第2話 恋愛感情
中学と違って、高校は、
「女子高に行ってしまった」
というのも、仕方がないこととはいえ、
「間違いの元だった」
ともいえるだろう。
それは、自分の成績でいける学校で、
「合格したのが女子高しかなかった」
ということで、しょうがないといえばしょうがない。
高校生になってからでも、
「女子高でも、彼氏を作ることはできる」
と、たかをくくっていたが、それも、夏休みが終わって、二学期が始まると、いつの間にか、
「焦りのようなものが生まれていた」
ということであった。
高校生になると、中学時代と違って、
「何が楽しいのか?」
と考えるのである。
高校時代というのは、
「中学時代と何が違うか?」
ということは、いうまでもない。
つまりは、
「義務教育ではない」
ということだ。
「教育を受ける権利はあるが、教育を受けさせる方には、その義務はない」
ということで、
「成績が悪かったり、学校になじまなかったりすれば、別に学校を辞めようがどうしようが、自由だ」
ということである。
しかも、校則というものが厳しいところは、生徒を退学にだってすることができるわけで、それだけ、厳しい環境だとも言える。
特に、
「特待生扱い」
というものは特殊であり、スポーツ関係であれば、
「その競技ができなくなれば、簡単に切り捨てられる」
というものだ。
「学費免除」
ということで、スカウトしてきた生徒を特待生扱いにしたが、それはあくまでも、
「部活で成果を挙げている」
ということが条件である。
けがをしたりして、
「それが、自己責任であろうが、しょうがない事故のようなものであっても、結局は、何もできない」
ということになる。
普通に考えれば、
「高校生にはかわいそうだ」
ということであるが、厳しいようだが、
「学校は勉強をするところ」
ということで、
「スポーツ推薦」
などというのは、あくまでも学校のメンツのようなものであり、一つの営業ではないだろうか。それに乗っかった生徒も、本当は覚悟の上で行かなければいけないものを、覚悟もなく行っている生徒であれば、
「バカを見た」
というよりも、
「自業自得だ」
といえるのではないか?
かすみが、その頃、
「彼氏がいないことを悩んでいた:
ということなど、父親の新藤には分かるわけはなかった。
特に、まだ子供だったと思っている娘だったので、父親としては、普段の生活であれば、
「母親がいない」
ということを意識していて、
「自分がしっかりしなければ」
と思うのだが、こと、精神的なこととなると、どうしても手を出すのが怖いのだ。
特に、
「思春期の娘」
では、どうしていいものか分からない。
まだ、娘が幼女の頃で、
「お父さん、お父さん」
といって、寄ってきてくれた頃は、
「よしよし」
といって、頭を撫でてやると、ニコニコ嬉しそうな顔をする娘を見ていて、
「これ以上、楽しい思いはない」
と思っていたのだ。
その頃から、
「娘が思春期になったら」
という意識がなかったわけではない。
「先読みをする」
というのは、新藤にとっては、いつものことであり、
「得意とすること」
でもあったのだ。
しかし、この時は、
「一番の難関」
ということで、娘の節目を考えていたのだが、それは、
「母親がうまくやってくれるだろう」
ということで、安堵していたのだ。
しかし、母親が急に亡くなってしまったことで、悲しみに打ちひしがれている時だったので、
「母親に任せておけばいい」
という意識だけが、別のところにあったのだ。
だから、
「母親が亡くなった」
ということと、
「娘の問題を母親に任せていた」
ということが、同じ線上にあるわけではなく、まるで異次元のことのように感じてしまったので、
「娘が思春期になった」
と感じていても、自分では、まったく気づいていなかったといってもいいだろう。
それが、父親にとって、盲点であったし、我に返った時には、
「失念していたのは自分のせいだ」
ということで、
「母親に任せた」
ということすら忘れてしまっていたのであった。
そんな父親だからこそ、娘が思春期を迎えると、今度は、
「自分ではどうしようもない」
ということで、シャッポを脱ぐという感覚になったのだろう。
「なるべく、娘とかおを合わせない」
という、本末転倒な方法に舵を切ってしまい、それが最悪ともいうべき、
「逃げ」
という態度をとってしまったことで、娘から疑いの目を向けられるようになるとは思ってもいなかった。
ただ、この時の態度が、父親である新藤の態度を決めたといってもいいだろう。
娘は高校生の間、相変わらず彼氏ができない。
それは、彼女の中で勘違いというものがあったからだ。
ということになるのだが、それは、
