第二話 デボーション(2/5)

 たった今、アヴリルがどこにいて、何を考えているのかなんて知る由もない弥生は、本気で頭を抱えたい思いで、ひたすら困惑していた。

 すべては自分のあざとい考えがいけなかったのだということだけはわかっているが、とりあえず、この状況をどう回避すればいいのだろう。

「遠慮する必要はないよ」

「え、遠慮とは少し違うんですけど……。あの、平日ですし、下校時刻も近いことですし」

「安心しな。すぐに到着するから」

 しどろもどろになる弥生に構うことなく、燕は決定事項だと言わんばかりに告げる。

 燕は、彼女を迎えに来たという高級国産車の後部座席のドアを開いて、弥生に迫る。運転手と思しき壮年の男性は、こちらを振り向きもしなければ、助け舟すら出してくれない。

 個人的な買い物をお願いするのはいくらなんでもと思い直した弥生が、校舎を出て、ついそこへ足を向けてしまったことは責められても仕方がないと思う。思うけれど、なんて間が悪いのだろう。どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 六掛けという言葉に惹かれたのが、元々の原因だった。

 さらに好条件に思えたのは、タカヤシキ・カンパニー・リミテッドのショップの一つが、通学路の途中に存在していたということだ。

 けれど、それは逆にとてつもない悪条件だったのだと、今になって気づいた。

 レザーショップにしては、やたらと煌びやかな雰囲気の店内で、商品を眺めていた弥生。

 若い男性店員はそっぽを向きながら何かをしていて、こちらに目を向けないことにほっとしながらショーケースを見ていたら、不意にプライベートオンリーと金文字で書かれた扉が開いた。

 そして、弥生と同じ学校指定の制服を着込んだ女子生徒が現れたかと思うと、彼女は少しだけ目を見開く。

「おう、ご令嬢」

 若い男性店員が、女子生徒こと燕のことを呼んだけれど、彼女はそれに答えず、弥生を凝視する。目が合った瞬間、弥生と燕は完全に正反対の表情を浮かべたはずだ。

「ふふ、本当にいいタイミングで現れる子だねぇ」

「さ、先ほどは、ありがとうございまし――」

 口角を吊り上げて不敵に笑った燕は、弥生の言葉をすべて聞かないうちに続けた。

 曰く、中々気の利いたメニューを出すフレンチレストランがあり、そこはサービスも繊細で非常に行き届いているとのこと。

「財力にものを言わせて、席を空けさせたんだ」

「はあ。それが、私と何か関係が……?」

「ちょうどいい機会さね。弥生、あんたを連れていくとしよう」

「え?」

「欲しいものがあるのなら、あとでゆっくりと部屋で見せてあげるよ」

 へ、部屋? 部屋って、なんのことですか?

 若い男性店員は呆れたようにため息をついている。あの、この人は何を言ってるんですか? とアイコンタクトを送ってみたが、無駄だった。

「だけど、それは食事のあとにしようじゃないか」

 店内を軽く見回した燕は勝手に決めつけて、それから五分も経たないうちに、こんなことになっている。

「車内の温度が下がっちまうだろう。早く乗りな」

 ピカピカに磨き上げられた車のドアに手をかけた燕は、その場に立ち尽くし、頑なに動こうとしない弥生に苛立ったのか、ぴしゃりと鋭い声を浴びせてきた。

 本来なら、冗談の一つでも言って、誤魔化してしまいたいところだが、弥生の脳裏には、アヴリルが所持するレザーの手袋が鮮明に甦っていた。同時に、燕に見せられたカタログのことまで思い浮かぶ。どうしよう。どうしたらいいの、この場合。

「きゃあっ!?」

 きっぱりと断ることもできず、曖昧な笑みを浮かべる弥生の腕が、伸びてきた手にぐいっと引かれた。

 彼女が上級生ではなかったら。生徒会役員ではなかったら。レザーショップの令嬢ではなかったら。こんなことにならない自信がある。

 黒のニーハイソックスに包まれた脛を蹴飛ばして、無理やり腕を振り切って、全速力で逃げてやるところだ。だけど、だけど。

(アヴリル先輩。私、一体どうしたらいいんですか――っ!?)

