第三章 未遂編

第一話 ハレーション(1/3)

 アヴリルはあまり表情を変えない。特に、学内では。

 別に冷たいというわけではない。誰に対しても細やかな気遣いができるし、一見すると無機質に見える灰茶色の瞳とは相反して、心根がとても温かい人。

 常に頬に載せている微笑は、単にそれが彼女のデフォルトというだけなのだ。

 弥生と二人きりの際には口元を緩めることもあって、彼女の目元がうっすらと朱に染まれば蕩けるような幸せに包まれて、その表情を目にしたときはいつも思っていた。

 私は本当にアヴリル先輩のことが好きなんだな、と。

 この顔を見られるのは恋人である私だけなんだ、と。

「弥生さん」

「はい」

「はい、じゃなくて。ほら、醤油」

「え? ……ああっ!」

 醤油差しを持った腕を軽く掴まれて、はっと気づけば、今日の食堂のお勧め定食が悲惨なことになっていた。焼き魚が醤油の海を泳いでいる。如何にも体に悪そうだ。

 アヴリルにこんなものを見られた日には、きゅっと柳眉を寄せて、いつもより数段低い声で注意を促されるに決まっている。

 ふと顔を上げれば、そこには哀れみとも同情とも嘲笑ともつかない面持ちで弥生の腕を掴む、二つ年上の上級生こと皐がいた。

「皐先輩? いつから向かいに座ってたんですか?」

「気づいてもいなかったのか。同席していいかなって、声をかけただろう?」

「そ、そうでした?」

「聞くところによると、最近ぼーっとしてることが多いそうじゃないか。大丈夫?」

「うーん」

「そういえば、今日は一人なんだね。いつも一緒にいるお友達はどうしたの?」

「水無月と優梨ゆうりですか? 二人は用事があるらしくて。水無月は日直の、優梨は生徒会の……」

 そこまで口にしたところで、言葉が止まる。

 私だけじゃなかったのかな? アヴリル先輩のあの顔を見られるのは。

 私の特権じゃなかったのかな? だって、あんなに嬉しそうな顔、私ですら見たことがなかった。

 もしかすると、好きだったのは私のほうばっかりだったのかも――。

「また心の旅に出てしまうのか」

「え、あ、すみません。ところで、皐先輩。一つ、聞いてもいいですか?」

「なんだい?」

「浮気って、どういうことだと思います?」

 突拍子もない質問に、皐はぱちくりと目を瞬かせた。

「浮気って。また、ずいぶんと唐突だね。まさかとは思うけど、弥生さんには浮気願望でもあるのかい? そういうことなら、僕が――」

「ち、違います! 何を言ってるんですか!」

「それなら、天野に浮気でもされた?」

「……っ」

 にっこりと、こちらを見つめ返す皐の瞳が決して笑っていないことには気づかない振りをした。アヴリル先輩が浮気、なんて。

 浮気とは、何を以て定義するのだろう。人は、どういうときに浮気をされたという結論に至るのだろう。今の弥生は、自分の心も、アヴリルの心もよくわからなくなっている。

「それより、弥生さん。なんだか顔色が悪いよ」

 その皐の言葉を皮切りに、また頭がぼんやりとしてきた。

 九月も半ばに差しかかっているというのに、冷房が効き過ぎているのだろうか。頭が妙に熱く、背中がうすら寒い。


 ***


 数日前。和菓子店でのアルバイトを終え、時刻はもうすぐ二〇時になろうという頃。

 アヴリルの家の門前で一時間ほど佇んでいた弥生は、夜でもひと際目立つ金髪ハーフアップを、視線の先に見つけた。

「おかえりなさい」

「来ていたのね」

 小走りに駆け寄れば、金髪ハーフアップの正体であるアヴリルは少しだけ驚いた表情を浮かべてから、小さく微笑んだ。同時に、弥生の肩を片腕で抱き寄せる。

 放課後は、生徒会長の仕事を終えたアヴリルが和菓子店を訪れて、弥生の勤務終了まで居座り続けることが習慣だった。

 けれど、今は文化祭シーズンということもあり、いつも以上に二人の時間を取れずにいる。

