犯罪という生き物
森本 晃次
第1話 成長期
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年2月時点のものです。時代背景と時代考証とは、必ずしも一致するわけではありませんので、ご了承ください。一種のパラレルワールドでしょうか?
男女の恋愛がもつれるというのは、古今東西どこにでもあるということであろう。恋愛感情というのは、その年齢によって、いろいろ感情も違うだろう。若い人たちの恋愛というと、
「燃えるような恋」
と言われるもので、猪突猛進型だということも多いだろう。
逆に、年齢を重ねてからの恋愛というと、
「結婚」
というものが前提にあり、実際に結婚をしても、実際には別れる可能性が高いと思えるのはどうしてだろうか?
特に中年くらいになって結婚する人は、自分のまわりにも何人かいたが、なぜか離婚していることが多いような気がする。
しかも、数か月で離婚したとか、気が付けば離婚していたとかいうようなことが日常茶飯事に起こっているように思えるのであった。
今年で50歳になる新藤豊という男は、奥さんを早くに亡くし、男で一つで娘のかすみを育てた。
奥さんが亡くなって15年、娘のかすみがまだ10歳の時だった。
仕事は自営業だったので、サラリーマンよりは、
「子育てに苦労はない」
と思われるかも知れないが、新藤は、職人だった。
工芸作家と呼ばれるもので、依頼を受けて製作をするというもので、
「子育てのために、製作がおろそかになった」
などというと、今度は生活をしていけなくなるということになる。
新藤の家は、表では、自分が製作した工芸を含めたところで、衣類であったり、カバンや、陶磁器などと言ったものを、昔ながらの店で、商いを行っていたのだ。
そもそも、新藤が住んでいる街は、昔ながらの職人の店が軒を連ねていて、今では珍しい町並みになっていた。
それでも、潰れずにやっていけているのは、近くに歴史的な文化遺産であったり、観光地が充実していることで、このあたりも、
「昔ながらの街並みが味わえる」
ということで、観光の目玉になっていたからだ。
特に、最近では、外人客が多いようで、外人には、文化遺産を観光するよりも、こちらの街並みを見てまわる方が楽しいという人も多かったのだ。
だから、自治体の方でも力を入れていて、観光課の人たちと、結構会議をしたりして、いろいろとイベントを考えているようだった。
最近では、スタンプラリーを計画したり、通行手形のようなものを作って、そこにスタンプを押していくというわけだ。
一時期は、神社仏閣、さらには、お城などに見られる。、
「朱印状」
のようなものを発行したりと、結構売れるようで、ほとんどの人が買っていくのだという。
やはり、朱印状のようなものは、
「一人が持っていると、皆が欲しがる」
というもので、
「観光客の気持ちをしっかりと握っている」
といってもいいだろう。
そういうところは、昔から、
「ご近所づきあい」
はしっかりしていて、
「助け合い精神」
もうまくできている。
だから、新藤の奥さんが亡くなった時も、まわりが支えてくれて、子供のかすみも寂しい思いをせずにすんでいた。
かすみは、他の店のご主人さんを、
「第二の父親」
と思って慕い、奥さん連中を、
「新しい母親」
というくらいの気持ちで、新藤が危惧していたような、
「寂しい思いをさせることになる」
という思いはなかったのだ。
ただ、中学、高校ともなると、小学生時代であれば、この街の子供ばかりだったが、特に高校に入学すると、今度は逆に、他の街の生徒がほとんどということになったので、かすみからすれば、
「変わった人たちが多い」
と思ったことだろうが、他の子から見れば、
「かすみって変わってるわね」
と思うことだろう。
しかし、むしろそっちの感覚の方が正解で、かすみの感覚がおかしいということに、本人はもちろん、気づくこともなかった。
だから、
「まわりが、自分をおかしい」
と思っているなどと感じてもいなかった。
この街で育ったことで、性格はおおらかで、人を疑うことのないという性格になっていたのだ。
本当は、これが子供としての性格なのだろうが、まわりが、世の中の流動に巻き込まれる形で、少年少女というのも、時代とともに変わっていったのである。
かすみは、まわりの子から見れば、
「ふた昔くらい前の人間ではないか?」
と思われていた。
確かに先に進んでいる性格であったが、
「ふた昔前など、生まれてもいない」
ということで、知るわけもないので、その感覚も、勘でしかなかったといってもいいだろう。
だから、
「かすみと自分たちの間は、とにかくおかしい」
と思えるといってもいいだろう。
それでも、高校生になったかすみは、次第に、まわりになじんでいくようになった。
それは、元々の、
「おおらかな性格」
というのが幸いしているのかも知れない。
