第三話 デボーション(3/5)

 そろそろ十二時になる。

 掃除機をかけながら、卓上カレンダーと壁掛け時計をちらりと見やり、次に目が引き寄せられるのはローテーブルの上に置いた携帯電話。

 昨夜もアヴリルは音沙汰なしだった。本日、十二月二十三日は弥生の部屋で過ごす予定だったけれど、その約束も当然反故。

 画面を暗転させたまま、すっかり黙り込んだ携帯電話を、昨夜から何度見つめたことだろう。

 掃除機を止め、携帯電話を手に取り、画面をタップして電話帳を呼び出し、お気に入りの一番上にある名前をなぞってみる。

 天野・クリスティーヌ・アヴリル。

 彼女の名前を見ているだけで、心がきゅっと掴まれる。

 少し前まで迷うことなく触れることができた通話ボタンに、今の弥生は指を置くことができない。

 アヴリルという人は一見すると落ち着き払っていて、西洋人形ビスクドールのように無機質に感じられることもあるが、本当はそうではない。

 彼女は誰よりも弥生を大切にしてくれた。明け透けな表現とは言えないけれど、いつもきちんと伝わっていた。

 アヴリルの姿を初めて目にした高校入学当初、彼女は手が届かない高嶺の花だった。

 そんな彼女に声をかけてもらえるようになっただけでなく、想いを告げられたときの弥生は、あまりにも夢のような話を信じられなくて、動揺して。

 そうして、恋人になったアヴリルとの日々がどんなに幸せだったか。今になって、悲しいほどに思い知らされる。

 アヴリルといることが当たり前になって、いつの間にか、思い上がっていたのかもしれない。愛されることに慣れて、彼女の気持ちに甘えっ放しで。

 アヴリルに自分の気持ちをきちんと伝え切れていただろうか。今となっては、まったく自信がなかった。

(サンタさん、クリスマスプレゼントなんていりません)

 だから、どうかもう一度、お願いだから、アヴリル先輩ともう一度会わせてください。

 私、本当に彼女のことが大好きなんです。これからは、もっときちんと自分の気持ちを伝えるし、伝えたい。だから、どうしたら彼女が許してくれるのか、私に教えてください。

 また涙腺が緩みそうになった、そのときだった。

 ――ピンポーン。

 思いがけないインターホンの音に肩がびくりと跳ね上がり、口から心臓が飛び出しそうになった。だ、誰?

 滲みかけていた涙すら引っ込んだ。足音を忍ばせて玄関へ向かい、恐る恐るドアスコープを覗く。

「……っ」

 え? まさか、サンタさんが本当に?

