第5話「話すことなんてありません」
『今日仕事終わるの何時?
話がしたいので1階のロビーで待ってます』
時雨先輩からの思ってもみないラインを貰って、あたしはしばらく画面を見たまま動かない。
いや、それどころか、ラインを貰ったその瞬間から、もう仕事が手につかなかった。
…どうしたらいいのかさっぱりわからない。
「七華さんも残業ですかぁ?」
「え!?あ、いやっ…帰ります、」
そして未だにまたスマホを開いて同じ画面を見ていると、その時同じ部署の後輩に声をかけられて、あたしはやっと我に返った。
気がつけば、もう今は定時を過ぎている。
…そうだ。良くんは、取引先の人ともう食事に行っちゃったかな。
あたしがそんなことを思いながら帰る支度をしていると、あたしに声をかけたその後輩の女の子が言う。
「なんか、今他の部署の友達から情報が入ってきたんですけど、下のロビーにイケメンくんがいるらしいですよぉ」
「!」
「誰かはわからないんですけど、どこかの部署の女の子を待ってるとかで。いいですよねぇ」
「…そ、そうなんだ」
でもあたし残業なんで、顔見に行けないんですぅ。
後輩の女の子はそう言うと、あたしから視線を外してパソコンの画面に戻す。
その後輩ちゃんからの情報を聞いて、一方のあたしは心当たりしかない。
ああもう、どうしてこんな日にデートドタキャンしちゃうかなぁあの男は!
だけどあたしは不意にいいことを思い出すと、後輩ちゃんに言った。
「…残業大変だねぇ」
「はい、まぁ。今日は21時までかかるかもです」
「そうなんだ。じゃあ…手伝ってあげよっか?」
「!」
あたしはそう言うと、さりげなくその後輩の女の子に近づく。
…うん、あるある。長時間残業しなきゃいけない程の山ほどの資料が。
これなら時雨先輩に会わなくても済むかもしれない。
が、しかし。後輩はあたしの言葉を聞くと、言った。
「えっ、大丈夫ですよぉ。七華さんに悪いので」
「いや、遠慮しなくても」
「遠慮とかじゃないですぅ。それにこの仕事は、大事な会議の資料なので」
自分でやり遂げたいんです、と。
素敵なことを言う後輩。…なんか、今のは先輩としてよくなかったな、あたし。
そんな後輩を前に、あたしもそれ以上は何も言えなかった。
「…そっか。じゃあ、あたし帰るね。お先。無理しないようにね」
「はい。お疲れ様ですっ」
残業する後輩にそう言って、あたしはやがて部署を出る。
この会社を出るには、時雨先輩がいるであろうロビーを通らなきゃいけない。
だけど、それなりに広いロビーだから、最悪気づかれずに済むかな。
そう思いながらやがてロビーに到着したら、時雨先輩は後輩の言う通りちゃんとロビーにいて、予想通りたくさんの女性社員たち囲まれていた。
「時雨さんって言うんですかぁ?」
「あの、今日は誰にご用事で?」
女性社員たちは時雨先輩にそう問いかけると、彼をチヤホヤチヤホヤする。
…うわ。相変わらずモテる人だなぁ。
だけどあれだけ囲まれていれば、あたしの存在もバレないかもしれない。
……正直もう、全部思い出しちゃうから、顔も合わせたくない。会いたくない。
しかし、そう思って、あたしが速足でその場を通り過ぎようとした時だった。
「あ、結ちゃん!」
「!」
女性社員たちにそれなりに囲まれていたはずの時雨先輩に、あたしの存在を気づかれてしまった。
「…っ、」
その声に、あたしは思わず歩く足をピタリと止める。
別に無視してもよかったのかもしれないけど、一時的に足が動かなくなってしまった。
するとその間にも、時雨先輩があたしのそばにやって来てしまう。
「お疲れ」
「…、」
「…あ…久しぶりだね。元気だった?いや、昼間はビックリしたよ。梶さんに連れられてここに来たら、ずっと会いたかった結ちゃんがいたから」
「!」
“ずっと会いたかった”
「…~っ、」
「あのっ…ライン見てくれた?俺ね、」
「…ないです」
「え?」
「先輩と話すことなんて、もうないです」
「!」
あたしは声を振り絞るようにそう言うと、そのまま再び歩き出して会社を後にする。
体が少し震えている。自分でも信じられないくらい。
もう先輩のことなんて好きじゃない。好きなわけない。良くんに会いたい。
だけど、あたしが再び速足で逃げるように歩いていた時……。
「っ、待って!」
「!!」
次の瞬間あたしは先輩に簡単に追いつかれ、あろうことか腕を掴まれてしまった。
…あの頃は、手を繋ぐのもやっとだったくせに。
「な、何ですか!離しっ…!」
そしてその手にビックリして振り払おうとするけどビクともしなくて、それにも驚いているとその間に時雨先輩が言う。
「俺ね、ずっと結ちゃんに聞きたかったの」
「!」
「どうしてあの時いきなり別れたいなんて言ったのか。俺、結ちゃんに何したのかなって。…でもごめん。いくら考えても全然わかんなくて、俺」
「…っ、」
「あの時ラインで言ってた“本当は最初から好きじゃなかった”なんて嘘だよね…?」
時雨先輩はそう言うと、その大きい瞳であたしのことを真っ直ぐに見つめてくる。
その視線に捕まって、不思議ともう逸らせなくなる。
…時雨先輩は、6年前いきなりあたしから別れを告げられたことを特に怒ってはいないらしい。
一方のあたしはそんな時雨先輩を前にして、ほんの少し泣きそうになりながら2人が一瞬だけ“あの頃”に戻ったのを感じた。
だけどあたしは心の中で首を横に振ると、隙をついてその腕を振り払って言う。
「嘘じゃないです」
「!」
「先輩はあの頃騙されてたんです。残念でしたね?」
あたしは目の前の時雨先輩にそう言うと、汚れた笑顔を無理やりに作った。
その瞬間に少し俯いた時雨先輩の切ない表情は、あたしはきっと一生忘れることはない…。
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