性格がおおらかということで、吸収しやすい性格なのだろう。
特に、
「まわりの人を疑うことを知らない」
というのは、かすみのことを疑念の目で見ている人には、
「新鮮に見える」
ということなのだろう。
ただ、皆が皆、受け入れてくれるわけではなく、かすみのことを毛嫌いしている人もいた。
その人は性格的に、
「どうも、猜疑心が強い人が多いのかも知れない」
ということで、その多くは、かすみに対して、
「嫉妬心」
を抱いているようだった。
かすみは、おおらかな性格であるくせに、成績もいいのだ。
猜疑心の強い人は、皆が皆そうだとは言わないが、少なくとも、かすみの学校では、
「成績がいい人は、性格が若干歪んでいる」
と思われていたようで、逆に、
「性格が歪んでいない人は、成績が悪いものだ」
という、偏見めいた考えがあった。
その理由としては、
「天は二物を与えず」
ということわざを信じているからであった。
というのも、彼女たちは、自分がそうだからということであった。
もっといえば、
「自分の性格を押し付けて、それに合っていない人は自分と合わないのはもちろん、誰とも合わない」
と決めつけてしまうということであった。
それをかすみの学校では、
「猜疑心が強い」
と言われる人たちだけではなく、それ以外の人も若干名、同じような気持ちでいるようだった。
実際に、猜疑心の強い人は、学校には結構いるようで、最初は、
「一部にそういう人がいるだけだ」
と思っていたが、実は結構いるようで、
「下手をすると、女子の半分くらいはそうなのかも?」
と思っていた。
確かに、猜疑心と嫉妬というものは、切っても切り離せない関係にあるかのように思うのであったが、考えてみれば、嫉妬深いというのは、
「男性よりも、圧倒的に女性の方が多い」
ということを考えると、その考えもあながち間違いではないと思えるのであった。
ということは、
「半数近くの人はかすみを嫌っている」
ということであるが、実は、その逆の人のほとんどは、
「かすみのことを好意に思っている」
という人ばかりである。
つまり、
「どっちが目立つか?」
ということで、その時々で、かすみが好かれているのか嫌われているのかが、違って見えるというものであろう。
そんなかすみが学校で、人気があるのは、どうしても、男子が圧倒的に多かった。
だから、女性に嫉妬心を抱かれたり、猜疑心を持たれたりするのだ。
その猜疑心というのは、校内に彼氏がいる女の子で、その彼氏が、
「ひょっとすると、かすみに気があるのではないか?」
という思いからである。
この学校で、男子は、結構恋愛関係に関してはオープンなのだが、女子は、まわりに、誰かと付き合っているとしても、それを明かそうとしない。
それだけ、女性の間での友達関係は微妙で、
「親しく付き合っているように見えても、腹の底では何を考えているのか分からない」
と言われている。
男性の方も、彼女に気を遣って、大っぴらには、
「俺には彼女がいるんだ」
とは公言しても、
「じゃあ、それは誰?」
ということは決して口外しようとはしない。
しかし、それを中には逆に利用しようとする女性もいる。
ごく一部の女性であるが、それをいいことに、数人の人と付き合うという、いわゆる、
「複数に股を掛ける」
というやつである。
もっとも、それも、
「容姿がかなりいい」
というのか、そして、性格的にも、
「男が疑いを持つこともなく、うまく騙せるだけの技量を持った女」
ということであろう。
しかも、そんな女性は本当にごく一部だということなので、それでも、
「数人は股を掛ける女性がいる」
ということは、
「そういう性格の女性は、皆股を掛けている」
といってもいいだろう。
男というものが、女性に対して、いかに接しようとしているのか、それを彼女たちは分かっている。
分かっているうえで、
「さらにその上前を撥ねよう」
というのだから、相当なものなのだろう。
まるで、
「狐とタヌキの化かし合い」
と言えばいいのか、お互いに、
「海千山千」
ともいえるだろう。
程度の差こそあれ、高校生くらいになると、皆、大なり小なり、そういうところがある。
「しっかり、世の中を渡っていく」
というテクニックが備わっているといってもいいのだろうが、逆にいえば、
「高校生にもなって、ある程度男女関係のことも知っておかなければいけない」
ということであろうが、spれは、肉体的にも精神的にも言えることであった。
本来であれば、女性の方が詳しいということではないだろうか。
女性は、思春期前に、
「初潮」
というものを迎える。
そして、身体の変調は、その頃から起こってきて、胸が膨らんできたりすることで、男子の目を感じるようになるだろう。
男性も、身体の変調はあるが、そこまで気にしない。
というのは、女性の身に起こっている変調が気になるからではないだろうか?
