第一話 エモーション(2/2)

 あれからこの日まで、アヴリルと舞はまともに言葉を交わすことがなかった。何度かアヴリルに声をかけてみた舞であったが、すべて不発に終わった。

 アヴリルが頑なであり、何かしらの信念を持ったら最後、決して折れないことはわかっていたが、これでは皐に言われた件を確かめようがない。

 アヴリルとしては、「抜け駆けをされたら大変でしょう。告白の日まで、舞先輩とお話ししてはいけませんわよ」というフェヴリエの言葉を守っていただけなのだが、舞は取りつく島もないアヴリルに困っていた。彼女には伝えたいことがあったのだ。

「ちょっと、アヴリル」

「ごめんなさい。私は今、忙しいの。話ならあとにしてくれないかしら?」

 そそくさとその場を立ち去るアヴリルの背中を、何度見送ったことだろう。

 そんなこんなで、この日はアヴリルが勇気を振り絞る決行日であるのだが、再び舞と生徒会室で二人きりになったことは、アヴリルの意図したところだった。

 アヴリルは、舞を出し抜くようなことは端から考えていない。これまでは目を合わせることすら避けていたが、今日はきっぱりと舞に告げる。

「舞、和菓子店へ行かない? いえ、一緒に来てもらうわ」

「は?」

「場合によっては、あなたの飲食分を立て替えてもいいけれど」

「え?」

 突然の申し出に、舞が目を丸くする。

「その前に、確かめておきたいことがあるんだけど」

「……」

「ちょ、ちょっと待ちなさい。アヴリル!?」

 あの日と同じような放課後。しかし、あの日よりも決然とした足取りで舞の前を歩き、またしても自分の世界に入ってしまったアヴリルは、もはや舞の呼びかけにも応えず、どんどん先へ進んでいく。愛しい人がいる和菓子店へ向かって。

 彼女の頭の中は、本日行うミッションのことでいっぱいになっているのだ。

 一方、いまいち状況がわからない舞だったが、考え方を変えれば、今日はアヴリルの奢りで和菓子が堪能できる。そして、和菓子店へ行けば彼女にも会える。

 まあ、いいかと思いながら、とりあえず彼女はついて行く。

「いらっしゃいませ」

 あの日と同じように、涼やかで耳に心地いい声で迎え入れてくれたのは弥生であった。ああ、今日も愛らしいのね、あなたは。

 アヴリルの目元がじんわりと朱に染まり、すでにうるさく打っていた鼓動が、より一層激しく打ち始める。

「奥に、いいかしら……?」

「はい、どうぞ」

「わ、わらび餅ドリンクを、お願い」

 力みすぎて、変に掠れた声を出すアヴリルの様子にも気づかず、舞は誰かを探すように、きょろきょろと辺りを見回す。

「あら、今日はいないの?」

「ふふ、お使いに行ってるだけですから、すぐに戻りますよ。舞先輩はアイス抹茶ですよね? すぐにお持ち致します」

 これまたあの日と同じように、アヴリルと舞が座敷に座を取ると、傍らに弥生の手で折敷がすっと置かれた。

 その小さな手を見つめながら心臓をドキドキと高鳴らせ、うっかりこの手を握り締める自分を想像してしまい、アヴリルは目まいに似た気分に襲われる。

 今日は小上がりに他の客の姿は見えなかった。

 一度厨房に消えた弥生が、わらび餅ドリンクとアイス抹茶を載せた盆を手に戻ってくる。他の客がいないので、ゆったりとした物腰で二人の脇に膝を突いた。

 弥生の頬には愛らしい微笑が浮かんでいる。この笑顔を見るだけで、アヴリルはくらくらしてくる。何も言わなくとも、時々こうして彼女を見つめるだけで充分だったはずなのに。

 だが、今となってはもうやるかやられるか、それしかない。鈍りそうな決心を必死で繋ぎ止める。

 そうなのだ。アヴリルは弥生に想いを伝えること、舞にも誠心誠意頭を下げて弥生を諦めてもらうこと。この二つを決行すべく、一大決心の元、本日ここへやって来たのだ。

「何になさいますか?」

「アヴリル。私、この夢通路とやらを注文しようと思うの」

「ええ」

「あと、龍しぶきも」

「ええ」

「アヴリルの払いで」

「ええ」

 このとき、すでにアヴリルの脳内は沸騰しすぎて、正常な回路が何本か切れていた。

「それと、こぼれ菊とかりんと饅頭も頂こうかしら」

「はい、畏まりました。アヴリル先輩は何を召し上がります?」

「わ、わ、私は……」

「はい」

「私は……あ、あなたを」

「あの、アヴリル先輩?」

「わ、私は……。私は弥生が欲しいの」

 その場に一種、異様な空気が流れた。舞は呆けたように口を開き、弥生の手からはぽろりと盆が落ちる。

 舞も弥生も、アヴリルから放たれた言葉の意味を瞬時に理解することができなかった。無理もない。アヴリル本人でさえ、緊張のあまり、自身の発言を把握し切れていないのだから。

「ア、アヴリル先輩?」

「何を言ってるの? アヴリル」

「ごめんなさい、舞」

「え?」

「私はあなたのことを認めていて、尊敬もしている上、大切な親友だと思っているわ。だけど、こればかりは譲ることができないの。だから、お願い。弥生のことだけは諦めてちょうだい」

