第3話 孤独と恐怖
大学3年生まで、結局、
「付き合っては別れ」
ということを数回繰り返しただけで、実際に、
「男性と付き合った」
といえることができる相手がどれだけいたといえるのだろうか?
「長くて半年」
その半年という人も、最後は、
「惰性とマンネリ化」
ということで、別れたというよりも、
「自然消滅」
と言った方がいいかも知れなかったのだ。
しかし、かすみは、もう処女ではなかった。さすがに、大学生にもなれば、
「別に貞操を守りぬくなんて、考えられない」
ということで、
「本当に好きになった相手としか、セックスはできない」
という考えを持っているわけではなかった。
「大好きな人としかしない」
というのは、まるで、
「おとぎ話の中のお話」
のようではないか?
と思えたのだ。
いわゆる、
「お花畑のような話」
ということで、
「そもそも、おとぎ話というのは、その結末がハッピーエンドというものは少ないかも知れない」
といえるだろう。
「寓話」
という言葉があるように、
「教訓めいた話」
というものが結構多く、特に、よく言われているのが、
「見るなのタブー」
というもので、これは、
「日本に限らず、聖書であったり、ギリシャ神話」
というような、神話の世界からあったことだ。
むしろ時代的には、
「おとぎ話」
というものよりも、もっと古いものなので、
「それだけ、いろいろ派生しているものであろう」
ということであった。
「ギリシャ神話」
の中で、有名なものとしては、
「パンドラの匣」
の話であろう。
そもそも、ギリシャ神話というのは、聖書などと違って、有名な話がそんなに世間に普及しいるわけではないので、ピンとこないが、これが聖書となると、結構あったりする。
パッと思いついただけで、
「アダムとイブ」
という最初からである。
「禁断の果実」
を食べてはいけないというのに、食べてしまったというところから始まり。
「ソドムとゴモラ」
の話のように、
「決して振り向いてはいけない」
というのに、振り向いてしまったことで砂になってしまったという話もあるではないか。
日本のおとぎ話としては、
「決して見てはいけない」
と言われたのに、中を覗くとツルが痛いという、
「ツルの恩返し」
であったり、
「開けてはいけない」
と言われて玉手箱を開けてしまった、
「浦島太郎」
の話があるではないか。
そんないろいろな話がある中で、少なくともそれらの話が、
「ハッピーエンドであるはずがない」
といえるだろう。
ただ、その中で、
「浦島太郎」
の話だけが、不可解なのであった。
そもそも、
「カメを助けたことで、そのお礼にと、竜宮城へ招かれたのではなかったか?」
つまり、浦島太郎は、その時点までは、
「いいことをして、そのお礼をされた」
ということで、ラストはハッピーエンドでなければいけないはずだ。
しかし、実際には、ハッピーエンドどころか、
「開けてはいけない」
と言われた玉手箱を開けてしまったことで、一気に転落することになる。
という解釈になるだろう。
しかしそうなのだろうか?
というのは、実はこの話には続きがあり、
「太郎を好きになった乙姫が、カメになって地上にあがり、太郎はツルになり、二人は、永遠に幸せに暮らした」
といいハッピーエンドな話なのだ。
それが、なぜ、
「おじいさんになってしまった」
というところで終わりということになるのだろうか?
考えてみれば、
「そもそも太郎が箱を開けてしまった」
というのは、
「帰ってみると、地上は数百年先に進んでいて、知らない世界になっていた」
ということであった。
ここで重要なのは、
「自分が知っている人」
あるいは。
「自分を知っている人が誰もいない世界になっていた」
ということであった。
それが、
「しょうがない」
ということだったのか、
「竜宮城から地上に帰ると、竜宮城の秘密を知られないようにするための、一つの方法なのかも知れない」
ということなのかとも考えられる。
方法としては、他にもあるだろう。
「地上に返す時、記憶を消してしまう」
という方法であり、逆に、こちらの方が、
「一般的だ」
といえるかも知れない。
しかし、そこまでしなかったのは、この物語が、
「おとぎ話」
という、
「童話だ」
ということからではないだろうか?
