第5話
八百常さんの座敷でひととおり事情を聞き、まずは今晩、様子見だけでもして欲しいと頼まれた。
ともあれ一度自分の店をきちんと閉めねば、と暇乞いしたところ、手土産にとお野菜をたっぷり持たされた。これで断るという選択肢は完全に潰えてしまった。
話によると、怪しい声は深夜まで待たずとも、日没後少ししたら聴こえ始めるとのこと。
店に戻って半端にしていた術込めを終わらせ、いただいたお野菜で簡単な汁物を作って夕飯を済ませる。
ここまでで五時になっていた。
そのあと妖退治の準備を整えたのち、余裕を見て六時に家を出るときにもまだお見えでなかったので、引き戸に、簡単な事情と店内で待っていて欲しい旨、書き置きを挟んで置くことにした。普段から近所までなら鍵などかけていないのである。
さて、そういうわけで現在である。
八百常さんの裏庭からちょうど問題の古井戸が見えるので、わずかに隙間を開けた裏木戸の内側にしゃがみ込んで様子を窺う。
今はまだ表通りを照らす明かりが差し込んでいるから、ものの輪郭くらいはわかる。しかしこの後、本格的にあたりが寝静まったら……
アァ、嫌すぎる……何が出るにせよ、せめて世間の皆さまが起きている時間帯に片付けてしまいたい。
そもそも店の看板にも書いていないことから分かるとおり、私は妖調伏を商いに含めていない。学生の時分で既に、その手の術に全く向いていないとわかっていたからだ。
術遣いにも、それぞれ適性というものがあって、得手不得手の差は人によりかなりある。
例えば調伏や賦活、あるいは天眼通、魅了の術などは、適性のある者は比較的少ない。それゆえ、これらに類する術は習得すると届け出が推奨されるのだ。
そういえば、飯綱さまは式武寮にいたことがあるように仰っていた。
ならば妖調伏などお手のもので、しかも魅了の術にかかっている今の彼ならば、頼めば手伝ってくださるだろう。
だからといってこんなことにあの方を利用するのはあまりに図々しいというもの。
ここはなんとしても独力で解決せねば……と言っても、調伏向けの術なくして一体どうするか。
意匠惨憺、頭を使って乗り越えるしかありますまい。
さわわ、さわ、さわ。
空が完全な闇色になったあたりで、耳障りな小さな声のようなものが古井戸の方から聴こえ始める。たしかに八百常さんで聞いた噂通りの現象だ。
何か別の、尋常の物事によって起きている音だったら良いのにと願っていたが、どうやらこれは違いそうだ。アァ憂鬱。
腹を括れ
深く細く息を吸い、それより更に時をかけて吐き出す。閉じた瞼の裏、額の中心に灯る光を想起しろ。
素早く右手指で術の道をなぞり、目を開けば視界は真昼のように青白く明るい。
夜眼通。
続けてさらに新しい道を描く。私という人の身が発する音や匂い、気配の全てを遮断する。
隠形。
最後の一つは両手指で、極めて複雑な術の道を一気に描き切る。この身の筋の柔靭さを高めるべし。
鉄身。
飛躍的に高まった身体力に物を言わせて電光石火、木戸を開け放ち裏小路へと一足で飛び出す。
迷わず井戸端の柳の陰に手を突っ込み、幽けき声を発する何かを引っ掴む。
あああモウ、気持ち悪い!
手のひらに伝わるこの世のものとは思いがたい悍ましい感触から逃れるために、すぐさま反対の手で袂から取り出した木綿袋人形にむけてぎゅぎゅぎゅと押し付けた。
一ツ終わり!
人形をポイと放り出し、続けて一気呵成に二度、新しい人形に掴んでは押し込みを繰り返すと、古井戸の周囲は静寂を取り戻していた。
お、終わった?