「彼氏というのは、自分から行動しないとできない」
ということを失念していたからだ。
「何もこちらから行かなくとも、男が来てくれる」
と思い込んでいたのだ。
それは、あくまでも、マンガやドラマを見ていて、
「オンナの立場から見ていて、そう感じた」
というのが一番だったのだろう。
自分にとって、青春というものを勝手に思い浮かべていると、
「こちらから行動するのは、ものほしそうに見られて、みすぼらしく思えて、却って男が寄ってこない」
と思ったのだ。
確かに、昔はそういうところがあっただろうが、今はそんなこともない。
「婚活というのは、男女それぞれに行うものだ」
と言われるが、ただ、
「婚活での費用は、男は高いけど、女性は、ただだったり、安かったりするから」
といっていた友達がいて、その言葉をそのまま信じたから、自分から行動しなかったのだろう。
もっといえば、
「自分から行動するのは、貧乏くさい女のすることだ」
ということで、
「オンナが動くというのは、はしたない」
という、時代錯誤も甚だしいと覆える考えを持っていたのだろう。
それは、かすみだけが悪いわけではない。
実は、親が二人とも、似たような考えを持っていたのだ。
両親は、そもそもが見合い結婚で、特に父親の方が、
「恋愛に関しては、別に気にしていない方だった」
といってもいい。
今でいうところの、
「草食系男子の走りだった」
といってもいいかも知れない。
というのも、
父親が学生時代というと、
「結構離婚率が上がり始めた頃」
といってもいいだろう。
世間では、
「成田離婚」
などという言葉が流行っていて、
「同棲などは普通にあった時代だが、逆に、同棲しているから、相手のことをすべて分かっているというような気持ちになっていたが、いざ結婚してみて、新婚旅行で、結婚してから初めての共同生活をしてみると、それまで見えてこなかったものが見えてくる」
ということだ。
それは、
「自分が見えていなかったのか?」
それとも、
「相手が無意識にだろうが、隠そうとしていたのか?」
ということは分からないが、結局、
「見えてしまったことで、完全に冷めてしまい、今だったら、やり直せると思うのか、お互いに離婚で考えが一致した」
ということになるのだろう。
当事者でなければ、この気持ちは分かるはずもない。
だからこそ、
「信じられない」
と思いながら、
「結婚するということは、そういうことになるということなのだろうか?」
と、
「結婚というものに、夢を見るのがバカバカしくなった」
と思うことだろう。
父親の逃げに対して、娘の方は、
「別にお父さんを避けているわけじゃないんだけど、ただ、今は好きになれない」
という感覚ではないかと思っていた。
父親とすれば、
「逃げているわけではないのだが、やはり母親がいないと、父親だけではダメだ」
と思っているのも事実で、違う方向を見るようになっていた。
というのは、
「娘には母親が必要なのかも?」
ということで、実際に、誰にも言わず、
「婚活に励もう」
と考えてもいた。
実際に、まだ、年齢は、当時40歳ちょっとだったので、婚活パーティなどでは、
「年齢的に、ちょうどいい」
といってもいいだろう。
もちろん、初婚ではなく、再婚という意味でであるが、実際に、婚活パーティなどでは、
「年齢別」
「再婚、未婚」
それぞれのコースがあり、人数制限も、さらには値段体系も違っていて、それぞれに、当然、出席者も違っていることだろう。
新藤は、数回申し込んで出席した。
最初の頃は、まったく話もできなかったのだ。
こういうパーティの定番コースというと、大体
「2時間」
のコースがほとんどだろう。
形式としては、お互いに対面形式で、男女が座るという、
「カフェのような雰囲気であるが、そこで、男女がまず対面で座り、3分から5分くらいの間で軽く、自己紹介などを行い、時間が来たら、
「男性が、時計回りに移動していく」
という形を取り、最後に戻ってきたところで、その時間帯は終わりということになる。
もちろん、参加人数によって、男女比が若干違うということは当たり前だが、極端に違う場合は、
「イベント自体が中止」
ということになるのだろう。
だから、大体、男女それぞれ、最高でも20人くらいにしておいて、男女差が、3人以上になると、中止ということもあっただろう。
ただ、あまり中止というのが多いと経営が成り立たないので、少々であれば、強硬することもあるだろうし、最後の手段として、
「社員をサクラにつかう」
ということもあるだろう。
最初に、自己紹介カードを記入しておいて、それを相手に見せることで、短い時間を有効に使えるというものであった。まるで、
「履歴書」
のようなものである。