せめて、
「老人にする」
ということにしておいて、ただし、寓話として、
「見るなのタブー」
に準拠するとすれば、
「ハッピーエンド」
ということにはできないというような理屈が成り立つのかも知れない。
さらに、この話に含みがあるとすると、キーとなるのは、
「自分を知っている人、自分が知っている人が誰もいない」
ということになるのであった。
この場合は、
「竜宮城側の、いや、乙姫側の都合があるのかも知れない」
ということも言えるだろう。
というのは、
「本来なら記憶を消したい」
と思うところであるが、乙姫の気持ちとして、
「自分を忘れられたくない」
ということから、地上に帰った太郎が、失望してしまって、そのまま何十年も生きなければいけないというような、
「生き地獄」
と味わうのだとすれば、
「せめて、おじいさんにしてしまうことで、その苦しみをなるべく短くしてあげようという意志があったのではないか?」
ということである。
ただこの場合は、
「乙姫のエゴ」
ということで、
「わがままだ」
ということになる。
好きになった相手に忘れられたくないということで、記憶を消さないということになれば、それは、
「彼女の勝手な理屈」
ということでしかないだろう。
もちろん、これは、
「読んだ側の勝手な解釈だ」
ということになるが、
そもそも、小説であったり、物語というのは、作者にもそれなりの意図があって書いているということであろうが、解釈するのは、読者がそれぞれにすることであって、大筋はあっても、解釈はいろいろだということである。
それを考えると、
「浦島太郎」
の話は、あくまでも、
「見るなのタブー」
ということに対しての、戒めの話だということになるのだろう。
そういう意味で、
「おとぎ話」
というものは、
「何も、すべてが、お花畑的発想ではない」
ということが言えるだろう。
それだけ、
「世の中は甘いものではない」
という教訓が、おとぎ話というものだということになれば、
「見るなのタブーが、世界各国の寓話に残っている」
というのも当たり前ということではないだろうか?
それを考えると、
「お花畑的発想」
でずっと生きていくことはできないといってもいいだろう。
そういう意味では、
「大学受験」
という難関を乗り越えて掴んだ大学生活であるが、それを、
「ご褒美」
ということで、
「そこが終点」
と考えるのは、世の中では、
「甘い考え」
ということになるだろう。
たとえば、芸術家になりたいと思ったとすれば、今の世の中であれば、
「何かの賞というものに応募して、賞を取る」
というのが、一番の近道ということになるだろう。
「芸術家への登竜門」
などと言われているコンテストであったり、コンクールのようなものがあるではないだろうか?
それを突破することで、
「やっと、芸術家になることができた」
ということになるわけで、これだけを聴くと、確かに、
「ゴールのような気がする」
というものだが、そうではない。
「プロになる」
ということを最終目的に掲げてしまっているのであれば、確かにそこで終わりだといってもいいだろう。
しかし、実際には、
「プロになってから」
というのが大変なのであり、
「受賞作品は確かに賞賛され、そこで、いろいろなメディアに紹介されたりして、そこかの会社と契約を結ぶというプロになる」
ということだ。
しかし、契約した会社には、他に、たくさんの、
「先人」
というものがいるわけで、あくまでも、まだ新人というのは、学校であればまだ一年生ということで。そこから先が、
「プロとしてのスタートラインだ」
ということである。
もっといえば、
「やっと受賞できた」
ということで満足してしまったり、
「受賞するまでに、自分の生気を使い果たした」
という感覚になることで、出版社とすれば、
「受賞作の次回作は、さらにいい作品ではないといけない」
と思うのだった。
厳しいことは分かっているが、なぜそういうシビアなことになるのかというと、
「読者が望むから」
ということである。
出版社とすれば、
「新進気鋭新人による問題作」
というような宣伝文句をつけて、彼が、
「賞の受賞者である」
ということを前面に押し出して、宣伝しているのだから、
「読んでみたけど大したことない」
などいうレビューでも書かれると、作家が、
「自信を無くす」
という程度では済まない。
出版社の方が、溜まったものではないと感じるだろう。
まったく宣伝に敵わないだけの作品であれば、本屋から、どんどん返品となり、作家も当然自信を失い、立ち直れないということもあるだろう。
それが、
「スタートラインであるのに、そこで息切れしてしまう」
ということの末路であろう。
だから、