 弥生の切実な叫びは、誰にも届くことはなかった。


 ***


 たった今、目の前で起こった光景はどうにも信じ難い。

 もしかすると、あれは弥生ではなかったのかもしれない。けれど、そんな淡い気休めはすぐに砕かれることになる。

「あら、アヴリルじゃない。こんなところで何をしてるの?」

 思いがけず、通学路の坂道から下りてきたらしい舞。その声に振り向きかけたアヴリルの目に、舞の隣を歩く水無月の姿が映った。

「あ、アヴリル先輩。こんにちはぁ」

 そう言って、彼女は呑気な笑みを浮かべたかと思うと、右手の派手な店を一瞥してから、こちらに視線を戻す。そして、悪びれもなく右を指し示した。

「弥生ちゃんはどうしたんです? 中ですかぁ?」

「中?」

「弥生ちゃん、このお店に寄ってたはずですけど。待ち合わせじゃないんですかぁ?」

 硝子張りの店内には、どう見ても客など一人もいない。

 ここに至って、今しがた、車で連れ去られたのは間違いなく弥生であると確信し、アヴリルの頭に急激に血が上る。

「待ち合わせはしていないわ。どういうことなの?」

「え? それなら、どうして……」

「たった今、弥生と思しき女の子が車で連れ去られたの。水無月さん、あなたは何を知っているの?」

「待ちなさい、アヴリル。どういうことか、きちんと順序立てて説明しなさい」

「聞きたいのは私のほうよ」

 アヴリルの引きつった面持ちに気づいた舞が、いつになく真面目な表情を浮かべる。

 水無月に会うことがあれば、食堂で舞から手渡された例の代物について、場合によっては問い質し、場合によっては礼を言わなくてはと考えていたものの、そんな考えは吹き飛んでいた。

 彼女が指し示した先には、悪趣味にも程があると言える金色の看板があり、“IMPORT LEATHER TAKAYASHIKI“と記されている。

 要領を得ない会話に苛立ちとも困惑ともつかない感情を持て余しつつ、さっきの状況について、さらに水無月を問い詰めようとしたところで、硝子戸を押し、表に出てきた若い男性店員が訝るようにこちらを見た。

「あんたたち、客か?」

「その質問に答える前に一つ、お尋ねします。ここで女子高生が拉致されたところを、あなたは目撃しましたか?」

「は? 拉致? ……ああ、ご令嬢のことか」

 男性店員はアヴリルの問いかけに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐに合点がいったように笑い声を上げた。

「ご令嬢とは誰のことですか? 弥生とはどういう関係なんです?」

「弥生。そういえば、そう呼んでたっけかな。それはそうと、あんたこそ誰だよ」

 無遠慮にアヴリルの姿をじろじろと見ながら、男性店員がさも面白そうに笑い続ける。

「笑い事ではないんです。早く答えてください」

「ご令嬢ってのは、恋人募集中のうちの次期女社長のことでな。弥生とやらを恋人にする気みたいだぞ? だが、言われてみれば、確かにあれは拉致紛いだ」

「詳しく説明しなさい!」

 聞き捨てならない台詞に正気を失ったアヴリルは、レザージャケットを着込んだ男性店員の胸倉を掴み上げる。

「な、何しやがんだ、てめぇ!」

 まさか、アヴリルのような女子高生からこんな目に遭わされるとは夢にも思わなかったのだろう。男性店員は驚きと怒りが入り混じった視線でこちらを睨みつける。しかし、事情が事情だ。引き下がることなどできやしない。

 そんなアヴリルのいつにない行動に、こちらも珍しく驚いた様子の舞が、努めて冷静に止めに入ってくる。

「アヴリル、落ち着きなさい。よく言うでしょう? 殺すのはいつでもできるって。お楽しみは、この男から話を聞き出してからでも遅くはないはずよ」

「っ……それもそうね」

 舞の仲裁を受けて、アヴリルはひとまず男性店員の胸倉から手を放すのだった。


 ***


「あの、本当に困ります」

「ここまで来ておいて、往生際の悪い子だねぇ」

「いえ、来たくて来たんじゃなくて、高屋敷先輩が強引に……」

 消え入りそうな声で訴える弥生の目の前には、見るからに高そうなフレンチレストランの豪奢な扉。

 そこで押し問答をする弥生と燕の姿を、店のディレクトールと思しき品のいい初老の男性が、困惑した様子で見つめていた。

 瀟洒しょうしゃな建物と、本物のもみの木に絡んだイルミネーション。それは、さっきまでの浮き立つような気持ちとは打って変わって、すっかり意気消沈した弥生を嘲笑うかのように、チカチカと点滅している。

