が流れ始めた。歩き出そうとした笹本の腕を慌てて掴んで止める。


「待った!」

「うわお、っと」


大げさに仰け反る笹本の数メートル先、中央に大きな穴が開いた横断歩道の上を、信号無視の大型車が猛スピードで通過していった。今度こそ本気で驚いた笹本が、ぎこちない動きで首だけ回してこちらを見る。


「あんた、予知能力でもあるの?」

「まさか」


俺は笹本を追い越して歩き出す。横断歩道の穴は消えていた。



 やがて笹本は小さなケーキ屋で足を止めた。


「ちょっと待ってて」


それだけ言って消えたと思ったら、本当に二分くらいで戻ってきた。やたらと大きな箱を勝手に自転車のカゴに入れようとしている。


「ここまでケーキ買いに来たのか?」

「まさか。お見舞いの手土産にタルト買ったの」


これから行くという意味だろうか。


「何で他人の見舞いに俺まで付いてくんだよ」

「他人でもないんだけど。保育所時代のタカコ先生、覚えてる?」


ゆっくり五秒ほど考えこんでしまう。


「ああ、はいはい。タカコ先生ね」


当時から既にいい歳だった女性保育士を思い出した。ちなみに下の名前ではなく、高子という苗字だと理解したのは卒園してからである。


「タカコ先生、入院してんの?」

「もう結構前からね。今はホスピスにいるの」


早く元気になって、という見舞い文句は使えないようだ。



 かさばる箱は自転車のカゴに収まらず、結局上に置かれたまま不安定に運ばれることになった。


「千葉君は卒園以来?」

「うん。完全に忘れてた」


笹本は少しだけ俺の前にズレて歩きながら、ときおりチラチラと箱の様子を確認している。


「結構長く世話になったんだよな」

「六年近く?」

「うわ、考えてみるとすげぇ」


そこは無認可保育園、というか小さな託児所のような場所で、園児も保育士もあまり多くなかった。ゼロ歳児から預けられていた俺と笹本は、小学校入学までをずっとタカコ先生に育てられたようなものだ。


「当時の起きてる時間で考えれば、親より長く顔合わせてたはずだよな」

「そうそう。土曜日も行ってたし」


そうして少しだけ会話が弾みかけたとき、通りすがりの刺客が現れた。


わんわんわん!


「ひいいっ!」


小さな犬を三匹連れたおばさんが、謝りながら絡まるリードを引っ張って離れて行く。なぜ俺にだけ吠えるのだ。


「ビビった。マジで心臓止まるかと思った」

「タルトは無事でしょうね」

「俺の心配は!」


こんなことで穴に落とされたら、人間として諦めがつかない気がする。


「あんたはチワワに心臓発作で暗殺されんの? ネットニュースになりそう」

「その時は拡散しといてくれ」

「わぁ、炎上必至」


笹本が傾いたタルトの箱をさっさとカゴから奪う。


「もういいや、あんたに任せると危険だから自分で持つ」

「なら押し付けんなよ!」


 そういえば笹本とこんなふうに話すのはいつ以来だろうか。クラスで話す機会はあっても、会話や雑談というよりは事務連絡的な場合が多い。互いに一歩ずつ引いたまま距離を測っているので、結局二歩分の大穴が空いている気がするのだ。

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