第二章 進展編

第二話 ソリューション(1/2)

 生徒会長の仕事をすべて終え、副会長の舞と共に廊下へ出た、七月某日のこと。

 アヴリルの足が止まりかけたのは、ふと目に入った食堂の入り口に立てられた看板に、大福餅と書いてあったためだ。

 放課後ということもあって、今は客が少ないのか、食堂には噂の大福餅を頬張る女子生徒が一人いるだけだ。確か、弥生と同学年の生徒だっただろうか。

 アヴリルの脳裏に、想いを通わせる少女の姿が浮かんだ。自分より二つ年下の高校一年生で、普段は老舗和菓子店でアルバイトをしている弥生である。

 可愛くて真面目そうな子だという第一印象はいつの間にか恋心へと姿を変え、紆余曲折の末、お互いに憎からず想い合っていることを知り、恋人になった。

 面映ゆい気持ちでそんなことを考える一方で、ここ数日の弥生が、どことなく元気がなかったことを思い出す。

(大福餅はいいかもしれないわね。弥生は和菓子が好きだもの。あれを買っていってあげたら、きっと笑顔を見せてくれるはず。舞を先に帰してから、一人でゆっくり見てみましょう)

 思案したのは短い時間だったが、アヴリルの隣にいた舞が、こちらを振り返った。

「珍しいわね。アヴリルが食堂に興味を持つなんて」

 舞はアヴリルが見ていた方向に自分も一度目をやり、すでに歩調を戻した彼女に視線を向ける。普段は凛としているアヴリルのどこか照れたような表情に、舞は調子に乗った。

「普通より大きいわよ、あれは」

「そうね」

「柔らかそうだわ。弾力のほうも気になるところね」

「ええ。口にすれば、さぞ甘いことでしょう」

「あなたでもそう思うの?」

「誰でも思うのではなくて?」

「それはそうだけど、まさかアヴリルが……」

 舞は少なからず驚いた。

 高校三年生という若さでありながら落ち着き払った人物であるアヴリルを、上品が服を着て歩いていると称しても過言ではない、お嬢様然とした少女だと思っていた。

 それなのに、このように明け透けなやり取りに乗ってくれるなんてと、改めてアヴリルをまじまじと見れば、ふいと視線を外される。

 アヴリルのほうは、舞の前で弥生のことを考えていた自分に、軽い羞恥を覚えていた。

 にわかに口元を引き締めるが、アヴリルの心を占めるものは、嬉しそうに微笑む弥生の姿だった。あの笑顔を、いつも見たいと思うのだ。

 ちょうど同じ頃。

 アルバイト先の和菓子店の掃除を終えた弥生は、スタッフルームの椅子に座り込み、額の汗を手の甲で拭っていた。夏本番に片足を突っ込んでいるこの時期は、少し動いただけでも蒸し暑さを感じる。

 彼女がここでアルバイトを始めたのは、高校入学と同時期だった。

 社会勉強と小遣い稼ぎのために、中学時代からの友人にしてクラスメイトでもある水無月の家が経営する和菓子店で働かせてもらっている。

 当時、研修生だった弥生は右も左もわからず、失敗の連続で落ち込んでいたのだが、会えばいつも気にかけてくれる人がいた。その人と交わした会話はどれも忘れられない。

 弥生の要領の悪さに客が苛立ちをぶつけてきたとき、さり気なく仲裁に入ってくれたその人は、弥生が密かに憧れていたアヴリルだったのだ。

 色白の肌。長い睫毛に縁取られた灰茶色の瞳と、この国では珍しい金髪ハーフアップ。

 西洋人形ビスクドールのように整った容姿と明晰な頭脳、スポーツまで表彰台クラスの記録を持つアヴリルに、当初は畏怖のようなものを感じていた弥生。

 しかし、実は突発的なトラブルに弱かったり、一度口にしたことは必ず守る誠実さを持っていたり――そうした彼女の人柄を知るごとに、畏怖や憧憬は恋心へと変わっていった。

 自分はアルバイト、アヴリルは生徒会長の仕事があるため、中々二人の時間を過ごすことができなくて寂しい気持ちもあるが、アヴリルと二人で交わした会話や、過ごした時間を思うと、幸せな笑みが漏れる。