 そんな中、約束もしていないのにアヴリルの家の門前で待っていたのは、彼女にひとこと謝りたいと思ったからだ。

 しかし、言葉を紡ぐ前に、外気を纏ったアヴリルの制服から微かに薔薇のような香りを感じた。

 え、と思う間もなく体を離したアヴリルは、茫然としている弥生を連れて玄関に入り込むと、適当なところに通学鞄を置いて、ネクタイを緩める。

「シャワーを浴びてくるわ。私の部屋で待っていて」

 そして、言うだけ言ってバスルームへ向かった。伝えたかった言葉は、弥生の口から出ないまま。

 アヴリルの自宅は、外観も内装も白を基調としたお洒落なアンティーク調の一軒家で、どことなく高級感がある。

 一般中流家庭出身の弥生はマンション住まいであり、アヴリルと交際を始めてから何度かここに泊まっているというのに、未だに慣れる気がしなかった。

 彼女が入っていった洗面室に足を向けたのは、ほとんど無意識だ。湯音の聞こえてくる浴室ドアのつや消し硝子越しに、シャワーを浴びるアヴリルのシルエットが映る。

 広い洗面室のランドリーバスケットに突っ込まれた制服が目に留まり、ふと手を伸ばしかけて、逡巡した。

「弥生? そこにいるの?」

 不意にかかった声に、びくりと肩が跳ねる。

「あ、お洗濯、しておこうかなって」

「そんなに気を遣わないで。あなたは家政婦ではないのだから」

「……はい。でも――」

「すぐに出るわ」

 それは、アヴリルの思いやりの言葉だったのだと信じたい。洗濯物に手を触れるなという意図があるなんて思いたくない。弥生は努めて息を整え、洗面室をあとにする。

 今さらながらアヴリルの両親に挨拶をして、浴室から出てきたアヴリルに夕食はどうしようかと尋ねれば、生徒会役員と喫茶店で済ませてきたという答えが返ってくる。

 就寝前の短い時間をリビングで他愛のない話をして、その後、アヴリルの自室に置かれたベッドの上で触れてきた彼女の手は、いつもと変わりなく優しかった。

 さっきの薔薇の香りは跡形もなく、アヴリルから香るのはシャンプーとボディソープだ。思い過ごしなのだ。

 けれど、違和感は膨らむばかりで、囚われた一つの考えに心を占められた弥生は、思わずぽろりと涙を零す。刹那、アヴリルの手が止まった。

「なぜ泣くの?」

「……なんでもありません」

「弥生が嫌ならやめるけれど」

「違うんです。やめないでください……」

 自分をみっともないと感じた。アヴリルの困惑した声が悲しかった。その上で、彼女の胸に縋る自分が惨めに思えた。

 ただの思い過ごし。そう思いたいのに、滲んでくる涙をどうしていいのかわからない。謝ることもできず仕舞いで、あの件を蒸し返すことも、もう怖くなった。

 先週末、弥生とアヴリルは小さな諍いをした。

 アルバイトを終え、更衣室で学校指定の制服に着替えて店の外に出た弥生は、背後から小走りでやって来たアヴリルに気づき、破顔する。

 今日は文化祭会議で仕事が長引きそうだという連絡を受けていただけに、喜びもひとしおだった。しかし、アヴリルが続けた言動に、その笑顔が強張る。

「今、バイトが終わったみたいね。一緒に帰りましょう」

「あの、アヴリル先輩。通学路で手を繋ぐのは……」

「もうすぐ二〇時よ。普通の生徒はとっくに帰宅をしている頃合いなのだから、構わないでしょう?」

「いけません。どこで誰が見てるかわかりませんし、いつもみたいに別々に帰って、坂道を上ったところで合流しましょう」

 小声で告げる弥生を、アヴリルはやや不満げに見据えた。

 ひと昔前より寛容になったとはいえ、同性愛に対する世間の風当たりが強いことはアヴリルも理解している。

 しかし、弥生は水無月や舞、皐にフェヴリエといった特定の人物以外には、アヴリルとの関係を明かしていなかった。

 アヴリルは自身の交際相手を周囲に言い触らすような性格ではなかったが、ムキになって隠すことには納得がいかない。