その変調に対して、何かムズムズするような感覚に襲われ、
「オンナ」
というのを意識するようになるのであった。
それは、女性も同じことであって、
「思春期というのは、女性が男性を、男性が女性を分からなくなる時期」
ともいえるだろう。
しかも、その相手の変調が気になることで、自分の身体がムズムズするというような、今までになかった感覚が出てくることで、無視することもできなくなるというものだ。
だから、
「彼女がほしい」
「彼氏がほしい」
という感覚にんあるのは当たり前のことで、しかも、自分の友達が、異性と楽しくしている姿などを見せられると、自分に誰もいないことが、どれほど辛い思いとなるかということが分かってくるというものだ。
しかも、同性の中で、ませている連中から、
「聞きたくもないのに」
ということで、異性のことについて聴かされたりする。
それも、性的なことなどであるが、
「相手を性的に感じることで、自分がムズムズするというのは当たり前だ」
と言われると、
「自分でも分からないことを教えてくれようとしているんだ」
と思うと、聞き耳を立ててしまう。
そして、
「なるほど」
と感じると、
「どうして彼女や彼氏がほしいと思うのか、分かった気がする」
ということであった。
だから、それだけに。彼氏彼女がいないと、余計に焦るというもので。本当であれば、
「まだまだこれから」
だと分かっているくせに、
「一刻も早くほしい」
と感じてしまうことに、矛盾を感じ、
「その矛盾が、自分を余計に、ムズムズとした感覚に追い込んでいるのかも知れない」
と感じるのだ。
しかも、かすみの場合は、
「自分のことを気にしてくれている男子はたくさんいる」
ということは自覚しているのだが、肝心の彼氏ができない。
告白してくる男子も少なくはないが、そんな男子に限って。
「まったく眼中にない」
という連中ばかりだ。
しかも、女性からは、嫌われている。
それを考えると、
「私って、ひどい境遇なのかも知れないわ」
と思うのだった。
それこそ、
「貧乏くじを引かされた」
ということであり、
「割に合わない」
ともいえるのではないだろうか?
中学時代は、そこまではなかった。中にはませている子もいて、すでに、
「男を知っている」
という女性も少なくなかったといってもいい。
男子は、意外と女性を知っている人は少なかったという。
「初体験なんて、同い年の子とするもんじゃないわよ。どうせするなら、女を知っている人じゃないとうまくいかないからね」
といっていたものだ。
まわりは、興味津々で聞いていたが、それは、別に
「うらやましい」
という気持ちからではない。
「いずれは、自分も経験することになるから、他人事ではない」
という思いからであった。
「うらやましいと思っているだろう」
と感じているのは、会話の主役である本人だけで、まわりは、結構冷めた目で見ているというものであった。
それでも、主役の彼女は、自分が注目されていると思っているから、徐々に話も過激になってくる。
皆、好奇心満々で聞いているが、そのうちに、あまりにも話が過激すぎて、
「ついていけない」
と思う人も出てくるだろう。
「耳を塞ぎたくなる」
というほどの話には、さすがについてはいけない。
脱落という形で、話から離脱する人も出てきて、気が付けば、
「半分以下に減っていた」
ということも大いにあり得る。
そのことに気づいてしまうと、今度は、主役の彼女は、自分が、
「掛けられた梯子に登らされて、結局その梯子を外された」
という気分にさせられたと思うだろう。
そうなると、皆が実は。
「もう聞きたくない」
と思っているのだろうと勘違いしてしまう。
確かに聴きたくないと思ってはいるだろうが、興味がなくなったわけではない。
あまりにも話が露骨になってきたので、聞いていて恥ずかしくなってくるのだった。
それが、羞恥心というものであり、
「興味はあるが、まだ怖い」
という思いと、実際に聞いた話が、露骨であることで、その恐怖が猜疑心に変わっていくことになるということに気づいているのだろうか?