 この和菓子店でアヴリルに告白をされてから、早いもので二ヶ月が経つ。

 弥生は再び額に手を当てた。今日は殊更に暑い。じっとしていても、胸元にまで汗が滲んでくる。家にいたなら、こんな陽気ではとっくに夏服に着替えている。

 視線を落とせば、現在の自分は小豆色の着物に紺の前掛け姿で、女の子らしいとはとても言えない格好である。着物の下には襦袢と裾よけ、そしてご丁寧に和装ブラとローライズショーツを身につけている。

 春先は気にもならなかったが、こうも暑いと、胸を押さえつけてくる和装ブラの存在が鬱陶しい。和装ブラが気になれば、否応なしにその中身にも意識が向く。

(これじゃあ、余計に胸が余計引っ込んじゃうよね)

 弥生の胸はCカップ。小さいとまではいかないものの、若干成長が足りない自身の胸にはため息が出る。弥生にとって、このサイズが切実な悩みだった。

 恋人になったとはいうものの、アヴリルとはキス止まりである。だが、その先の関係に進みたそうな彼女の様子を、時々うっすらと感じることがある。

 例えば、前よりも少しだけキスが長くなったとか。肩や頬に触れる程度ではあるが、さり気ないスキンシップが増えたとか。

 アヴリルのそんな風情に気づいてはいたが、弥生にどうしても勇気が出ないのは、この胸のせいだ。

 年頃の少女であるからには、アヴリルがそういうことを考えることも当然だとわかっている。

 弥生だって、嫌というわけではない。想い合っているのだから当然だと、それ自体の覚悟はとっくにできている。

 アヴリルはとても真心のある人だ。胸のサイズで嫌ったりしないだろうとも思う。けれど、少しくらいはがっかりされてしまうかもしれない。

 以前、水無月から借りた雑誌には、どうやって胸を大きくするかという記事なら山ほど載っていたが、小さい胸が素敵なんて記事は目にした試しがない。

 同性愛の性質を持っているのだから、アヴリルの本能は、男性のそれと大して変わらないはずだ。

 そう考えると怖くなり、ここ数日はアヴリルと二人きりになることを避けがちになっていた。

 しばらくその場で考えに耽っていたが、気を取り直して、弥生は椅子から立ち上がる。

 拭き掃除に使った雑巾を片づけ、汗を掻いた体を拭ってさっぱりしようと、スタッフルームの扉を小さく開けた、そのとき。

 たった今、和菓子店に来たらしい舞が、最近ではすっかり定位置となった小上がりの奥へと足を運ぶのが見えた。その姿に気づいた水無月が、いそいそと接客に当たっている。

 なんとなく出ていくタイミングを逃した弥生の足が止まる。

「――というわけで、さすがの私も驚いたわ」

「それ、本当ですか? あのアヴリル先輩がそんなことを言うなんて」

 水無月が運んできた茶を片手に舞が語る話題は、そこにはいないアヴリルのことのようだった。扉の隙間から二人の様子を窺う弥生は、思わず聞き耳を立てる。

「やっぱり、アヴリルも女の子の胸は大きいほうがいいのかしらね」

 思いがけない台詞が耳に飛び込んだ。

 無意識に、自身の胸を見下ろしてしまう。きつく胸を押さえつけてくる和装ブラのせいで、そこにはわずかの膨らみも感じられない。

「よっぽどの貧乳フェチでもない限り、誰でもある程度の大きさは欲しいんじゃないですか? というか、舞先輩。私というものがありながら、アヴリル先輩と一緒になって、他の女の子に目を向けるなんてぇ」

「胸が気になっただけよ」

「……まあ、その子のことは私も知ってますけど、確かに触り心地のよさそうな胸をしてますよねぇ。だけど、アヴリル先輩はどういうつもりなんでしょう? まさか、浮気とか?」