 大きく開け放たれた玄関扉の前で、アヴリルが上半身を仰け反らせていた。いけない。勢いよく開きすぎて、危うく彼女に当たるところだった。

 いつもの休日と変わらない見慣れた佇まいのアヴリルは、ベージュのショートコートに緑のロングスカートという出で立ちで、慌てて出てきた弥生に驚いた顔をする。

「ご、ごめんなさい!」

「いえ」

 わずかに視線を逸らせた彼女は短く答えただけで、その他は何も言わない。

 浮き上がりかけた気持ちが、また少し萎む。連絡もせずにここへ来たのは、まさか、別れを告げるためだったりするのだろうか。嫌な予感が過ぎる。

「上がってもいいかしら?」

 もう一度、ちらりと弥生を見たアヴリルは、彼女にしては珍しく、おずおずとした口調で問いかけてきた。部屋で腰を据えて別れ話をするとでもいうつもりか。

 だからといって、どうしたらいいのかわからない弥生は、アヴリルに入室を促すことしかできない。

 玄関に上がった彼女は、シューズボックスの上に置かれた小さなクリスマスツリーに目を留めて、指先で軽く触れた。

「……あの、ごめんなさい」

 黒のサイドゴアブーツに指をかけて、足を抜こうとしていた彼女が、ふと面を上げた。

 別れたくない。

 そんなストレートなことはとても言えなくて、弥生の唇から零れ落ちたのは、自分でも驚いてしまうような言葉だった。弥生の頭の捻子は数本飛んでいたのかもしれない。

「今日一日、アヴリル先輩の言うこと、なんでも聞きます。だから……」

「は?」

「だから、だから、別れるなんて……!」

「……あなたは、またおかしなことを言い出すのね」

 アヴリルは呆れたように言って、ブーツから足を抜き終えた。次いで、玄関マットの上に立ち尽くしたままの弥生の前に歩み寄り、少しだけ身を屈めて顔を覗き込んでくる。

「別れるというのは、誰と誰のこと?」

「え? わ、私たち……?」

「誰が別れると言ったの?」

「だって、アヴリル先輩がすごく怒ってるから。だから……」

 弥生の言葉に面食らったように瞠目する彼女を上目遣いに見れば、今度はまるで意表を突かれたとでもいうような表情を浮かべる。

「別に、私は怒っていたわけではないわ」

「でも、アヴリル先輩。あの日の夜……」

「燕のことなら、もう謝ってくれたでしょう? 私はあなたと離れるつもりはないわ」

 すっと伸びてきた両手が弥生の肩に触れ、そのまま引き寄せられた。

 彼女のコートからは冬の匂いがした。弥生の頭上に、彼女の顎がこつんと載せられる。それは、涙が出そうなほどに幸せな小さな重み。

 刹那、ふっと吐息を漏らすように、アヴリルが小さく笑った気配がした。別れるつもりでいたわけじゃないの?

 彼女の腕の中にいると、少しずつ安心感が湧いてくる。心の底からほっとして、弥生もアヴリルの背中に腕を回す。

 どうしてあの日は帰っちゃったのとか、ずっと連絡をくれなかったのはどうしてなんて、もう聞かなくてもいい。

 今、こうしてここにいて、自分を抱きしめてくれている。もう、それだけでいいと思った。とても嬉しかったから。

「さっきの言葉は本当なの?」

「え?」

「私の言うことをなんでも聞くというのは」

 その問いかけを受けて、弥生は反射的にガバッと彼女の胸から自分の体を引き剥がす。……今、なんて言いました?

 見上げれば、アヴリルは今まで見たこともないような悪戯っぽい目をしていた。ほんのりと口角を吊り上げ、彼女の表情の中では間違いなく歓喜に分類される、嬉しいときの顔だ。

(いやでも、ちょっと待って。言ったよ、私。確かに言いました。なんでも聞くって)

 けれど、それはアヴリルが怒っていると思っていたからで、許してほしいという謝罪の意味を込めた言葉であって――。

「……は、はい」

 実際、弥生が反省すべき点は山のようにあるわけで、しかも一度口に出した言葉を引っ込めることをよしとしない性格の弥生は、震える声で小さく頷く。

「では、あなたの手料理を」

「あ、はい! それなら、もちろん――」

「なんて、言うとでも思う? この私が」

「え?」

「これまで何度も伝えたでしょう? 望むのは、あなただけだと」

 アヴリルは、弥生の頬を両手で包み込むようにして触れると、額がくっつきそうなほどの至近距離で囁いた。

「……やっぱり、アヴリル先輩は意地悪です」

「何か言ったかしら?」

「いえ、別に」

 その返事に満足したのか、アヴリルは弥生の頬から手を離し、自身の顎に親指を添えながら考え込む仕草を見せたあと、一つの提案を口にした。

「まず、お風呂に入りたいわ。弥生と」

「今ですか?」

「今よ」

「ええっ!?」

「そんなに驚かなくても。今までだって、何度か一緒に入っているじゃない」

 確かにその通りだが、いくらなんでも昼間からは無理というものだ。

 アヴリルの豪奢な一軒家とは違う、普通のマンションのお風呂に昼から入って、もしも彼女が野獣になった日には目も当てられないことになる。

 何を隠そう、このマンションは結構響くのだ。それに、明るいうちからなんて絶対無理だ。せめて、夜にしてほしい。そうでないと、どうにかして両親を丸め込んで、引っ越さないといけなくなる。

 そう訴えると、さすがにお風呂の件はあとでということで、なんとか納得してくれた。


 ***


 お風呂の件で押し問答をする羽目になったものの、ひとまず、買い出しへ出ることにした弥生とアヴリル。

 日頃から、母に料理を任せている弥生は凝ったものを作れず、さらに言えば、両親の方針で冷蔵庫の中は週に一度は空にすることになっている。その週に一度というのが今日なのだ。

 いつもは彼女の家にばかり行っているので、自宅マンションから二人で出かけるのは、例え近所のスーパーだとしても、とても新鮮に感じる。

 さっきまで、別れ話に怯えてびくびくしていたことが嘘のように、弥生はわくわくした。我ながら単純だと思うものの、それだけ嬉しくて堪らなかったのだ。

 エレベーターで一階に向かい、前を行くアヴリルがオートロックの手前にある数段の階段を下り切ったところで、こちらに手を伸ばす。弥生は飛びつきたいような気持ちで、その手をぎゅっと握る。

(サンタさん。こんなに早くプレゼントを届けてくれるなんて、本当にありがとう)

