ルナティック・Honey

涼水藍那

第一章 告白編

第一話 エモーション(1/2)

 書類仕事を終え、長く凝らしていた両瞼を押さえながら、椅子の背に寄りかかった日仏ハーフの少女――天野あまの・クリスティーヌ・アヴリルが、深いため息をついた。

 夕日が降り注ぎ、吹く風は爽やかで、緑は鮮やかに濃い。そんな五月の放課後である。

 普段はきりりと背筋を伸ばし、凛とした生徒会長である彼女だが、今は放り出したボールペンをペンケースに仕舞うことも忘れたように、ぼんやりと遠くを見つめている。

 そこへ、副会長である神宮寺じんぐうじまいがコーヒーを載せたトレイを持って、ひょっこりと顔を出す。

 彼女はアヴリルの目の前まで歩み寄ると、デスクの上にティーカップを置いた。

「お茶にしましょう」

「ええ、ありがとう」

「ねえ、アヴリル。あなた、もしかして退屈してるんじゃない?」

「退屈なんてしていないわ。さっきまで、しっかりと身を入れて書類仕事に励んでいたもの」

「たった今、ぼーっとしてたじゃない」

「ぼーっとしていたのではないわ。休息を取ることも、体調管理には必要でしょう」

「そうかしら? 私の目には退屈そうに見えたけどね。それとも、何か考え事でもしてたの?」

「……いえ」

 舞がデスクに置いた花柄のティーカップを取り上げると、アヴリルは何かを誤魔化すようにコーヒーに口をつける。

「ところで、アヴリル。なんだか小腹が空かない?」

「空いていないわ。今、コーヒーを飲んでいるもの」

「コーヒーでお腹は膨れないでしょう。夕飯時まで、時間もあることだし。私は小腹が空いたのよね」

「食堂にでも行けばいいじゃない。コックに頼んで、何か軽食でも作ってもらったら?」

「そういういうことじゃないのよ。アヴリル」

「何かしら?」

「和菓子、食べたくない?」

 刹那、アヴリルは思い切り噎せた。危うくティーカップも落としかけた。

「アヴリル?」

「こほっ、こほっ……」

「どうしたのよ? 私、何か変なことを言った?」

「い、いえ、問題ないわ」

 焦ったようにハンカチを口元に当てるアヴリルの目元が、妙な具合に赤く染まる。しかし、執拗に問いかける舞の目にそんなものは入らなかった。

 アヴリルがこのやり取りのどの部分に反応して咳き込んだのかにも考えは及ばず、ただ自分の持ちかけた話に彼女が乗ってくれるかどうかばかりに意識を向けながら、再度伺う。

「それで、和菓子なんだけど。どう思う? 食べたくない?」

「わ、和菓子、ね。特に小腹は空いていないけれど……。でも、そう。和菓子ね……」

 二人の胸中を占めた事柄は、まるで違ったもののようでいて、そう大して違わなかった。

 少なくとも、一つだけ確実に共通して脳裏に浮かんでいたものは和菓子である。

 いや、もっと言えば、和菓子店。それもどこでもいいわけでなく、はっきりと特定された、とある和菓子店なのであった。


 ***


 数十分後、二人はそのとある和菓子店の前まで来ていた。

 若干、腰が引け気味のアヴリルが軒先の縁台に座ろうとすると、舞がこそこそと耳打ちをする。

「奥へ行くわよ」

「え? だけど……」

 躊躇いを見せるアヴリルの腕を舞が引っ張り、その手を払おうとするアヴリルとの間に、密かな小競り合いが起こる。そんな二人に、不意に明るい声がかけられた。

「いらっしゃいませぇ……って、あれ? アヴリル先輩と舞先輩じゃないですか。こんにちはぁ」

 咄嗟に動きを止めて、二人同時に声の主を見る。暖簾越しに顔を覗かせたのは、あどけなさを残した顔立ちの少女である。

「よろしければ、こちらへどうぞ」

 続けて、店の奥からも涼やかな声が聞こえ、前掛けに和服を着込んだ望月もちづき弥生やよいが顔を出した。

 背を流れる長い黒髪が印象的な彼女は、アヴリルと舞を見て、にっこりと微笑む。その姿を目にしたアヴリルの胸がどきりと音を立てた。

 弥生はこの店のアルバイターであり、最初に声をかけてくれたのは和菓子店の娘にして、弥生のクラスメイトのあずま水無月みなづきである。いつ見ても可愛い後輩たちだ。

「いつもお世話になってます、アヴリル先輩、舞先輩。奥へどうぞ」

 弥生に促され、アヴリルは思わず制服の上から心臓に手を当てて、唇を引き結んだ。

 そうしないと何かが起きてしまうというか、怪しい動きを見せ始めた心臓がいよいよ暴れ出し、気を抜けば口から飛び出てしまうのではないかという懸念を感じたからである。

 実は、書類仕事の最中も、書類仕事が終わってからも、彼女の脳がその銀幕に映し出し、我知らずため息さえつかせていた原因は、他でもない弥生なのであった。

 和菓子と聞いただけで胸がいっぱいになるほど、ここのところ、アヴリルの心を捉えて離さない少女である。

 アヴリルほどではないにしろ、やはりうっすらと頬を染めて、どこか落ち着かない様子の舞に気づくようなゆとりは、そのときの彼女の中にはどこにも存在していなかった。

 とりあえず、勧められるがままに二人は靴を脱ぎ、小上がりの奥へと足を運んだ。