「あるいは、弥生と二股をかけるつもりかもしれないわよ」

 そこまで耳にしたところで、ドアノブにかけていた弥生の右手にぐっと力が入った。

 思わずノブを回してしまい、はっとすると同時に、スタッフルームの扉が開かれる。ギィという微かな物音に、舞と水無月がこちらを振り向いた。

「あれ、弥生ちゃん?」

「ご、ごめんなさい。立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど……」

「何よ、聞いてたの? 困ったわね。今の話、アヴリルには内緒よ。あの子、時々冗談が通じないところがあるから」

「も、もちろんです!」

 アヴリルの恋人がそこにいたことを知ると、舞と水無月がばつが悪そうに言う。弥生は平静を装って答えたつもりだが、それが上手くいったかどうかはわからない。

 ただ、“女の子の胸は大きいほうがいい”とか“触り心地のよさそうな胸”とか“浮気”とか“二股をかけるつもり”というフレーズが、頭の中をぐるぐると回っていた。


 ***


 適当に言い繕って舞を先に帰し、再び食堂へ赴いたアヴリル。

 首尾よく大福餅を手に入れたものの、件の和菓子店へ向かえば、弥生はすでに帰宅したあとだった。我が家に戻れば、もう十九時である。

 普段はこのくらいの時間まで働いている弥生が、それより前に帰宅することは珍しい。いつもなら、和菓子店へ向かえば、愛らしい笑みと共に歓迎してくれるのに。

 しばらく元気がなかったのは、もしかすると、本格的に体調を崩しているせいではないだろうか。

「アヴリル姉様。そろそろお夕食だそうですわよ」

 勉強机に載せた大福餅の包みを一度見やり、彼女にメールを打とうかと逡巡しているところへ、今日も今日とて天野家を訪れていたフェヴリエがひょっこりと姿を見せた。

 相変わらず、遠慮会釈なしに部屋の扉を開けるいとこに辟易するが、今日に限っては、勉強机の上にある物を見られたくないと、咄嗟に防衛本能が働く。

 このいとこが関わると、何かと面倒が起こりやすい。フェヴリエが足を踏み入れてくる前にその体を押し返し、アヴリル自身も表へ出て、バタンと扉を閉じた。

「姉様」

「わかっているわ。夕食でしょう」

「ええ、わたくしもお邪魔させていただくつもりですわ。ですが今、私が申し上げたいことはそうではなくて――」

「遅れるといけないわ。急ぐわよ」

「……」

 意味ありげに含み笑うフェヴリエの表情など気づきもせず、アヴリルは先に立って、足早に廊下を進んだ。

 キッチンリビングに入れば、すでに両親が席に着いていた。今夜のメニューは、アヴリルの好物の一つでもあるビーフストロガノフだ。

 しかし、今はロシアの郷土料理に舌鼓を打っている場合ではなく、だからといって、弥生の隣のクラスに所属しているフェヴリエに、彼女の様子を聞けるアヴリルではない。

 食事もそこそこに自室へ戻るアヴリルを盗み見て、フェヴリエの口元が我知らず緩む。

 一見、平静を装ってるように見えるが、よく観察すれば、心の中がだだ漏れのアヴリルの背中に向かって、フェヴリエは声を殺しながら肩を震わせていた。


 ***


 翌日。今日に限ってノルマが多い生徒会長の仕事をすべて片づけたアヴリルは、愛しい恋人がいる和菓子店へ向かった。

 朝から何度か送っているメールに返信がなく、休み時間に弥生のクラスへ様子を見に行っても、そこに彼女の姿を見つけることができなかったからだ。

「いらっしゃいませぇ……って、なんだ。アヴリル先輩じゃないですか。もしかしなくても、今お帰りですか? お疲れ様です」

 初めてこの店を訪れたときのようにアヴリルを迎え入れてくれたのは、水無月だった。

 ここは彼女の自宅を兼ねていて、水無月自身も家の手伝いという名目で働いている以上、彼女の登場は不思議なことではないのだが、目的の人物を見つけることができず、少々落胆する。

「まあね。ところで、弥生はどちらに?」

「弥生ちゃんなら、更衣室にいると思いますよぉ」

「そう。ちょっと失礼するわね」

「え? ちょっ、アヴリル先輩ぃ!?」

 驚いたような水無月の声を無視して、更衣室があると思しき方向へ踵を進める。

 弥生が出てくるまで待ってもよかったのだが、あの真面目な恋人のことだ。メールの返信もできないほど体調を崩していても、職場ではそんな素振りを見せないようにするはずだ。

