第二話 ハレーション(2/3)※

 目が覚めたら、保健室のベッドの中だった。弥生の右手が、暖かい掌に包まれていた。それは、いつもとは少し違う感触。

 どうして、と考えるまでもなく思い出す。昼休みにくらりと立ち眩みに襲われて、そのとき一緒にいた皐に付き添ってもらって、保健室を訪れたのだ。

 体温計で熱を測ったら三十八度もあって、早退を促す保健医と皐の言葉を固辞して、ベッドで休ませてもらうことしばらく。

 カーテンを引いていても、今がもう夕方を過ぎた頃だとわかる。

 さすがに午後いっぱいということはないだろうが、授業が終わってから、皐はずっとそばにいてくれたのだろうか。

 わずかに身じろげば、弥生の右手を包んだ力が少しだけ強くなる。けれど、今は振り解くような気力もなくて。

 優しく微笑む二重瞼が、薄く開いた弥生の瞳をじっと見つめていた。

「……部活、出なくてよかったんですか? 確か、ダンス部でしたよね?」

「僕は普段、真面目に練習をしてるからね。一日くらい休んでも平気だよ」

「すみません、私のせいで。もう大丈夫ですから……」

 皐の双眸からはいつの間にか笑みが消えていて、真剣な光を帯びているように感じられた。

 居心地が悪くなり、体を起こそうとすれば、空いた片手で弥生の肩に触れ、ぞくりとするような色気を纏う声で彼は告げた。

「まだ起きないほうがいい。大人しくしてないなら、このまま襲うよ」

「……っ」

「というのは、冗談だけど」

 思わぬ台詞に狼狽える弥生を見て、皐がさも愉快げに笑う。熱のせいで、頭の中を上手く整理することができない。

(そうだ、アヴリル先輩)

 彼女にひとこと、連絡を入れておかなくては。

「携帯……。電話、しないと」

「電話? 天野にか」

 通学鞄はどこだろうと、のろのろと伸ばしかけた手首が皐に捉われる。

 それは、昼休みに食堂で掴まれた力とはまったく異なっており、何か違う意思を持った強さに驚いて、弥生は顔を上げた。笑顔を消した皐は、苦痛に歪んだような表情を浮かべていた。