「はあぁぁあ……もおおお本当にイヤッ!」
気が抜けて自身にかけていた術も全て流れ去り、その場にすとんとしゃがみ込む。
やったことは、昨日飯綱さまに実演してみせた、簡易型の式人形づくりとほとんど同じだ。
違うのは、あの時は全く無害な低級の妖を使ったが、今のはおそらく人にそこそこ害を与える力のある妖だったという点。
そしてそのくらいのものになると、直に触ると本当に、心底悍ましい手触りがするのだ……
「顕ヲ嬢!」
突如、背後から聞き覚えのある声で名を呼ばれた。
振り向くと提灯の灯りがずんずん近づいてくるところで、やがてそれを持つ背の高い人物の姿が見えてきた……
◇◇◇
「相談くださればこのくらいの小物、私が始末して差し上げたのに」
片手に握りしめた三体の妖入り人形を振ってみせて、飯綱さまが言う。
彼のもう片方の手は、私の手を引いていた。
井戸端の妖を式人形にしたのち、気が抜けて立ち上がれない私の前に現れたのは飯綱さまだった。
彼は今日の昼間、私の店を辞したのちに溜まっていたお役所の仕事を大車輪で片付けたのだが、結局少々残業する羽目になった。
それで七時近くなって我が家を訪れたが当然私は留守、残しておいた書き付けを見つけて、大急ぎで助太刀に来てくれたというわけなのだ。
それから、少し休んでゆけば、と引き止める八百常さん夫妻に丁寧に断りを入れ、飯綱さまに手を引かれて家路についている。
「そんなことを、いったいどうして貴方さまに願えましょう?」
繋がれていない方の手を前に伸ばし、足元がなるたけ明るくなるよう図る。飯綱さまの持参した提灯は今は私の手にあった。
「どうしてって……」
問われて口籠る飯綱さま。
「よくよくお考えになってくださいまし。私と飯綱さまの関係とは、いったい何に当たるのです?」
むぐ、と息を詰めて今度こそ何も答えられないご様子。
「……でも、来てくださったことには感謝いたします。そりゃ独りで対処できましたけれど、心細かったことには間違いありませんから」
文字通り駆けてきてくれた飯綱さまの手のひらは、少ししっとりしていた。握る力がきゅっと強くなり、また緩められる。
「確かにきっかけは思わぬ事故でしたが」
また口元を押さえようとして、人形を握りしめているのを思い出して手を下げる、そんな動作を挟んで飯綱さまは言葉を続けた。
「少なくとも今夜、私が貴女の魅了の術にかかっていたのは僥倖だと思っていますよ。こんな夜道を一人で帰さずに済んでいるのですから」
街灯が下町のほうにも整備されてきて、夜道は昔に比べてはるかに明るくなった。それでも、昼のように気軽に女の一人歩きができるわけではない。
「じっさい、我々の関係は端的には表しにくいものですが、もはや知己であるのは間違いない。それに貴女は私の後輩の娘さんなのだし。だから……必要なときは頼ってください」
複雑な心持ちではあったものの、かけられた柔らかな言葉に、さすがに素直にはいと答えたのだった。
「では、私はここで失礼しますが……査察もいいかげん終わらせねばなりませんから、明日また、今度は終業の少し前、夕刻に参ります」
店に帰りつき、土間までは入ってきた飯綱さまだが、提灯を私から受け取りつつそう言った。
店の時計を確認すると、八時を少し回ったところ。この時刻なら表通りや繁華街には人がまだまだいるし、大の男が帰宅するのに遅すぎるというほどではない。
わざわざやってきたのに蜻蛉返りさせてしまうのは申し訳なく、せめて夕餉なりと振舞えれば良いのだが、まず我が家の台所事情が文字通り貧しいことのほか、飯綱さまに座敷を見せられない訳が実際あり……
「何のおもてなしもできず申し訳ございません。その……お疲れのところお越しいただいて、本当なら上がってお休みいただくべきなのかも知れないのですが」
もごもご。後ろめたい気持ちがお口のキレを悪くする。
「あのですね、顕ヲ嬢……いくら私が齢八十の爺いとはいえ、こんな夜分に男を座敷にあげてはなりません」
「エ、あ、そうでございますね」
なんということか、そんな心配なぞ、露ほどもしていなかった。
「露ほども考えていなかったというお顔ですね。でも私が今、貴女の魅了の術にかかっていることはゆめゆめお忘れにならぬよう」
「ハ、ハイッ」
「宜しい。では、帰ります」
言って、飯綱さまは出会ってから初めて見せるような柔らかなお顔で微笑んだ。
……。
「アッ、そうだ、蝋燭! 提灯の蝋燭が」
さっき中を見たところ、もうだいぶ短かったのだ。
あとは送り出せば、良き雰囲気のままお別れというところだったが、どうにも締まらないのが私である。
「代えをお持たせいたします!」
「あ、はい」
意表を突かれたか、素直にその場に留まってくださった。チョットお待ちくださいね、と言い置き、焦って座敷の襖を開け放つ。
……アレ、私確か、飯綱さまに座敷を見せられないと考えていたような。
「……顕ヲ嬢?」
背後から低い低い声で名を呼ばれる。
私の目の前には、まさに言葉通りに足の踏み場のない座敷の光景が広がっている。
壁を背に並ぶ、大きな古箪笥。その前に置かれた行李に長持。竹籠に乱雑に突っ込まれた巻紙。床には草紙に本にあらゆる書類がいくつも山と積まれている。それらの隙間を埋めるように置かれた裁縫箱、そこから飛び出した道具類に古布、中途で放置した繕い物。脱ぎ捨てた
「あ、あのう〜……これはですね、ワタクシ昨今多忙を極めておりましてぇ……」
両手を広げ、飯綱さまの目から座敷の惨状を少しでも隠そうとする。
ワア、飯綱さまの眼鏡の奥の目が見えない。
「これは一体何ですかーッ!!!」
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