第4話

 アァ、たいそうくたびれた。

 我が家の借財を肩代わりするといって聞かない飯綱いづなさまを思いとどまらせるのにかなりの時間を要したため、なんと査察はさらに日延べとなってしまった。

 しかも肩代わりを断るなら、代わりに私の術商いの店の経営状況を飯綱さまが改めて、少しでも早く借財を減らしてゆく算段を共に考えると言い出された。

 いくらなんでもそこまではさせられない、飯綱さまには魔術省のお仕事もおありなのに、との訴えは全く聞き入れてもらえず、今後借財の件については役所の終業後訪れて取り組むので問題ない、と宣言なさり、帰って行かれた。

 ひとまず、溜まったお仕事を急ぎ片付けて後でまた来るのだとか……(矢ッ張りお仕事に障りが出ているじゃあないの!)

 昨日人形に込めようとしていた魅了の術は些細なもののつもりだったのに、もしかすると驚いた拍子に必要以上の術力が出てしまったのだろうか? 次はその可能性を踏まえて術ほどきを試すべきやも。

「ア、そうだ表を開けておかなけりゃ」

 がらがらと立て付けの悪い引き戸を開けると、土間にこもっていたぬるい湿気と引き換えに、外の熱気が押し寄せる。

 兎にも角にも、昨日の午後に引き続き今日の午前も商いにならなかったのを少しでも取り戻さねばなりますまい。


顕ヲあきをちゃん、いるの?」

 商品補充のための術込めをしていたところ、女性の声がした。

「はいはい、おりますよ」

 立ち上がって返事をしてやる。土間の奥の机に向かっていると、どうやら表からは私の姿が見えないらしいのよね。

「昨日も今朝も引き戸が閉まってたから……何かあったというわけじゃアないのね?」

 商品棚の箪笥の間から顔を覗かせたのは、二軒隣の履物屋、田島下駄店の奥方だ。

 術入れして価格を上乗せして売るため、下駄や草履、足袋なんかを仕入れさせてもらっている経緯でお付き合いがあり、親しいご近所さんである。

「エエ、ちょっと魔術省の手続き関係がございまして……お騒がせしてしまったでしょうか?」

 田島の奥様は、私の実年齢より少し年上くらいの女性だ。独り身の私を案じて、普段から何かと気にかけてくれるが、それはおそらく私が術遣いの不老長命の特性として実際の半分くらいの年齢に見えるからなのよね……

「ううん、そんなことはないのよ。ただ、ここらじゃ見かけない殿方のお客の出入りがあったなンて話を、うちの亭主がするものだから。今ってうちと顕ヲちゃんのところの間は空き家でしょう? 変な輩が出入りしないか気にしていて。でもそう、お役人さまだったのね」

 ウッ、常連の耶麻井やまいさまならご亭主も見知っているはずだし、もしかしなくても飯綱さまのことね……

 もしや朝から二時間うちの前で待っていらしたのをご近所に見られているのでは?