 以前、そんな話し合いをしたことがあったものの、うやむやに終わっていた。

 結局、弥生の言葉通りに別々の道を歩き、通学路の途中にある坂道を上ったところで待つことにしたアヴリルは、数分後に小走りで駆け寄ってくる弥生を複雑な気持ちで眺めた。

「今日は一緒に帰るのだから、こんな回りくどいことをする必要なんてないでしょう」

「……」

「私には理解ができないわ。なぜ、こんなふうにこそこそとしなくてはいけないの?」

「……知られたくないんです」

 弥生がぽつりと呟く。

「私は他人に隠すような付き合い方をしたくないわ」

「それなら、私じゃない人と……。隠さなくていい人と付き合えばいいんじゃないですか」

「どういう意味?」

「アヴリル先輩なら、他にいくらだって……」

 それは、弥生の本心ではなかった。アヴリルが他の誰かとなんて、本当は考えたくもない。売り言葉に買い言葉だったのだ。

 だが、最後の言葉を投げつけてしまってから、ひどく傷ついたような彼女の表情に気づく。

「弥生にとっても同じということ?」

「え……」

「あなたにも自由な選択肢がほしい、と」

「そ、そんな。違います……」

 弥生の否定は消え入るように小さかった。そして、アヴリルはもう何も言わなかった。言葉は取り消しが利かない。後悔しても遅い。

 沈黙に耐えられなくなった弥生は、今上ってきた坂道に向かって、踵を返す。都合がいいことを承知で、内心では引き止めてほしいと思った。それでも、彼女は何も言わなかった。

 泣きたいくらい辛いのに足は止まらず、逃げるように自宅マンションの前まで帰り着いた弥生は、自己嫌悪のせいで、アヴリルに謝罪の電話やメールをすることもできずにいた。

 あれから毎日考え続け、やはり謝りたいと思い立ち、ない勇気を振り絞るようにして、今日必死でここへ来たのだ。

 縺れ始めた糸は解け目が見つけられないうちに、さらに縺れていくものだ。今は、こうしてそばにいるのに。

 眠りに就いたアヴリルの端整な寝顔を見つめながら、弥生の心は不安に押し潰されそうだった。


 ***


 携帯電話の電話帳を開いて、通話ボタンをタップする。

 ディスプレイに映し出される弥生は明るく笑っていた。思えば、しばらくこの笑顔を見ていない気がする。

 呼び出し音は、やがて途切れた。少し前から何度か送っているメールには、返事の一通すらない。

 何かがおかしくなったのは、いつからだっただろうか。

 生徒会の仕事を片づけている最中に、ここまで集中できないことは、今までにない。もう何度目かのコール音は、やはり虚しく耳に響くばかりで、応える気配が感じられない。

 今頃、弥生はどうしているのだろう。もう放課後だが、無事に帰宅したのだろうか。

「どうしたんですか? アヴリル先輩。弥生さん、出ないんですか?」

「あなたが気にすることではないわ」

「でも……」

 気遣わしげにこちらを見上げる後輩の視線を感じ、操作していたそれをスカートのポケットに戻したアヴリルは、そぞろになりかけた気を取り直して、椅子に腰を下ろす。

「続きを始めましょう」

「さっき、フェヴリエさんが言ってたことが気になってるんですね。帰ってもいいですよ。あとは一人でできますから」

 本日の文化祭会議を終え、残っている仕事は雑用のようなものだけだ。そうだとしても、一度やりかけた仕事を放り出すなんて――。

「……」

 今日の自分は、やはりどこかおかしいのだと思う。胸に渦巻くわけのわからない懸念は、如何ともし難かった。

「ごめんなさい。お言葉に甘えて、先に失礼してもいいかしら?」

 仕事仲間の小日向こひなた優梨ゆうりが苦笑混じりに頷く姿を視認してから、生徒会室をあとにする。

 後輩を一人きり残して帰ることは忍びないが、文化祭会議が始まる直前のフェヴリエとの会話が重くのしかかっていた。考え始めればきりがなく、彼女の言葉が頭の中を巡り続ける。