 スキップをしたい気分の現金な弥生がついつい相好を崩せば、その様子に気づいたアヴリルも、小さな笑みを見せてくれた。

 門扉を出ようというところで、マンションの同じフロアの住人女性とばったりと出くわす。

「こんにちは」

「あ、はい、こんにちは……」

 住人女性が声をかけてきたので、弥生は小さく挨拶を返す。

「お友達ですか? 仲がいいんですね」

「え? あ、はい、そうなんです」

 さすがに、大好きな自慢の恋人なんですとは言えないため、曖昧に返事をすると、握られた手に力が入った。

 ふと見れば、珍しくアヴリルが固まっている。なんてレアな光景だろう。この時点では、アヴリルが固まった本当の理由を知らないままの弥生だったけれど。

 クリスマスソングが流れるフードコートで少し遅いランチを済ませ、夕食は海鮮鍋にすることにして、向かった食品売り場。

 食材を選別し、これだという品を次々とカートに載せるアヴリルはどこか楽しそうで、弥生の頬も緩みっ放しだ。しかし。

「アヴリル先輩。うちの冷蔵庫は、アヴリル先輩のお家のものより小さいんですよ?」

「……そうだったわね」

 弥生の指摘に、アヴリルは苦笑混じりに返事をしてから、いくつかの商品を棚に戻した。

「だけど、これだけは譲れないわ」

 そう言って、食後のデザートにアイスを買ってくれたアヴリル。弥生が抹茶味が好きなことを絶対忘れたりしないアヴリル。吟味した魚と白菜もカートに入れて、ご満悦なアヴリル。

 アヴリル先輩、アヴリル先輩と、今日はたくさん彼女の名前を呼んだ。こんなふうに何気なく二人で過ごせる一日が、悲しいほどに嬉しかった。

「明日は一緒に登校をしましょう」

 朝食用のイングリッシュマフィンをカートに入れたアヴリルがそんなことを言い出すので、弥生の頬は嬉しさのあまり、また赤らんだ。

 会計を済ませて、ペットボトル飲料が数本入った重いほうのレジ袋をよいしょと持ち上げようとすると、アヴリルがすっと手を伸ばす。

「大丈夫です。今日はなんでもするって言ったのは、私なんですから」

「そんな力仕事は頑張らなくてもいいわ」

 彼女はふわりと目元を緩め、弥生の手から奪い取ったレジ袋を軽々と持ち上げた。

 代わりに、デザートやマフィンなどが入った軽いレジ袋を手渡してきて、もう一方の手には食材の袋を提げて、すたすたと帰路を辿る。こういうところが、いつも。

 弥生はアヴリルの背中に向かって、思わず照れ笑いをしてしまう。

 アヴリルがそばにいてくれるだけで、灰色だった気持ちが薔薇色に染まった気さえしたのに、彼女は目立たない優しさを、まだまだたくさんくれる。

 やはり自分はアヴリルのことが大好きで、この休日は、今までの分までたくさん想いを伝えたいと思った。


 ***


 海鮮鍋を二人で平らげて、一緒に食器を洗い、食後のデザートである抹茶アイスに舌鼓を打つ。刹那、バスタブにお湯が張られたことを知らせるアラームが鳴り響いた。

 立ち上がり、弥生の手を取ったアヴリルは、3LDKの部屋で、それほど距離もないのに、浴室に辿り着く数歩手前のところで振り返った。

 繋いでいた手を強く引かれて、彼女の腕に囚われる。

 背中から捲り上げられたニットタートルトップスも、外されたブラのホックも、下ろされたワンピースのバックファスナーも。

 その指先はひどく性急でもどかしげで、思わず弥生も彼女の服に手をかける。

 言葉もなく唇を塞ぎ、お互いの舌を追いかけて、音を立てて貪って、呼吸ができないほどに絡み合う。

 長い長いキスをしながら服を脱がし合い、素肌を密着させた彼女の腕が、折れるのではないかと思うほど、きつく抱きしめてきた。

「あなたが欲しいの。早く。……弥生」

「は、はい……」

 合わさった唇の隙間から、吐息混じりに求めてくる声は、弥生の中の欲情も目覚めさせる。

 弥生の肩を抱き寄せながら、アヴリルが少しだけ乱暴に押し開く浴室のパネルドア。普段の彼女ならこんなことはしない。けれど、弥生もいつもとは違っていたのかもしれない。なぜなら、ここ数日はずっと寂しかったから。

 簡単にかけ湯を済ませて浴槽に身を沈め、弥生を後ろから抱きしめる格好となったアヴリルは、背後から腕を回してきた。

「あっ……」

「寂しかったの?」

「ん、……は、ぃ……」

 アヴリルの細く繊細な指先が、弥生の胸の膨らみを強く掴む。

 まるで心を読んだかのように耳元で囁かれる言葉に、意地も見栄も張ることを忘れて、弥生はこくこくと頷いた。

「あの夜の分まで、今夜はあなたを存分に」

 頬を滑ってきた唇が薄く開いて、片手で振り向かされた弥生の唇に、また深く重なった。



©涼水藍那2024.

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