それから、今度は、
「ツーショットタイム」
ということになり、
「気になった異性に、自分からアタックをする」
という時間である。
その時間は、
「自分から行かないと、取り残される」
という時間であり、それこそ、
「肉食系」
でなければ、弱肉強食の世界では生きていけないということになるだろう。
しかし、あまりガツガツいくと、そういう男性が嫌いな女性もいるので、そのバランスが大切である。
とにかく、
「自己主張は、しっかりとカードに書くなりして、相手に印象付ける。相手も、パートナーを探しているのだから、真剣なのは当たり前である。そのバランスが、大切だ」
ということになるのだろう。
実際に、恋愛カードには、あまり何も書いていないという人と、たくさん書いている人の差が激しかった。それが、
「やる気」
というものに繋がっているのだろう。
ほとんど何も書いていない人は、実際に会話をしても、何も繋がった話ができるという気はしないし、何よりも、
「最初の3分では、何も分からない」
ということになるのだ。
そうなると、普通であれば、
「もう少し知りたい」
ということで、次のツーショットタイムで、指名したしたくなりそうだが、逆にこれだけ何も伝わってこないと、
「時間がもったいない」
ということになる。
普段一緒にいる人で、
「控えめな性格なのではないか?」
と思える人であれば、控えめなタイプが好きであれば、
「もう一度話をしたい」
と思う人もいるかも知れないが、実際にはそうもいかない。
何といっても、この場所は、
「自分をアピールすることで、異性の知り合いを作りたい」
と真剣に考えている人が来るところだと思っているからだ。
こういうところで控えめな人とすれば、一番用語できるパターンであれば、
「この人はまだ、初心者で慣れていないだけではないか?」
ということであれば、まだいいかも知れない。
しかし、少しひどくなると、
「ここには、誰かに誘われて、気乗りしないが、付き合いでやってきた」
という人である。
そんな人であれば、
「自分の意見をもっておらず、仲良くなったとしても、いつ、他の人にいってしまうか分からない」
ということになる。
もし、人に誘われてきただけで、気乗りしないと思っているのであれば、
「最初からお断りだ」
といってもいいだろう。
そしてもっとひどくなると、
「毎回顔を出している」
という女性である。
そういうパーティは、一日に何度も開いている場合がある。
例えば、
「午前の部」
「午後の部」
という感じである。
そして、午前の部でカップル成立して、連絡先を交換することができたとしても、その人は午後の部にも参加していて、そこで、カップルとして他の人とカップルになる可能性もある。
もし、それが分かれば、興ざめしてしまうというのも、無理のないことだ。
しかし、それは男性にも言えることで、中には、
「午前の部で、カップルになった同士が、午後の部にも参加している」
ということも、普通にあったりするので、それはそれで、
「お互いに気まずい」
というもので、最初の自己紹介タイムなど、それこそ、
「3分は長すぎる」
というものだ。
もう一度、
「初めまして」
といって、午前の部と同じことをしなければならず、思わず心の中で、滑稽な自分たちを笑ってしまうことであろう。
もっと最悪になると、
「相手の女性は、ただのサクラ」
ということもある。
この場合は、
「社員である」
ということもありえる。
というのは、前述のように、
「男女比にバランスが取れていないと、中止になったりする」
ということで、せっかく時間を作って、準備をしているのに、人が集まれないことで、その時間、予定していたパーティに穴が開くということになれば、その人数分の収入はないわけで、従業員の人件費などの経費が無駄になってしまうということになるのだ。
そうならないように、
「もし、女性が足りないのであれば、女性社員が、あるいは、男性が少ないのであれば、男性社員が、サクラとして参加する」
ということもあってしかるべきだろう。
毎回のように、真剣に参加するが、なかなかうまくカップルになれないというような人であれば、その事情は、ウスウス分かっているかも知れないが、たまに参加する程度の人であれば、
「何とかごまかせる」
というものであろう。
そんな、
「お見合いパーティ」
というのが流行った時代があったのだ。
ただ、細菌は、そういうのも聴かなくなった。
「一時期のブーム」
ということだったのか、それとも、
「成功率がそれほど高くない」
ということなのか、
あるいは、
「コミュ力というものが低下傾向にあり、参加する人自体が減ってきた」
ということなのだろうか?