「僕じゃ駄目なのかな」

「さ、皐、先輩……?」

「これは冗談なんかじゃないよ。君が幸せでいてくれるなら、本当は言う気なんてなかったんだ」

 皐が何を言っているのかよく理解できていないのに、彼から目を離すことができず、弥生は硬直したまま、近づいてくるその瞳を茫然と見つめていた。

「僕なら、君を泣かせたりしない」

 皐の指先が頬に触れたことで、初めて気づく。弥生の眦から、涙が零れていたことに。

 アヴリルに電話をかけたところで無駄だと思っていた。ここのところ、ずっと。

 いくら待っても、メールの一通すら来ないアヴリルからの連絡を待つことが辛すぎて、電源を切ってしまった携帯電話。まだ、頭がついて来てないの。

 もう考えることなんてやめてしまって、目の前にいるこの人にすべて預けてしまったら、少しは楽になれるのかな。だけど、そんなのはずるい。

 不意に、皐の腕が弥生の背中に回された。瞠目する弥生。

 静寂が支配する保健室の扉がガラッと大きな音を立てて開かれたのは、そのときだった。

「離れなさい、皐くん」

 底冷えのするような、けれど聞き慣れた声が響く。咄嗟に首を巡らせると、そこには。

「天野?」

「弥生を離しなさい」

 そこに立っていた人物は、アヴリルだった。

 つかつかと大股でベッドに歩み寄ってきたアヴリルは、身を起こした皐の襟首を掴む。

 怒りに震えた燃えるような灰茶色の瞳と、血の気の失せた顔。こんなアヴリルの姿を、弥生は今まで見たことがない。

「ア、アヴリル先輩。どうして……」


 ***


 彼女はあまり表情を変えない人だった。

 優しい人だとわかってはいたけれど、その心の内が今一つ読めなくて、弥生はずっとどこかで悩んでいた。

 感情の起伏が少ないと思っていたアヴリルが、誰よりも熱い想いをその身の裡に秘めていたということを初めて知った。弥生をとても大切に想ってくれていたということも。

 上から見下ろすアヴリルが、弥生の顔中にキスの雨を降らせる。お互いの唇が触れそうになり、顔を背けようとしたら、両手で頬を挟まれて、固定されてしまった。

「風邪、移っちゃいます」

「構わないわ」

「私が構いますよ……」

「消毒をしておかなくてはならないでしょう?」

「しょ、消毒って……」

 ばつが悪くて、大きな声ではとても言い辛いけれど、自分と皐は未遂である。

 未遂と言っても、心が揺れてしまったことも確かで、弥生はますます立場がなくなってしまう。

 アヴリルと保健室の外へ出て行った皐は一度戻ってきて、どんな話し合いがされたのかはわからないけれど、いつもの笑顔に戻っていた。

「次に弥生さんを泣かせたら、僕は絶対に引かないからね。覚えておきなよ、天野」

「あなたに渡す気はないわ」

 二人の間では結論が出たのか、アヴリルに釘を刺すようなことを言った皐は、ふっと小さく笑いながら帰宅した。

 アヴリルと二人きり残された弥生は、どんな顔をしていいのかわからず、壁のほうを見ていた。ゆっくりと近づいてきたアヴリルが、ベッドの端にそっと腰掛ける。

 彼女はこちらを窺うようにしながら、しかし何かを思案している様子だった。近くにいるのに遠く感じるのは、数日前のベッドでも同じだったな、と弥生は思う。

(アヴリル先輩のことが、心から好きだったけど……)

 彼女は彼女に見合った人と。例えば、優梨のような純情可憐な女の子とか。誰が見ても、アヴリルには優梨のほうが似つかわしいのだから。

 どれほど好きでも、他の誰かと恋人を共有するくらいなら、一人でいたほうがいい。自分の心が狭いのかもしれない。だけど、そういうふうにしか生きられないから。

 ずっと、コンプレックスに雁字搦めだった。いい加減、背伸びはやめたい。

 アヴリルとのことは、自分には過ぎた幸せだったのだ。短い期間の幸せを思い出にして、これからを過ごせばいい。

 恋心を忘れることはそんなに簡単なことではないけれど、でも、それでも。身の丈に合った相手に、いつか出会える。アヴリルが口にした選択肢とは、きっとそういうことなのだ。