それを思うと、
「男女の関係というものが、いかに難しいものであって、まだ中学生の自分たちには理解できない」
と思うことだろう。
それでも、いずれは、
「避けて通ることのできない道」
それを思えば、
「私たちって、今を普通に楽しんでいていいのかしら?」
とも思えてくるのだ。
だから、
「付き合う男性もしっかりと見極めないと」
と思うようになる。
中学生くらいになると、マンガであったり、小説などを結構読むようになる。
最近の少女漫画であっても、結構露骨な描写があったり、ストーリー性も、
「青年漫画」
に匹敵するくらいのものだったりする。
そんなものを見せられると、
「恐怖を煽られる」
といってもよく、
「中学生に、男女のことを考えさせるのは、まだまだ早い」
と感じ、結局は、
「高校生になってから」
と思うようになる。
何といっても、高校生になるためには、
「高校入試」
という、こちらも、
「避けては通ることのできない」
というものが控えているのだ。
男女関係に比べれば、受験は、逃げることのできないもので、目の前に、
「待ったなし」
ということで控えているのだ。
しかも、これこそ、誰もが同じ時に通る道だということで、まるで、
「一大イベントだ」
といってもいいだろう。
祭りや学校行事とは違い、
「合格しなければいけない」
ということを伴うということで、
「受験生というのは、精神的に耐えられない人も出てくるかも知れない」
という意味で、
「恐怖を伴うものであり、しかも、近づいてくればくるほど、精神的に追い詰められるというものだ」
ということであった。
中学生までは、
「彼氏がいなくても、普通のことだ。むしろいる方が珍しい」
と思っていた。
だから、
「いれば、これほど楽しいことはない」
と思っていると、逆に、
「いなくても、別に問題はない」
と自分に言い聞かせることもできるので、どっちにしても、今は別に問題はない。
といえるであろう。
しかし、それはあくまでも中学時代までのことで、高校生になると、今度は焦りに変わってくる。
高校入学の喜びもつかの間、喜びに浸ってしまっていると、あっという間に夏休みが過ぎていた。
彼氏ができるわけでもない状態で、気が付けば、秋風が身に染みる季節になってきたのだ。
「夏は嫌いだ」
と思っているかすみには、秋風は本当であれば嬉しい季節を運んでくれるものなのだが、高校一年生の秋は、
「何かすきま風が通り過ぎる」
という意識の方が強く、いつになく冷たさを感じた気がしたのだった。
「今年の夏は、何もなかったことが、何かあった時よりも、印象深い」
と思える初めての年となったのだった。
それだけ、
「彼氏がほしい」
と感じるようになったからであろうか。
というよりも、焦りというものを初めて意識したのかも知れない。
といっても
「中学三年の時に、受験での焦りを感じたのではなかったか?」
ということであったが、それとは感覚が違っている。
受験というのは、最初から避けて通ることのできない
「決まったこと」
であった。
だから、受験が近づいてくると、切羽詰まってきて、切羽詰まると、
「実力が発揮できる」
と感じるようになった。
そして、
「彼氏が欲しい」
という感情と、
「受験が迫っている」
という感情の違いというのは、どこにあるのかというと、
「受験は時期も決まっていて、避けては通れない」
ということであった。
彼氏に関しては、
「いずれはできるだろう」
という程度で、
「絶対に彼氏ができないと、先に進めない」
というものでもない。
要するに、
「彼氏ができるできないか?」
というのは、
「その人の心の持ちようではないか?」
ということになると感じるのであった。
ただ、もう一つ言えることは、
「思春期というのは、二度と来ない」
というものであり、
「彼氏ができない」
ということであっても、別に焦る必要はない。
高校生でなくとも、大人になれば、いくらでも出会える機会はあるし、いい人にも出会えるだろう。
だが、
「高校一年生という時期は二度とこない」」
つまりは、
「高校一年生としての恋愛は、二年生になれば、二度とできない」
ということになる。
そのことを誰も意識していないということが、不思議な気がした。何といっても、その時感じることができたが、もし、その瞬間にひらめきのようなものがなければ、
「二度とそう感じることはないのではないか?」
と感じたのだった。
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