結婚相談所」
というのは、相変わらずなので、
「結婚したい」
と思っている人が減ったということはないような気がする。
だとすれば、
「やはり、一過性のブームだったのかも知れない」
と思ったが、
「ブームというのは、一定期間で繰り返す」
ということも言われていることから、
「また起こるかも知れない」
ともいえる。
ただ、
「何も絶対に結婚しなければいけない」
というわけでもなく、実際に今の時代、結婚しないという人も増えている。
中には、
「離婚するくらいなら結婚しない方がいい」
と思っている人もいるだろう。
そもそも、
「お見合いパーティに、コミュ力不足で参加したくない」
と思っているような人が、結婚して女性とうまくやっていけるというのであろうか?
それを考えると、
「思い出の中に浸っている方がいい」
と思うことだろう。
父親も、実は、半分そんな心境になりかかっていた。
「娘が、中学、高校くらいの頃は、母親がいないとかわいそうだ」
と思っていたが、娘の様子を見ていると、
「どうも、母親がほしい」
という感覚ではないようで、どちらかというと、
「お父さんは、お母さんのことを忘れたの?」
と思っているのではないか?
と思ったからだった。
そんなことを感じ始めた頃だったが、
「お父さんは、お母さんを忘れたの?」
と、頭に描いていた言葉をそのまま言われた時、我に返った気がした。
それだけ自分が、娘のことを見すぎたことで、直視できていなかったのではないかと思ったからだ。
娘を真剣に見ているつもりで、どこか遠慮しているところがあった。
それは、
「思春期の頃に、娘の態度は、完全に私を避けている」
という意識があったからだ。
「まるで汚いものでも見ているようだ」
と感じたのは、
明らかに、その視線が、毛嫌いしていて、口元が、
「チェッ」
といっているようにさえ見えたのだ。
娘が思春期というデリケートな時期に差し掛かっているというのは、誰の目にも明らかなことだが、
「父親も、娘に最大限の気を遣う」
ということで、
「デリケートになっている」
ということを理解している人はほとんどいないだろう。
もっとも、そういう感覚は、他の人はどうでもいいことで、肝心の娘が分かっているかいないかということである。
娘としても、
「自分のデリケートな精神状態をいかに保つことができるか?」
ということに一生懸命で、父親に対して、気を遣うということはあるが、それはあくまでも、
「自分のため」
ということで、それだけ、
「自分でも、どうすることもできない」
という状態になっている。
ということではないだろうか。
だから、父親と娘の関係として、
「通らなければいけない道」
ということである中で、一番の、
「いばらの道」
なのかも知れない。
そうこうしているうちに、父親も疲れてきた。
「どうやら、娘は母親を欲しているわけではない」
ということも分かってきて、
「お母さんのことを父親が忘れたわけではない」
ということも、娘の方でも分かってくると、父親は、
「婚活」
というものをすっぱりと辞めた。
お見合いパーティに参加することもなくなり、今までカップルになった人と、中には時々会ったりしていたが、
「どこかぎこちないな」
と思いながらであったので、もう呼び出すということをやめると、相手からも連絡をしてくることもなくなった。
連絡先はすべて消去しようかと思ったが、2,3人だけは残しておいた。
その人たちは、
「異性の友達」