「は? 諦めるって……」

「私は、どうしても弥生が欲しいの」

「ア、アヴリル先輩、落ち着いてください。仰る意味が……」

 混沌と化した空間。そこへ顔を出し、舞の姿を見て、ぽっと頬を赤らめたのは。

「ただいまぁ、弥生ちゃん。あれ? 舞先輩、いらっしゃいませぇ。アヴリル先輩も」

 この老舗和菓子店の娘である水無月だった。

 数日前に想いを告げ、恋人になったばかりの可愛らしい後輩がようやく現れて、舞も嬉しげに目元を緩ませる。


 ***


 アヴリルは机の上に突っ伏していた。もはや、ぐったりと突っ伏すことしかできないほど、彼女は意気消沈していた。

「まさかとは思ってたけれど、本当に皐の言う通りだったとはね」

「……」

 同じ相手に好意を寄せているとばかり思い込み、舞を牽制していたが、実は誤解だったとわかったときには、もう遅かった。

 アヴリルがあまりにも恥ずかしい告白を一方的にやらかした挙句、この展開となったのは誰のせいでもない。

 しかし、ぱくぱくと和菓子を口を運び、アイス抹茶に喉を鳴らしながら、傍らに侍る水無月と仲よさげにしている舞がどことなく恨めしい。散々煽ったフェヴリエのことも少しだけ恨めしい。

 事の次第を悟った瞬間、当の弥生は顔を真っ赤にして俯き、厨房に引っ込んでしまった。

 帰りたい。そんなことを思いながら、のろのろと顔を上げたアヴリルは、グラスに残った最後のわらび餅ドリンクを飲み干す。

「なんだか、ごめんなさい。あなたの憂いを考慮せず、こちらだけ上手くいってしまって」

「……いえ」

「それと大変言い辛いのだけど、またしても月末だから、私、あまりお金を持ってないのよね」

 アヴリルはため息をつくと、通学鞄の中から財布を取り出して、舞の前に置いた。確かに、ここへ誘ったのは自分である。

 恋には破れたが、少なくとも友情のほうは保たれたのだ。今日のところは、それでよしとするべきだ。だが、心が痛い。千々に乱れた胸を抑え、項垂れながら小座敷を下りる。

「私は先に失礼させていただくわ」

「あらそう? 悪いわね、アヴリル」

「……」

 舞から向けられる同情の視線すら背中に痛い。

 満身創痍といった様子で、ひたすら落ち込み、とぼとぼと家路を歩くアヴリルは、恥ずかしがり屋の弥生が彼女なりに決心を固めて、このあと、自分を追いかけてくることを知らない。

 実は弥生のほうも、時々学内で声をかけてくれる日仏ハーフの優しい生徒会長に、密かに好意を寄せていたのだ。

 アヴリルが夢想した以上の弥生との眩しい世界が間もなく手に入る。幸福はすぐそこにあるのだ。恋というものは複雑なようでいて単純であり、しかしやはり難しいものである。


 ***


 暗い足元を見つめながら踵を進めるアヴリルの背後から、微かな足音が聞こえた。刹那、警戒したアヴリルが後方の気配を気にしつつ足を止めれば、その足音も止まる。

 動きを止めた彼女の背に、ややしてから再び聞こえる足音はぱたぱたと頼りなく、そして少しずつ距離を縮めてくる。

 動揺に脈打つ心臓を持て余し、けれど振り返れないまま、アヴリルはそこに立ち尽くしていた。

 どういうわけか、振り返るのが怖いと思った。期待をしすぎてはならない。

 だが、足音に混じる乱れた息遣いは、ここまでの道のりを、その人物がずっと走ってきたせいだと知れた。あとわずか数歩の距離で、またその足音が止まる。

「……」

「……なぜ」

「あのままじゃ、二度とアヴリル先輩と会えないかもしれないと思って……」

 息を乱しながらの声は、やはり弥生のものだった。

「お店は?」

「水無月と舞先輩が見てくれてます」

「そう」

「あの、私……」

「…………」

「……わた、し……」

 弥生が口ごもる。

 こんなときこそ何かを言わなくてはならないのに、目まぐるしく脳内を血が駆け巡るのに、それなのに。

 大切な場面で気の利いたことの一つすら言えない自分のような女が、こうして追ってきてくれた彼女に応える資格などあるのだろうか?

 今のアヴリルは、さっきまでの落胆から少しばかり立ち直っていた。

 だがその分、告白をしたときの勢いは失せており、正気に戻った彼女は逡巡する。ああ、けれど、何かを言わなくては。気持ちだけが焦る。

「わ、私は……」

「アヴリル先輩」

「な、何かしら?」

「私も……。私も、なんです。本当は」

 弥生の声は切羽詰まっていた。切なげで、苦しげで、悲しいほどに愛しい声が必死に訴える。

「本当は私も、あなたが……アヴリル先輩が、好きだったんです」

「は……?」

「入学式のとき、新入生歓迎の挨拶を読み上げる姿を見たときから、ずっと憧れてて。いつの間にか、その……」

 夢のような弥生の言葉に振り返ったアヴリルの胸へ、ふわりと甘い香りが飛び込んできた。

 反射的に抱き留めた体は柔らかく、想像よりもずっと得難い儚さで、感無量となったアヴリルは頭で何かを考えることを放棄して、強く、強く掻き抱くように抱きしめ直す。

 そして、弥生の細い首元に埋めた唇で、やっと言葉を押し出した。

「私のほうが……。私のほうがずっと、ずっとあなたのことが好きよ。初めて学内で見かけたときから」

 単純なようでいて、難しい恋というもの。

 だが、それはお互いが素直になりさえすれば。ただそれさえができるのなら、こんなに幸福な感情は他にないかもしれないと、愛しい人を抱きながらアヴリルは思い知るのである。



©涼水藍那2024.

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