第二編

ずっと譲れないものであった何かを諦める時、私の体は喪失感と共に多大な快楽が押し寄せる。その時にいつも思い出すのは、諦めるという言葉の語源が実にポジティブなものであったことだ。自身の欲求は過ぎたものであったと自覚し、己の力量を正確に判断する。私の人生の中でも大きな発明。


何事にも熱中しないということ、常に集中が出来ず、注意散漫である状態。これは良くない状況であると一般的にはされているらしいが、ベッドに寝たきりのままで、体をピクリとも動かせず、常に疲労感に襲われる日々に比べて、なんと前進していて、なんと前向きに生きていることか!


熱中しないことと、全力を出さないことは異なることだ。私は常に、あらゆる物事で全力を尽くしている。私にとって、熱中しようとするということは到底出来ないことであるから、熱中する必要はないのだと言って、全力を出せるように調整しているのである。つまり、熱中しないということが、私にとっての全力の行為なのである。


私が今自分は前向きに生きていると思っていても、その実情は何も前向きではないことが多い。つまり、私は前向きなったのではなくて、ただそう錯覚しているだけであり、逃げの結果なのである。これはある意味、私の望んでいたことかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲観と現実性の狭間で 神田(kanda) @kandb

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