 口を挟まないディレクトールには申し訳ないと思うし、燕に恥を掻かせるような真似も気が進まないけれど、だからといって、自分がここに入るわけにはいかない。

 そう思うのなら、車に連れ込まれる前にきちんと断ればよかったのだと言われればそれまでだが、こうなってしまったものは仕方がない。

 アヴリル先輩、ごめんなさい。ついでに、フェヴリエさんもごめんなさい。半泣きになりながら、こそこそと踵を返そうとする襟首が掴まれる。

「どこへ行くつもりだい? 弥生」

「きゃあっ! ごめんなさい。本当にごめんなさい。だから、お願いします。勘弁してください……!」

「いい加減にしなさいな! 燕先輩!」

 そのときだった。

 地面にしゃがみ込んで耳を塞ぐ弥生の背後からかけられた声。次いで、伸びてきた手。その腕は、思い切り弥生の体を引き寄せてくる。

 固く目を閉じていた弥生の顔は温かくも柔らかい胸元に強く埋められ、そして、ようやく気づく。

 これが懐かしい――つい最近会ったばかりだが、今は懐かしいとしか言いようがない――アヴリルの胸だということに。だけど、どうしてここにアヴリル先輩が?

「弥生、大丈夫?」

 大好きな声に耳朶を擽られ、その問いかけが脳に到達した瞬間、弥生の全身からすべての力が抜け落ち、瞳からはぶわっと大粒の涙が零れ落ちた。

 どうしてでもいいや、理由なんか。助けに来てくれたんだ、アヴリル先輩が。そのことだけが、弥生の心に温かい何かを溢れさせた。

 彼女の背中に腕を回して必死で縋りつく。弥生の位置まで腰を落としたアヴリルの温かい腕は、彼女をきつく抱きしめ返してくれる。

「ア、アヴリルせんぱぃぃぃ……」

 なりふり構わずアヴリルにしがみつけば、それは不機嫌な声が頭上を越えていく。

「邪魔をしないでくれないかねぇ、二人とも」

「ふざけるのも大概にしてくださいまし。他の方ならいざ知らず、弥生さんは駄目だと申しましたでしょう。いつも同じ手をお使いになってるのではありませんよ」

 え? この人、いつも同じ手口を使ってるの? まあ、それもこの際、どうでもいいや。ああ、それより、フェヴリエさんまで来てくれたんですね。

 そのときの弥生は、絶体絶命の窮地を王子様に救われたお姫様の気分だった。

 しかし、この幸せはそう長くは続かなかった。

 現在、弥生は人生初と言えるほど、深く深く反省中だ。あれからすぐに天国から地獄に突き落とされたような、もやもやとした気分を味わっている。クリスマスまで、あと少しだというのに。


 ***


 嫌味なほどに高級な車で高級なレストランへと連れて来られた弥生を、燕から取り返してくれたアヴリルとフェヴリエ。

 けれど、騒ぎが治まってみれば、案の定、二人はとても怒っていた。

「お説教は明日にします。とにかく、今日はアヴリル姉様に送っていただいてください」

 そう言って、当然のように弥生をアヴリルに託し、こちらに背を向けたフェヴリエは、今度は燕に向き合って、くどくどと苦言を呈していた。

 だが、燕も燕で言われっ放しではないようで、何事かを言い返している。この二人は、合唱コンクール以外のプライベートでも交流があるのだろうか。

 刹那、何気なく彼女たちのほうを眺めていた弥生の肩が、突然強く引かれた。はっと見上げれば、前を向くアヴリルは無言で大通りへと出る。

 平日のおかげで、すぐに捕まったタクシーに乗り、こうして弥生とアヴリルは現在車中の人となっているのだが。

 あの劇的な救出劇が嘘のように、車内のテンションはものすごく低い。さっきはあんなに強く抱きしめてくれたアヴリルなのに。

 そっと横顔を窺い見る。整った面持ちは微動だにしない。しかも、である。弥生とアヴリルの間に、ほんのわずかではあるが隙間が開いている。

 そして、何よりもこの空気だ。これはやはり気のせいではない。

 一見すると、静かな灰茶色の瞳の奥に炎が燃えていることが手に取るようにわかるし、感じる冷気は痛いほど肌に突き刺さってくる。

 口を開くことすら憚られた弥生は深く俯き、しょんぼりと項垂れていた。

 そして、翌朝。

 登校し、教室に入ると、隣のクラスであるはずのフェヴリエが待ち構えていたように弥生の席に鎮座して、彼女を呼びつける。

「あなたは人が注意をしたそばから勝手なことをして、何を考えていらっしゃるの!? わたくしたちが間に合ったからよかったものの、あのままだったら……。なぜ、あの店に行かれたのです!」

 それはアヴリル先輩のクリスマスプレゼントを……などと言えるわけもなく、今回ばかりはなんの反論もできない弥生は無言で俯いたまま、謹んで叱責を拝聴した。当たり前だ。反論の余地などない。