として、十分にやっていける人たちだと思ったからだった。
実際に、その後、連絡を取り合うことはあったが、会うということまではしなかったのだ。
お見合いパーティにもいかなくなると、余計に、
「一人の時間」
というものが楽しくなった。
「趣味の時間を楽しみたい」
ということで、カルチャーサークルの、
「絵画教室」
というものに通い始めた。
娘も賛成してくれているのが分かると、それから逆に、父娘の会話が、前よりもかなり増えたことに、二人は満足していた。
ただ、それは娘としては、
「高校時代以降で、父親とのわだかまりというような厄介な問題がなくなったことは、ありがたい」
ということであった。
高校時代は、特に大学受験というものを控えていて、その分精神的にきつい状態に追い込まれていたので、それも仕方のないことだった。
高校の3年間、女子高だったというのは、
「一長一短だった」
といってもいいだろう。
「彼氏がほしい」
という感覚は間違いなくあるのだが、だからと言って、そっちに集中してしまうと、
「これから大学受験のために覚悟を決めなければいけない」
と思うと、
「彼氏がほしい」
という思いを、
「大学生になるまで持っていけばいい」
と思ったのだが、その反面、
「高校時代の今でしかできない恋愛をしてみたい」
という思いがあったのも事実だった。
しかし、実質的に、女子高というのは、
「友達の紹介のようなものでもなければ、男子と知り合うことはできない」
と思えたのだ。
しかし、
「紹介してもらえそうな友達もいないしな」
ということで、
「もし、紹介してもらえるとすれば、それは、顔の広い女の子で、下手をすれば、下僕として従わなければいけない」
という相手なのではないかと思うのだった。
かすみも、父親の遺伝なのか、あまりコミュ力は高くない。
中には、無口でも、その分男性から見て、
「目立つ」
というタイプの女の子もいて、そういう女の子は、女性から見ても、
「目立つタイプ」
ということを感じさせる、一種の、
「オーラのようなもの」
を感じさせるというものであった。
しかし、かすみには、そんなオーラはなかった。
その頃のかすみは、
「意外と、自分で自分のことを分かっているのではないか?」
と思っていたが、それをあまり表に出さないようにした。
「まわりは、皆敏感になっている」
ということで、本人がそこまで考えていないようなことを、まわりは敏感に感じているのではないか?
と思うのは、思春期も終わって、
「いよいよ、大人になる階段の後半に差し掛かった」
と思うからだった。
それだけ、
「そんな大切な時期に、大学受験が控えている」
というのは、もったいない気がした。
しかし、逆に、
「そういう今だからこそ、大学受験に耐えられるのかも知れない」
とも感じた。
高校生というものが、大学生になった時、
「大学受験の難関を突破し、今までできなかったことを思い切りできるようになった」
と感じるのは、
「皆が皆そうなのだろう」
と思う。
しかし、その感じ方には、千差万別があり、
「一人一人、感じ方も、その度合いも違う」
といってもいいかも知れない。
特に、
「これで、我慢していた遊びができるかも知れない」
という思いと。
「新しいことができる」
という勉強以外での楽しみとを感じる人であり、それは、
「それまでの呪縛から解き放たれた」
と感じている人であろう。
こちらが、一番、圧倒的に多い考え方を持っている人だといえるのではないだろうか?