 もしも無理をしているようなら、ここは恋人である自分が注意をしなくてはならない。アヴリルは使命感に燃えていた。

「弥生、いる?」

「……い、いません」

 更衣室の扉をノックしながら声をかければ、息を呑む気配とちぐはぐな答えが返ってきて、アヴリルは首を傾げる。いませんと答えた声は、間違いなく弥生のものなのだ。

「いない子が返事をするなんて、ありえないでしょう。具合が悪いのではないの? メールの返信もできないくらい」

「大丈夫です」

「いえ、ここ最近のあなたは少しおかしかったわ」

「本当に大丈夫ですから、今は一人にしてください……」

「そうはいきません。入るわよ」

「だ、駄目!」

 いつもと違う弥生への心配が高じて、アヴリルは扉を開けようとする。だが、こちらへ駆け寄ってきたらしい弥生が内側からドアノブを押さえたため、それは叶わなかった。

「どうしたというの?」

 このときばかりは、フェヴリエのことを言えない己の行いを顧みる余裕がなく、抵抗を許さないとばかりに力を込め、できた隙間に手を差し入れて、扉をこじ開けた。次の瞬間。

「いや――っ!!」

 弥生が絶叫した。同時に、アヴリルの手にあった通学鞄がぼとりと床に落ちる。

 扉を開け放ったアヴリルの目が最初に捉えたものは、眩しいほどに白い二つの膨らみ。だが、同時に弥生はその場にしゃがみ込んで小さくなった。

 今、アヴリルが見下ろしているものは、下を向き、自身の体の前を細腕で覆う彼女の、長い黒髪を纏う華奢な後ろ首と、露わになった肩や背中である。

「いっ……たい、な、何を……して……」

 喉が乾いて、上手く言葉が出てこない。

 蹲った弥生の足元には、細く長い和装ブラが丸まって落ちていた。下を向いたままの弥生が、恨みがましそうにか細い声を絞り出した。

「見ましたね、私の胸……」

「み、み、見……っ」

 ほんの刹那のことだった。

 しかし、その刹那にアヴリルの瞼の裏にしっかりと焼きついて、弥生の言葉と共に再び目に鮮やかに蘇ったそれは、抜けるように白く、決してふくよかとは言えないが、形がよく、無垢な桃色の愛らしい蕾をつんと頂いて、眩しいばかりに白く――。

 つまり、それは女性の象徴とも言うべき双丘。アヴリルが初めて目にした弥生の乳房だった。

 わずかな時差ののち、現状と視覚と感覚が完全に一致したアヴリルの全身が、まるで火を噴いたように熱くなった。

 蒸し上がるアヴリルをよそに、弥生のほうは涙ぐむ。ぐすんと鼻をすする音が聞こえる。

 いくら恋人とはいえ、弥生の制止を聞かず、不躾に扉を開けてしまった自身の愚行に思い至れば、湯気を出しつつも、今度は居た堪れなくなってくるアヴリル。

「ご、ごめんなさい。無体な真似をしてしまって」

「大きいのが、好きなんでしょう」

「……は?」

「小さいのは、嫌いなんでしょう」

「い、一体、何が……。大きいの小さいのと、意味がわからないのだけど……」

「もういいです。アヴリル先輩がどこぞの巨乳の女の子に心変わりしたって、仕方ないって思ってますから」

「巨乳の女の子に、心変わり……? なんのことを言っているの?」

「私のことなんか気にせずに、その子とどうぞお幸せに!」

「ま、待ちなさい。あなたはなんの話をしているの?」

 わけのわからない文言を吐き出した弥生。そこに拒絶めいたものを感じて動揺したアヴリルが、思わず床に膝を突き、その細い肩を両手で掴み起こせば。

「いや――っ!!」

 再びの絶叫と共に、アヴリルの眼前に曝されるものは、弥生の限りなく白い二つの膨らみであった。



©涼水藍那2024.

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