 怒声は一〇分ほども続き、フェヴリエは一度黙ると、肺の底から大きなため息を一つ漏らした。

 普段は穏やかな人が怒ったときほど怖いものはない。そんなことを考えながら、弥生にとって尤も心配だったことが語られなかったので、恐る恐る尋ねてみる。

「あ、あの、フェヴリエさん。まさかとは思いますが、この件がきっかけで、上手くいってたはずの合唱コンクールの打ち合わせが白紙に戻ったり……してない、ですよね?」

「打ち合わせ、ですって?」

 じっとりとした目つき。アヴリルに負けず劣らずの洋風アンティークな魅力を兼ね備えた美少女なだけに、無駄に迫力がある。

 そんな現実逃避をしてしまうほどの鋭い眼差しでこちらを睨みつけるフェヴリエの姿を目の当たりにして、弥生の背筋に冷たいものが流れていく。

「ま、まさか、私のせいで本当に白紙に……」

「なってたとしたら、どう責任を取ってくださるんです?」

「ご、ごめんなさい!」

 フェヴリエにしては恐ろしく低い声を受けて、膝に頭がつきそうなほど腰を折れば、ひと呼吸置いてから、カタンと席を立つ気配がした。

 おずおずと顔を上げれば、今度は思いのほか柔らかい表情を浮かべたフェヴリエがそこに立っていた。

「心配ご無用。わたくしを甘く見ないでいただけますこと? ひとまず、燕先輩もしばらくは大人しくなるはずでしょうし」

 言いながら、にやりと意味ありげに笑ってみせるフェヴリエ。やはり、フェヴリエと燕は個人的な知り合いか何かなのだろうか。いや、今は詮索をするのはやめておこう。

 あの打ち合わせが白紙にならなかったことにせめてもの安堵を感じつつ、弥生はもう一度深く頭を下げて反省の意を示し、自席に着いた。

「もう絶対、あの店に行ってはいけませんよ」

「はい」

 念を押すようなフェヴリエの釘刺しにも、小さく頷く。

「だ、大丈夫? 弥生ちゃん」

 そのとき、いつにないフェヴリエの怒り方に蝋人形の如く固まっていた水無月が、怯えつつも小声で労ってくれた。

 今しがたのフェヴリエの怒声で、昨日の出来事のすべてが教室内で周知となった。

 とはいえ、アヴリルとの関係までは知られていないはず。合唱コンクールの打ち合わせの断続も大丈夫だとわかれば、誰に何を思われてもいい。

 ただ一つ問題が残っているとしたら、ここからはもう個人的なことだ。

「でも、よかったよぉ。弥生ちゃんが無事で」

「……」

「だって昨日、本当にすごかったんだよ? アヴリル先輩。とんでもなく怒っちゃって」

「……そっか。でも私、あの人とは駄目になる気がしてきたよ」

「え、どうして?」

 どうしてと言われても、弥生にもよくわからないのだが。

「実は、昨日……」

 いつになく気が滅入っていた弥生は、水無月に話を聞いてもらいたいくらい、とても追い詰められた気持ちになってしまっていた。

 昨日、アヴリルは弥生をタクシーで自宅マンションまで送ってくれた。翌日も登校が控えているのだし、そこまでは予想の範囲内。けれど、問題はそのあとだったのだ。

 停車したタクシーから、弥生はアヴリルも一緒に降りるものだとばかり思っていた。しかし、彼女はそうしなかった。時間はまだ二〇時にもなっていなかったと思う。

「ゆっくりと休みなさい」

「え?」

 短く告げたアヴリルは、こちらを見ようとはしなかった。

 彼女が弥生に向かって言葉を発したのは、レストランの門前以来だ。

 外に降りた弥生の目の前で、無情にも車のドアはバタンと閉じ、前を向いたままのアヴリルは一度も弥生を振り返ることなく、そのまま去ってしまった。

 あんなことは、彼女と恋人になってから初めてだった。

 少し距離を感じるアヴリルのその行動は、一人ぼっちにされたような寂しさだけを残し、その感覚は想像以上に弥生を落ち込ませた。

 抱いてほしいとか、キスをしてほしいとか、そういうことではなくて――いや、少しも期待をしていなかったと言えば嘘になるが、しかし本質はやはりそういうことではなくて。

 なんというか、アヴリルがとても遠い人に見えたのだ。まるで、知らない他人のように。

 確かに、弥生の軽率な行動がみんなに迷惑をかけてしまったことは事実で、そこは反省しなくてはならないことで、けれど彼女をここまで怒らせてしまったなんて。

 どうすることもできずに、弥生はタクシーのテールランプを見送ることしかできなかった。