「ところで顕ヲちゃん、お腹空いていない?」

「エッ」

 考え込んでしまったところに、不意打ちで尋ねられる。そして訊かれれば、おなかがとても空虚なのを思い出してしまった。

「どちらかといえば空いております……」

 というより、一年中おおむね常におなかは空いている。

 なにしろあまり……お金がないのだ。

 このところとくに実入りが悪くて、しかし借財の返済は待ってはくれぬ。おなかいっぱいになど、何年食べていないだろう……

「おやつにお芋を蒸したのよ、食べに来ないかしら」

「参ります」

 すぐさま店を一時閉店した。


「そのお芋ね、表小路の八百常さんからいただいたの」

 うちとほとんど同じ間取りの、田島下駄店の座敷にお呼ばれして、甘い薩摩芋をまずは一本いただき、お茶で喉を潤して。

 遠慮しないでどんどん食べて、なんて言われては期待に応えないわけにはいかないでしょうから、二本目にああんとかじりついたところで、奥様が不思議なことを言った。

 八百常さんは表通りに面した大きなお店で、家からいっとう近い八百屋さんゆえ、普段から買い物をしている。

 しかし、八百屋さんから本来売り物のはずの芋をいただくというのは、妙な話である。

「エエトね、八百常さん、顕ヲちゃんにあやかし退治を頼みたいらしくって……」

 ああ〜……そういったお話……

「食べ物で釣るみたいなことになって、ごめんなさいね。八百常の奥さんから顕ヲちゃんを紹介してほしいって、頼まれたの」

 田島の奥様は拝むようにして謝ってくれた。

「いえ……それは良いのですけれど」

 ご近所との円滑なお付き合いのため、仕事を引き受けたことはこれまでもあった。無くした鍵のありかを見つけたり、仕事道具にちょっとした術を仕込むのを頼まれたり。

「勿論、手間賃はお支払いするそうよ。顕ヲちゃんのお店で決めてるお代があるのでしょう?」

「それも、良いのですけど……」

 なんなら、ご近所のよしみで多少代金をまけたってかまわない。

「なんだかね、あちらのご町内の古井戸に妙なものが現れるようになったのですって。それで皆怖がってしまって」

 ……問題は、私があやかし調伏を大の苦手としているということなのだ。そもそも調伏に向いた術をほとんど習得していないし。

「もしなんとかしてくれたら、手間賃のほかに、今後八百常さんでお買い物するときにはずっとお安くしましょうって、奥さんが」

「参ります」



◇◇◇



 アアァ〜……しくじったかもしれない。

 時刻は七時近く、日がだんだん落ちようとしている頃。

 長屋にぐるりと囲まれた昔ながらの裏小路、家々の窓灯りも届かぬ奥の奥、その古井戸はある。傍には柳の木なんぞ生えていて、まるで幽霊話の舞台装置みたいではないか。


 今日の午後のこと、永世お値引きの言葉に釣られ、かじりついたお芋を食べを終えてから、田島の奥様に連れられて八百常さんを訪ねることになった。


「いやぁよく来てくれた! ネェさんが隣の町内の術遣いさんだったんだなぁ! いつも毎度あり!」

 店先で赤ら顔で恰幅のいい店主さんから大歓迎を受ける。

「どおりでねえ! いつまでも若々しい娘さんねえと思ってたの!」

 とこれは八百常さんの奥様。

 いつも朗らかでにこやか、良い方々なのだと思う。しかし、声が大きい。

「あの……まず詳しいお話をうかがいたいのですけど、ここでは他のお客さまに聞こえてしまうかと……」

「おっといけねぇ、仰るとおり! おーい、しばらく店番しておけ!」

 住み込みの奉公人らしき若者に一声かけて、店の奥から住居の方へ案内される。大まかな間取りは長屋の様式だが、表通りの繁盛店だけあって入ってみるとかなり広いお家だった。

 下町の中では大きなお庭に面した縁側のあるお座敷に通され、お茶を出していただいた。田島の奥様もちゃんと着いてきてくれて心強い。

「では、どんなことが起きているのか、お聞かせいただけますか」

 アラ、おいしいお茶。田島さんのお宅では焙じ茶をいただいたのだけど、こちらは煎茶だった。私の家ではもう何年も買えていない。味わっておきましょう……

「最初はね、夜に通りかかった人がおかしな声を聴いたって話なの!」

 語り出したのは、八百常の奥様だ。


 一月ほど前のこと。

 人々が寝静まった時間帯、近所に住まうご隠居が裏小路を通りかかった。

 その日ご隠居は、遠方の親類の家からの帰宅が思ったより遅くなったために、提灯の明かりを頼みに暗い夜道を急いでいた。

 裏小路を通ればわずかに表通りよりも早く着く、薄気味悪さを感じないでもなかったが、慣れた道であるし……と柳の木の脇を過ぎようとしたところ。

 柳の陰の古井戸の方から、なにやらひそひそ声の会話のようなものが聴こえてくる。ご隠居は、もしや追い剥ぎか押し込み前の強盗か、悪事を企む輩が潜んでいるのかと足を止めた。

 しかしその声は妙にかん高く、成人した男のものとはとうてい思えない。さらに会話している調子に聞こえるのに内容が少しも聞き取れぬ、まるで知らない言語のようであった。

 それが急にぴたりとやんだ。おまけにそちらから視線のようなものまで感じて、ぞっと背筋が寒くなる。ご隠居は泡を食って表通りへ引き返したのだという。

 そして程なく、似たような話がいくつも出てきて、町内はその噂で持ちきりになった……

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