第3話

 往来で続けるのには相応しくない話題になってきたので、ひとまず飯綱いづなさまを店の中に招き入れる。

 いつもならこのまま表は開け放っておくところだが、今日は看板を出してから引き戸を閉めることにした。風が入らなくて蒸してしまうが仕方ない。

「やはり魅了の術がしっかり効いているようでございますね。まことに申し訳ございません」

 客用の丸椅子に飯綱さまを案内し、改めて頭を下げた。発端はどうあれ、動揺で術の制御を失ったのは私の失態である。

「いえ、登路とうろ嬢が謝られることなど」

「この登路顕ヲあきを、己の未熟を痛感いたしました。政府のお免状を頂いた魔術遣いだなんて、一端いっぱしのつもりになって……」

 責任は私一人にあるのではない、と初めのうちは思っていた。しかし夕べ布団に入ったのち、急に悔やむ気持ちが沸いてきたのだ。

 たとえ目の前で、誰かがふいにこの世のものとは思えない悲鳴をあげたとしても、魔術遣いたるもの決して制御を失ったりしない、それが正しい在り方ではなかったかと。

「まずは、昨日は上手くいきませんでしたが、もう一度尋常の手順でほどけないか試させてくださいませ」

 暴発の直後は手応えが感じられず焦ってしまったが、冷静になって行えば、もしかすると当たり前に解除が成るのではないか。そう告げると、飯綱さまも頷いた。

「成程、たしかに仰るとおりです。あの時は私もが現れたせいで、とてもまともと言えぬ状態でしたからね」

 ……いったいどれだけ苦手なのだ。

 いえマァ、そういう人はたまにいるけれど。たかが虫と、割り切れぬ何か本能的な恐怖があるのやも。


 そういったいきさつで、さっそく術ほどきに取り掛かった。

 けれど結果としては、これは徒労に終わった。いくら試みても、術の解ける時独特の手応えがないし、飯綱さまも何か変化したような感覚はないと言った。

 また逆なぞりで解くのが無理ならばと、飯綱さまの体内に貯留されているはずの術力を引っ張り出す方法も試したが、こちらも効果なしだった。

「なんということ。術者自身の手になる解除ができないとなると、あとは込めた術力が自然に薄れるのを待つくらいしか」

「その場合は、どの程度の時間がかかりそうなのです?」

 尋ねられ考える。

「もともと愛玩人形に込めるつもりだった術は、効果は高くない代わりに長持ちするものでした。幼な子が友として人形を愛する期間はどのくらいかしらと考えまして……そう、予定としては」

「予定としては?」

「……五年ほど」

「五年」

 つまり、このまま魅了の術の効力が薄れ消えるのを待つ場合、そのくらいの年月を必要とするかも知れないのである……!

 さすがにそれはあり得ない!

 この魔術省のお役人さま、それもおそらく際立った術遣いであられる立派な殿方を五年も魅了の術に囚われたままにしておくなど……!

「五年、ですか……」

 しかし当の飯綱さまは、ことの重大さにぴんときていないのか、口元を押さえて静かにつぶやくのみだ。

「そのような長期間、お困りになりますよね、勿論。日々の暮らしやおつとめに支障をきたすでしょうし、奥様にも申し訳なく……」

 今のところ飯綱さまのご様子は、そこまで激しい影響がなさそうに見える。しかし弱いものとはいえ魅了の術である、どこの馬の骨ともしれぬ女の術にかかっているなど、奥方のお気持ちを思えばとんでもない事態だ。