逆に、
「これから、大学での勉強に励みたい」
と思っている人も若干いるはずだ。
むしろ、
「大学受験というのは、そのためにするものだ」
というのが、正論ではないだろうか。
受験勉強はあくまでも、
「詰込み」
というもので、何といっても、
「マークシート」
というもので、答えるのだから、
「大量の知識を覚えさせられ、それを、マークシート方式で答えることができる」
というように、
「訓練された」
ということで、試験勉強が生きてくるという感じになってしまうのだろう。
だが、大学の勉強というのはそうではない。
確かに、1年生の間は、
「一般教養」
というものが主であり、そこで一定の単にを取得しておかなければいけないのだが、それでも、
「高校までの勉強とはかなり違う」
といえるだろう。
同じ教科であっても、先生によって個性があり、教える内容も様々、しかも、
「その教科に対しては、専門的な知識」
を持っていて、それがあることで、
「大学教授」
という肩書が、皆に眩しい後光のようなものを与えるのであろう。
そして、2年生からは、いよいよ専攻分野が主題になり、
「ここからが、大学に入学したことの神髄なのだ」
ということになるだろう。
かすみは、大学生になると、
「それまでの暗さが、眩しいくらいの大学生活で一変させてくれる」
と考えた。
まるで、レジャーランドといってもいいくらいなのは、
「自分が大学生という肩書を持った」
ということで感じるものだった。
とにかく、
「大学受験という難関を乗り越えて大学生になった」
ということは、
「人生におけるご褒美」
というように思えたのだ。
それが、
「大学受験を乗り越える」
ということで、
「本来であれば、入試突破というのは、大学生のスタートラインだ」
と思うのが当たり前なのだが、実際には、
「そこがゴール」
ということで、大学時代には、段階があるということを感じ、
「最初の段階は、そのご褒美のために使う時間」
ということであり、次の段階は、
「勉強にいそしむ」
という時間なのではないかと思うのだった。
かすみとすれば、大学に入ってから、
「彼氏がほしい」
という感覚は、
「最優先だ」
と思うようになっていた。
「中学、高校時代と、彼氏を作るのは、まだまだ先だ」
と考えていたのだから、
「やっとその時が来た」
と感じた。
それに、
「大学に入学して、まわりの雰囲気に触発されたかのように、自分には、コミュ力が上がった」
という意識を強く持てるようになった。
それが、本当の力なのか、自分でも分からなかったが、少なくとも、
「大学生」
という肩書は伊達ではないと思えるようになったのだ。
そんな大学時代において、数人彼氏と呼ばれる人もできたのだが、なかなか交際としては続かない。
「何が悪いんだろう?」
と考えるが、その答えが出ることはなかった。
しいて言えば、
「お互いに、遊び感覚だ」
と思っていることが原因なのかも知れない。
もっとも、
「大学生なのだから、最初は遊び感覚」
というくらいでないと、最初からぎこちなくて、お互いに相手に気を遣ってばかりだと、ろくなことはないということであろう。
それを思えば、
「大学生の付き合い」
というのは、前から考えていたよりも、よほど薄っぺらいもので、まるで、
「張りぼてのようではないか?」
と思えるのだった。
それこそ、父親が前に味わった、
「お見合いパーティでできたカップル」
のようなものかも知れない。
父親が感じたのは、
「形式的な関係」
という、
「薄っぺらさ」
というものであった。
しかし、娘が感じたのは、
「大学生活」
という甘いレールの上に敷かれた、
「形式的なもの」
という感覚で、
「父親が感じたものは、社会のルール」
というものの中で、さらに現実的な形式というものであるが、娘の方は、
「大学生という幻想の中に身を置いたことでの、形式的な付き合いということなので、社会全体という広いものではなく、大学生という幻想を見ているということ」
であった。
社会人としては、
「その限界というものが見えてきたことで、無限だと思っていたものが違って見えたことで、冷めて感じるようになった」
ということが、
「お見合いパーティに行かなくなった理由かも知れない」
といえる。
しかし、娘の場合は、最初から、無限だという感覚はなく、大学生という幻想に抱かれたことで、次第に、
「無限に先がある」
という幻想に抱かれてしまったことで、
「限界があるものを無限だ」
と感じたことで、感覚がマヒしてしまったということでの思いから、
「何も、その人だけが男というわけではなく、もっとゆっくりと選ぶことで、最高の優良物件を探し当てる」
と考えると、
「何も焦ることなんかないんだ」
ということになるのであろう。
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