「小説家や、漫画家のタマゴと言われる人がたくさんいる」
ということになるのだろう。
実際に、たくさんの芸術家で、
「新人賞」
を受賞する人がたくさんいるのに、実際に、
「プロの小説家」
として活躍できている人は、一握りだということになるのだ。
「まるで就活での内定者のようだ」
ということで、業種によっては、毎年、かなりの数の新入社員を取っているところがたくさんある。
何も知らずに、
「この業界だったら、就職は簡単だ」
ということで考えていると、実際には、
「辞める人を見越して、雇っている」
ということになるかも知れない。
というのも、
「毎年1年目で残る社員は、1,2名しかいない」
ということで、
「じゃあ、毎年どれくらいの社員を入れるんだ?」
ということになると、
「10人以上」
ということになると、気が付けば、
「残るのは、1割程度」
ということになるだろう。
だから、
「雇う方も、それを見越して取っている」
ということで、
「たくさん毎年取っているから」
ということで、確かに内定はもらいやすいかも、知れないが、こういう業界は、
「入ってから、ふるいに掛けられる」
ということになるのか、それとも、
「それだけ、覚えることが大変であったり、ストレスを抱えて、病んでしまう」
という仕事なのだということなのかも知れない。
かすみは、就活では、
「そういう会社の存在は分かっていたので、無理にそういう会社を狙う」
ということはしなかった。
確かに、就活には、それなりに苦労もしたし、なかなか内定がもらえないという時期は、精神的にもきつかったのだった。
だが、面白いもので、
「ひとつ内定をもらえると、そこから先は、数珠繋ぎ状態で、結構内定がもらえたりした」
というのは、
「企業の中には、応募に対して募集があまりにも多くて、選考するのに、かなりのそぎ落としが必要だった」
ということもあるだろうが、中には、
「そぎ落としすぎて、いつも人数が足らないので、第二次選考という形」
言い方を変えると、
「敗者復活戦」
のような形で、一度はその年の就活を終えたような企業も、
「第二次募集」
というものをしているというところもないわけではなかった。
ただ、その場合は、オープンにはしていない。
実際の就職戦線においてそれは、
「法律違反ということではないが、規律を守れない」
ということで、
「タブーだ」
ということになるだろう。
だから、第二次募集というのは、
「学閥のある大学の就職センターのようなところに、声を掛けておいて、大学から、推薦してもらう」
という形のシステムを取っていた。
ここでも、もちろん、フリーパスというわけにもいかず、新たに、
「就活」
ということになるだろう。
ただし、この場合は、第一次で不合格になった人は、ここでは、
「ご遠慮いただく」
ということになるであろう。
それを考えると。
「就職活動」
というものが、ある意味では、
「大変だ」
ということになるのだろうが、逆に焦る必要はないということで、
「第二次」
というのもある。
ということを知っていれば、気楽にできると考えている人もいるだろう。
だからと言って、いつも簡単に考えていると、どこかに落とし穴というのはあるというもので、その発想は、
「これが、コールではなく、出発点だ」
ということになるというのを忘れてはいけないということだ。
確かに、
「学生」
という立場のゴールではあるが、もっと厳しい社会人というのは、自分でも、
「ずっと考えていたことではない」
ということで、自覚がないだけに、就職してからは、
「一年生の新人だ」
ということを忘れてはいけないだろう。
かすみは、就活には、そこまで苦労はしなかった。
うまく乗り切ることができて、就職のために費やした心労も、そこまで厳しいものではなかったと思っている。
ただ、実際に、内定がなかなかもらえず、
「何とかなる」
とは思いながらも、最終的に就職できたということで、
「ホット胸をなでおろした」
ということになるのである。
それは、
「高校の時に味わった、大学事件の厳しさ」
とはまた違ったものであった。
高校時代には、
「勉強をするのはきついが、やればやっただけの努力が報われる」
というものが受験であり、就職活動というものは、
「頑張ることは当たり前だが、相手が何を求めているか?」
ということをこちらでしっかり把握することで、
「合否が決まる」
といってもいいだろう。
正直、
「就職活動というのは、情報戦だ」
といってもいい。
これは、公開されている情報以外に、就活生同士でしか知りえない情報というものが存在していて、それがいかに活動できるかということに掛かってきているといってもいいんのではないだろうか?