「あ、いえ。妻は……おりません」

 なんとなく引っ掛かりのある様子で否定なさる。

「だからというわけではないはずですが、自分としてはそう急いで解かなくても良い気がしていたもので」

「まさにそれこそが魅了の術の効果でございますよ! しかし困りましたね……何か手段がないものか」

 他人のかけた術を解くことを得意とする高名な術遣いは、広告などを目にして幾人か知っている。ただし依頼するにはかなりの費用がかかるとか……

「困りますか?」

「それは当然、お困りになりますでしょう、飯綱さまが」

「私は特には、アッいえ、そうですね。貴女の方こそ困りますね、私のような爺いに思いをかけられるなど」

「そういった意味はございませんよ。ですけど、爺いなどと……飯綱さまは、お幾つになられるのでしょう」

 魔術遣いは、力を発現したときから成長や老化が極めて遅くなる。それに伴い寿命も延び、常人の数倍も長く生きる者も多くいた。

「今年で数え八十になりました」

 飯綱さまは見た目では三十路そこそこというところだから、おおむね魔術遣いとしてはよくある歳の重ね方をなさっているようだ。

「魔術遣いですもの、実際のお年よりも、お心もちや頭脳がお若いことが大切だと思います。私の方こそ、もっと歳に見合った落ち着きを身につけなければと。もう四十になりますのに」

 あァ、気にしていることを自分で言ってしまった……小柄なのも手伝って、いつまでも小娘のような見た目のために侮られることも多いのだ。

「……存じておりますよ」

 何をかしら。

「っとと……その、今更申し上げるのは他意あってのことではないのですが」

 視線での問いかけに、飯綱さまはまた口元を押さえ、少々もごもごしてから話し始めた。

「実は貴女のお父上、登路幸助くんは、同門の後輩なのです。亡くなられた当時、私は英国に派遣されていたため葬儀にも参列できず……不義理をしてしまいました」

「マァ! そうだったのですか?存じ上げずこちらこそ失礼を」

 父が亡くなったのは、もう二十年も前のことだ。その後五年ほどして母も身罷り、以来ひとりで細々と術商いをして暮らしている。

「顕ヲ嬢、貴女が赤子の時にも一度お会いしています。門弟を代表して、私が出生祝いを届けましたから」

 貴女はさすがに覚えてはおられないでしょうが、と飯綱さまは笑った。

「……ですから、実のところ昨日ここへ来て驚きました。ご実家のお屋敷は処分なさったのかと」

 ああ。それをここで問われるとは。


 私の店――屋号を「術商い 登路」という――は、下町の裏小路、昔でいう長屋の密集した区域にある。

 残念ながら御世辞にも高級とはいえない小さな店が連なっていて、表に店舗として使える土間、奥に続きの座敷、台所の向こうのお勝手から猫の額のような小さな裏庭に出ることができて、近年無理やり増築したものとみえる厠もそこにある。うちも含めて一部の家屋は二階にも一間あり、私はそこで寝起きしていた。

 もちろん貸家だ。どう甘く見積もっても、裕福な暮らしとは言えないであろう。

 しかしながら、父の代で登路といえば、素封家として知られる家だったのだ。


「お恥ずかしい話でございますが……実は借財がありまして」

 父の死後にそれが発覚し、屋敷は手放さざるを得なかった。

 私はその頃まだ学生で、母は父の弟という人を頼って財産の整理をした。屋敷と家財を処分したが、私の学費をさらに借りる必要もあり、結局かなりの額が借財として残った結果、それを返済し続けているというわけだ。

「なんと……」

 かいつまんだ説明だったが、飯綱さまは眉をひそめて絶句した。

「母の死後、父の魔術関係の知己の方々とはすっかり縁が切れてしまいましたので、ご存じなくても不思議はありませんよ。この通り独り身ですから、今はなんとか術商いで食い繋いでおります。……飯綱さま?」

 卑屈になりすぎないように軽く言ったつもりだが……

「今から銀行に参ります」

 飯綱さまが丸椅子をがたつかせて勢いよく立ちあがる。

「銀行」

 ご予定があったのを思い出したのかしら。

「残りはどのくらいです?これから用立てて参ります」

 んんんん?

 待て待てまさか。

「貴女の借財ですよ。なに私に任せておきなさい、こう見えて式武寮時代にちょっとした財を蓄えております。すぐに全額返済してきましょう」

 うわーッ! やはりそういう意味か!

「い、飯綱さま! いけません、それはアレです、魅了の術の影響で判断能力が、というか効果つよいな?!」

 止めてくれるな、いや止めます。

 しばし二人、押し問答。

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