 自分だけを求めてくれる人と、弥生はいたい。それがアヴリルだったら、どんなによかっただろう。でも、違うのなら――もう、いらない。

 そこまで考えたところで、弥生は自分の手の甲に、涙が一滴落ちたことに気づいた。

 はっとして頬に手を当てて、思わずアヴリルのほうへ視線を巡らせると、彼女がじっとこちらを見つめていた。

「弥生」

「す、すみません。目にゴミが入ったみたいで……」

「あなたは、ずっとそうやって一人で耐えていたの? あの日、わざわざ私のあとを追いかけてきてまで」

「……え?」

「あなたの立場も考えず、傲慢に振る舞ってしまったわね。今までごめんなさい」

 なぜ、アヴリルは手を差し伸べてくれたのか。そして、なぜ自分はその手を取ったのか。四ヶ月前の、あのときに。

 想いをくれたときの気持ちが嘘でないのなら、なぜ今、そんなふうに謝るのだろう。

「あなたには、私から自由になる権利があるわ」

「……アヴリル先輩の言ってることが、よくわかりません」

 これが最後なのに。いい思い出にしたいと、そう考えたばかりなのに。そう思いながらも、弥生の唇からは勝手に言葉が零れ落ちる。

 こんなことを言いたいわけではない。それなのに、どうして。

「他に好きな人がいるなら、はっきり言ってほしいです。そんな言い方、アヴリル先輩はずるい」

「私には、弥生以外に想う人なんていないわ!」

 アヴリルが反射的に怒声を上げる。

「嘘です。それなら、どうして優梨さんの移り香が……」

「移り香?」

 アヴリルは眉をひそめた。

 あの日、無人の生徒会室で、優梨はアヴリルの頬に手を添えながら、切実な想いを口にした。

『弥生さんじゃなくて、私を選んでください。私なら、面倒なことは言いません。アヴリル先輩を苦しめることもしません。だから……』

 わずかではあるが、あのとき、アヴリルは迷った。卑怯な考え方だとわかっていたが、弥生を諦めるためには、それもいいかもしれないと刹那自棄になりかけた。

 それでも、やはり自分が愛しく想うのは、弥生だけなのだ。

 元々、仕事をするだけのつもりで優梨と二人きりになったアヴリルである。

 何もやましいことはないとはいえ、別の誰かの移り香が残っていたことは、彼女の心情がどうであれ、厳然とした事実だった。

「弥生が何を思ったのかはわからないけれど、そのことで言い逃れはしないわ。だけど、さっきも言ったように、私は弥生以外の誰かを好きにはならないわ。それだけは信じてほしいの。多分、あなたが考えているより、私はずっと弥生のことが好きよ」

「アヴリル、先輩……」

「だけど、私の勝手で手元に縛りつけたことが、あなたを不幸にしているのではないか、と。そう思っていたの」

「……縛られてると思ってたわけじゃないです。私だって、アヴリル先輩のことが大好きで。だけど、自信がなくて……。それでも、できることなら、アヴリル先輩とずっと一緒に……」

 小さな両手で顔を覆い、言葉を詰まらせながら涙を流す弥生。

 そんな彼女の頬に手を伸ばしたアヴリルは、ベッドの上に上体を起こしたままの弥生の体をきつく抱きしめた。そして、現在に至るというわけだ。

「弥生、これからはもっと話をしましょう。お互いに、正しくわかるように。嘘や誤魔化しをせずに」

「はい。はい……っ」

 胸の奥がきゅっと掴まれた気がした。

 あの日、鼻腔を擽った薔薇の香りが、優梨が好んでつけているフレグランスのものだとすぐにわかった。

 アヴリルと優梨は生徒会役員なのだから、同じ教室で仕事をしていれば匂いが移ることもあるだろうと、頭では理解することもできた。

 けれど、前から薄々気づいていたのだ。友人である優梨が、アヴリルに恋心を寄せていたこと。

 だが、自分にはアヴリルを諦めることも、譲ってあげることもできそうになかった。

 そう思いながらも、顔を突き合わせるようにして仕事に打ち込む二人の姿を見ていることが耐えられなかった。なぜなら、二人はよく似合っていたから。

 仕上がった書類を見て、心から嬉しそうに優梨へ向けられたアヴリルの笑顔が、弥生にはとても悲しかった。その程度のことで嫉妬をしてしまう、自分の心の狭さが悲しかったのだ。

 そして、もしかすると邪魔者は自分のほうなのではないかと思い始めた。

「……でも、本当にいいんですか? アヴリル先輩には、優梨のほうが――」

「私が好きなのは弥生よ」

「だけど……」

「そう簡単に心変りができるわけがないでしょう。弥生のほうこそ、皐くんがいいの?」

「わ、私にはアヴリル先輩しかいません……!」

「それなら、私たちは同じでしょう? お願いだから、よそ見をしないでちょうだい」

 弥生の耳の裏に鼻先を埋めて、アヴリルが大きく息を吸い込んだ。そして、耳元で何度も何度も愛していると囁く。

「ちょっ、アヴリル先輩……!」

「言葉が足りないから、不安にさせているのだと言われたわ。今後は心がけて、嫌というほどあなたに伝えてあげる」

「それって、皐先輩が? あっ、や……」

 不意に耳朶を柔らかく食まれたかと思うと、耳殻に舌を這わされる。

「他の人の名前を口にしないで。今回の件で、わかったことがあるわ」

「やっ……、んんっ」

「今まで知らなかったけれど、私は」

 弥生の体を気遣ってか、体重をかけずに押し倒してきたアヴリルの唇が再び耳を擽っていき、風邪のせいとは明らかに違う熱が頬に上ってくる。息苦しいほど、体が熱い。

「……私は存外、嫉妬深いみたい。だから、私だけを見ていてほしいの」

 首筋に唇を押し当てながら、少し掠れた情欲を纏った声で、アヴリルが切なげに呟いた。



©涼水藍那2024.

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