それを考えると。
「高校時代と違って、大学というところでは、そういうテクニックを身に着けるためのところであり、ある意味、勉強だけが大切なことではない」
といえるだろう。
新しく入った会社では、最初からあまりうまくいかなかったというのが、本音であった。
というのも、最初に躓いたのは、
「五月病」
というものに引っかかったということが最初だった。
そもそも、
「五月病」
というものは、話には聞いていたが、実際にどういうものなのかということは知らなかった。
特に、
「孤独で寂しい」
ということをそれまでに感じたというのは、
「中学時代が最後だった」
という意識をちゃんと持っていたからだ。
中学時代の途中から、
「孤独というのも悪くない」
と少しだけ感じていた。
というのも、
「中学時代に、一度引きこもりのようなことになったことがあった」
というのは、
「苛めにあったから」
というのは、引きこもりの一番の理由であろうが、かすみの場合はそうではなかかった。
「理由は分からないが、何か寂しいという思いが強い」
というところから入ったもので、
学校から帰って、一人になる。
それまで一人でいることで、
「部屋が狭くて仕方がない」
と思っていたが、実際には、
「こんなに私の部屋は広かったのかしら?」
と思ったことであった。
確かに部屋が広いと感じたのは、
「明るさの問題」
といってもいいかも知れない。
部屋にいて寂しさを感じたのは、
「部屋の中央での明るさが、部屋の隅々まで届いていない」
という感覚からだったような気がする。
しかし、途中から、
「部屋の奥の方まで、明かりが行き届いている」
という感覚から、
「端の方まで、暖かさが染みているようだ」
と感じたことから、部屋を広く感じるようになった。
暗い部分があっても、そこには、それなりの広さを感じていたのだが、それは、薄暗さから、
「無限に見える」
という感覚からであった。
しかし、実際には、そういう感覚ではなく、
「無限に見えるものが、実は温度差を生んでいた」
と感じると、そこに、
「冷たさが、硬直した空気を感じさせる」
ということで、距離感がつかめなくなるのだった。
「距離感がつかめないというものが、そのまま無限というものを醸しだすものではない」
ということを感じさせる。
そこには、
「見えないことへの恐怖」
というものが、いかに、気持ち悪さを演出するか?
ということで、まるで、
「底なし沼」
というようなものを感じるといってもいいだろう。
「底なし沼というものは、考えてみれば、理屈に合わないもの」
といってもいいかも知れない。
「底がない」
ということで、
「すべてが、奈落の底に落ち込んでしまう」
ということであれば、そもそも、沼に張っている水というものが、どこで引っかかっているのか?
という単純な疑問に、まったく回答していないということになるのではないだろうか?
ということを考えると、
「無限というものが、果たして存在するのであろうか?」
ということを考えさせるということになるのだ。
たとえば、
「合わせ鏡」
というものや、
「マトリョシカ人形」
というものを考えたとして、合わせ鏡というのは、
「自分を中央において、前後に鏡を置いた時、鏡に映った自分の姿の後ろに、後ろから自分を映した姿が映っている」
ということから、
「さらに、その後ろに、今度は反対側から映る自分」
という姿が映っているということになり、
「どこまでも続く。自分の姿」
ということで、
「だんだんと小さくなっていっている」
ということと、その向こうに見えている姿が、
「無限である」
と思わせることで、
「ゼロになるということはない」
という考えから、
「限りなくゼロに近い」
という発想が生まれ、それが、
「「無限をならしめるということになる」
というものであった。
だから、無限に見えているそのものは、
「どこまでいっても、ゼロにはならない」
ということで、それは、
「数学は証明している」
といってもいい。
要するに、
「整数同士の割り算であれば、どんなに分母が大きくて、分子が小さいものであっても、
ゼロになることはない」
というものであった。
自分の部屋がそんな部屋だということに気が付いたから、
「限りなくゼロに近い」
という発想が生まれたのか?
それとも、数学の授業で、公式を見た時に、
「限りなくゼロに近い」
というものの存在を感じた時、
「無限というものを、自分の部屋に照らし合わせる形で感じた」
ということなのかというのを思い浮かべるようになったということであろう。
中学時代に部屋の広さを感じた時、
「何かに救われた」
と感じた。
それは、
「孤独であるにも関わらず、自分というものが、分かっているわけではないので、何かに救いを求めることで、無限の暗さの恐ろしさに、恐怖を感じるということがマヒしていたのではないか?」
と感じたのだ。
その思いが、中学3年生で、
「受験」
というものを初めて味わった時、
「孤独を恐怖として感じなかったことがなかった」
というのが、受験をうまく乗り越えられた秘訣だったのかも知れない。
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