 フェヴリエは、いつになく厳しい顔つきをして、放課後の生徒会室まで足を運んできたのだ。普段はそんなことをしないのに。

 口調には明らかな棘があった。アヴリルの対面に座って、人数分の資料を用意していた優梨にも、心なしか冷たい視線を送る。

「今日も優梨さんと残業ですの? 大変ですわね、アヴリル姉様」

「フェヴリエ」

「最近、思うのです。弥生さんのように言いたいことを仕舞い込んで、一人で耐えるような子には、もっと彼女のことをよく見てくださる方のほうが合うのではないか、と」

「……何が言いたいの?」

「例えば、皐先輩とか」

 思いがけない台詞に、反射的に席を立ったアヴリルだが、フェヴリエは冷ややかなひとことを放つなり、踵を返した。

 アヴリルはその場に立ち尽くしたまま、いとこの背中に向かって、よく呑み込めない意味を問いかける。

「皐くんがどうしたというの?」

「知っていますか? 弥生さん、お熱を出されて保健室に行かれたのですよ」

「なんですって?」

「やっぱり、ご存知なかったのですね。昼休みが終わったあとのお話ですが、ご心配なく。姉様は、優梨さんと生徒会のお仕事を頑張ってくださいまし」

 こちらを振り返ることなく、皐の名前を口にしたり、優梨の名前を連呼したフェヴリエの態度も気になるが、今問題なのは弥生のことだ。

 優梨は生徒会で庶務を務めていて、彼女が引き起こした仕事のトラブル処理に、ここ数日、手間取っていた。

 加えて、アヴリルも文化祭会議や生徒会長の仕事などで立て込んでいたため、弥生との連絡が途絶えていたことに気づく余裕すらなかった。

 人気のない廊下を足早に歩きながら、さっきのフェヴリエの要領を得ない言葉の断片を繰り返し考えると、点と点が線で繋がっていく。あれは痛烈な皮肉だったのね。

 そして、これは間違いなく危機的な状況であると実感しながらも、アヴリルは内心で思い出していた。

 数日前。今しがたと同じように、誰もいない生徒会室で。

「弥生さんのことですけど」

 優梨はそう切り出した。

「あの子が何か?」

「アヴリル先輩、弥生さんと付き合ってるんですよね」

 雑務をこなす彼女にかけられた次の言葉は、意外なものだった。

 どう返すべきか、しばし迷う。弥生が自分たちの関係が表に出ることを、極端なまでに嫌がっているからだ。

「なぜ、そんなことを?」

「そのことで、アヴリル先輩は悩んでもいるんでしょう」

「……今は仕事中よ。仕事の話をしましょう」

「これも仕事のお話ですよ。プライベートでの懸案事は悪影響です。実行委員長が交通事故に遭って不在な今、今年の文化祭の成功はアヴリル先輩に懸かってるって、わかってますよね?」

 優梨の台詞は、どこか詭弁に感じた。だが、あながち間違っていない気もする。実際、アヴリルが悩んでいることは事実だった。

 次の瞬間、脳裏に弥生の姿が浮かぶ。美人というより、清楚でふんわりとした雰囲気を持つ可愛らしい彼女。他の誰かと、なんて考えたことがない。

 生徒会庶務である優梨の友人ということもあり、学内で時々言葉を交わす間柄になった弥生を、最初は大勢いる後輩の一人として見ていたが、いつも一生懸命で真面目な姿に好感を持った。

 和菓子店での働き方を見る限り、目立って仕事ができるタイプではないが、彼女の優しい雰囲気はアヴリルに癒やしをくれた。

 一人の人間として、アヴリルが弥生を愛するようになるまでに、多くの時間はかからなかった。

 交際を始めて、四ヶ月。いつの間にか、何かがずれ始めている。

 まさか、弥生には他に好きな人ができたのだろうか。それとも、最初から?

 あの日、和菓子店で恥ずかしい告白をしてしまった上級生を、優しい彼女は無碍にすることができなかったのかもしれない。それが公にすることを嫌がる理由なのではないか。

 彼女が自分との関係でずっと悩み、別れたいと言えずにいたのならば、こちらから離れてやるべきではないか。

「私にしませんか?」

「……え?」

「私じゃ嫌ですか?」

「それは、どういう……」

 そのとき、個人的な思考に陥っていたアヴリルは我に返り、顔を上げた。優梨が好んでつけている、濃厚な薔薇の香りが目の前に漂う。

 いつの間にそばまで来ていたのか、彼女の細く繊細な指先がしっとりとした手つきで、アヴリルの頬に触れた。

「……」

 弥生の家を訪ねる前に、まずは保健室を覗いてみようと一階に下りたアヴリルの思考は、再び出口のない迷路に迷い込む。いつから、私は間違っていたの?

 自分が本当に弥生に愛されているのか、よくわからなくなっている。特に、最近は腫れ物に触れるような関係になってしまっている。

 先週末の諍いのとき、私じゃない人と付き合えばいいと、弥生は言った。自分に抱かれながら泣いていた、数日前の彼女の悲しげな瞳も蘇る。

 腕時計に目をやれば、時刻は間もなく十八時三〇分になるところ。

 フェヴリエの皮肉混じりの警告や、優梨の諦めたような苦笑を思い出しながら、アヴリルはきっと顔を上げた。



©涼水藍那2024.

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