「うーん。それは多分、アヴリル先輩もショックだったからじゃないかなぁ?」

「ショック?」

 思わず聞き返すと、水無月が重いひとことをくれた。

 弥生が燕の自家用車に乗せられた場面をアヴリルが見ていたことを聞かされて、再び心が騒ぐ。

 どちらかというと、アヴリルは独占欲が強いタイプだということは身を以て知っている。だが、彼女はそういう想いを、比較的ストレートにぶつけてくれていたように感じる。

 しかし、今回はなんだか違う。何か、ひどい誤解をさせてしまったのだろうか。

 弥生は一日中うじうじと悩みながら、それでもなんとか授業とアルバイトだけはしっかりこなし、携帯電話を手に取ってみる。

 十九時ちょうど。アヴリルからの連絡は、一つも入っていなかった。

 それから時は流れて、月曜日の朝。

 この週末は、まったく眠れなかった。恐らく、これは精神的な疲労だ。昨夜はとにかく寝なくてはと思い、ベッドに入りはしたものの、結局一睡もできず仕舞いだった。

 目の下に黒い隈を作った弥生が教室の自席にドサッと通学鞄を置けば、彼女とは対照的に今日も元気な水無月が、さっそくやって来た。

「おはよう、弥生ちゃん。アヴリル先輩と仲直りはできたぁ?」

「……」

 できてないよ。私の顔色を見れば、そのくらい予想がつくんじゃないかな? 水無月。

 あの日は、待てど暮らせど彼女は連絡をくれなかった。

 いよいよ焦燥の限界を超えた土曜日の朝、何度も心を奮い立たせて、ようやくかけた電話に出た彼女は不自然なほどに冷静な声ではあったものの、やはりわずかな逡巡があるように思えた。

〈ごめんなさい。今日は用事があるの〉

「あ、そ、そうですか。それならいいんです」

〈……明日なら〉

「う、ううん、いいんです。明日は私も少し予定があって」

〈予定?〉

「忙しいところにごめんなさい。それじゃあ、また今度」

 最後にひと息に言ってしまってから、通話を切るべく、終話ボタンをタップした。

 そのとき、眦からぽろりと涙が零れてしまった部分は割愛させてもらったが、事の経緯を話せば、水無月も神妙な顔をした。

「それなら、クリスマスに仲直り作戦だよぉ」

「クリスマスって言ったって……」

「前に言われたんでしょう? アヴリル先輩の欲しいものは、弥生ちゃん自身だって。ここはセクシーなサンタコスでもして、自分にリボンをかけちゃって、贈り物ですって迫るとか!」

「そんなことできないよ……」

「でも、明日の祝日はお家に来てくれる約束なんだよね? そのときに、思い切って甘えてみたらどうかなぁ?」

「いくら両親が旅行でいないからって、この分だと、来てくれるかどうかもわからないもの」

 水無月なりに心配をしてくれていることはわかる。けれど、弥生はもう何もかもが悪い方向にしか考えられなくなってしまっていた。

 なぜなら、先日のタクシーでの一件を思い出してみても。

(アヴリル先輩は、もう私に触れることすら嫌になったのかも……)

 あのときのことを思い返すと、鼻の奥がつんと痛い気がした。

 これ以上話をしていると、なんだかまた泣いてしまいそうだ。嫌だ。そんなみっともない姿を、他のクラスメイトたちがいる教室で曝して堪るものか。

 ぐっと唇を噤んだ弥生を悲しそうに見ていた水無月が、「サンタコス……」と小さく呟いたけれど、もう答えなかった。

 今日は一時間目から苦手な英語の授業がある。昼食を摂り終えた直後の五時間目には体育が控えているし、放課後は和菓子店でのアルバイトが待っている。

 少しだけ気を取り直した弥生は、未だに気遣わしげな面持ちを崩さない水無月にへにゃりと笑い返して、通学鞄から筆記用具を取り出す。

 そのときの彼女は、まだ何も知らなかった。

 あの日、弥生の目の前をタクシーで走り去ってから、アヴリルはアヴリルで何度も自分の携帯電話を手に取っては思い悩んでいたことを。

 土曜日の朝、通話が切れた携帯電話を握り締めて、唇を噛み締めていたことも。

 そして、弥生の部屋のクローゼットの中に、自分の知らないものがそっと隠されていたなんてことを、このときの彼女はまったくわかっていなかったのだ。



©涼水藍那2024.

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