 店は小綺麗で誂えも品がよく、畳敷きに腰を下ろした二人の傍らには、茶を載せた折敷がそれぞれ置かれる。周りでは、裕福そうな紳士や婦人が和菓子を堪能していた。

「何に致しましょうかぁ?」

「私はとりあえずアイス抹茶をお願い。それと、みたらし団子を」

 水無月のにこやかな問いかけに舞が答えれば、壁のお品書きに目を向けていたアヴリルがゆっくりと口を開く。

「では、私はわらび餅ドリンクと……あとは大栗と雪餅を頂きましょうか」

「ちょっと、アヴリルだけずるいわよ。私も大栗をつけてちょうだい。あと、みたらし団子は冷やしみたらしに変更……しましょう、か」

 アヴリルの視線を追って、品書きを見上げた舞の声が途中から失速する。

 大栗も冷やしみたらしも、四八〇円である。みたらし団子よりも、なんと三〇〇円以上も値が張るではないか。

 通学路の途中にあるこの老舗和菓子店を二人はよく知っていたが、実は客として足を踏み入れたのは初めてだった。

 自分の財布の中身を脳裏に思い浮かべた舞は、些かばつの悪い顔になってくる。

「アイス抹茶とわらび餅ドリンクと冷やしみたらしが一点。それと大栗が二点ですね。畏まりましたぁ」

 注文を確認した水無月が下がっていけば、アヴリルがじろりと舞を見た。

「張り合わないの」

「張り合ってなんかいないわ。それより、アヴリル。悪いけど、お金を貸してくれない?」

「お断りします」

「何よ、即答? 少しは考える素振りくらい見せたらどうなの? お小遣いが入ったら、すぐに返すから」

「手持ちのお金で足りるものを注文しなさい」

 そんなやり取りをしていると、今度は水無月の代わりに、アイス抹茶とわらび餅ドリンクを盆に載せた弥生がやって来た。はっと息を呑んだアヴリルが、彼女に目を移す。

「お待たせしました。お飲み物、こちらに置かせていただきますね。お菓子も間もなくお持ちします。他にご注文はありませんか?」

 折敷に載せられたアイス抹茶とわらびドリンク。

 白い手がてきぱきと動く様子を目で追うアヴリルの唇から、思わず上擦った声が出た。

「で、では、追加で……た、龍しぶきを頼めるかしら」

「はい、ありがとうございます」

「は?」

「どうしました? 舞先輩。何か粗相でもしてしまいましたでしょうか、私……」

「い、いえ、ごめんなさい。なんでもないわ。あなたは何も悪くないの。うるさいわよ、舞」

 眉を吊り上げたアヴリルが舞を睨みつけたが、舞はお品書きとアヴリルを見比べて、目を見開いている。

(何よ、アヴリルったら。龍しぶきって、棹菓子のくせに一六六四円もするじゃない。張り合うなと言っておいて、張り合ってるのはそっちでしょう。まさか、アヴリルもあの子のことを……? チッ、失敗したわ。そうとわかってたら、アヴリルなんて誘わなかったのに)

 舞の心にめらめらと闘争心が湧いてくるが、生憎、舞の財布の中身は、せっかくの彼女の闘争心に応えてくれそうにない。何しろ、月末なのである。

 一方のアヴリルも、この辺りでようやく思い当たる。どういう理由で、舞が唐突に和菓子店に誘ってきたのかを。

 この様子から察するに、もしかすると舞も弥生に好意を抱いているのではないか。これは油断がならない。ここは舞より余裕があるところを、ぜひとも強調しておきたい。

 誰しも想いを寄せる相手の前ではいいところを見せたいものだ。

 そういった気持ちはいつの時代も同じで、真面目な優等生で通っているアヴリルも年頃の少女であり、その例に漏れなかった。

 ふと見れば、舞がじっとりとした眼差しでこちらを睨みつけている。これに対して、アヴリルの視線も自然と鋭くなる。気づけば、お互いを見る目の中に熱い焔が燃え盛っていた。

 どちらも腹に一物を抱えながら、そのあとの二人は言葉少なに茶菓を味わい、帰宅の途に就いたのは十九時を過ぎようという頃だった。

「やあ、姉さん。それに、天野も」

 部活からの帰り道で、アヴリルと舞を見つけて声をかけてきたのは、舞の双子の弟である神宮寺じんぐうじさつきだ。彼の見たところ、二人の間の空気が何やら剣呑である。

「どうしたんだい? 二人とも。なんだか、いつもと雰囲気が違うけど。喧嘩でもした?」

「別に」

「喧嘩なんてしていないわ」

「それより、皐。家に着いたら私の部屋に来なさい。どうせ暇でしょう?」

「僕の予定を勝手に決めないでくれるかな? まあ、暇だけどさ」

 十字路に差しかかったところで、アヴリルが無言でその場を去っていく。舞もぷいと背を向けて行ってしまう。

 生徒会のツートップを務める彼女たちは同じ高校三年生で、性格も性質も何もかも違うが、決して仲が悪いわけではない。

 初対面の相手に対しても遠慮がない舞の厳しさと、年齢の割に落ち着き払ったアヴリルの優しさが組み合わさったときの夫婦漫才のようなやり取りを、周囲の者は微笑ましく思っていたものだが――。

 アヴリルが消えた方向に一度だけ目を向けた皐が、自宅へ帰るために舞のあとを追いかけようとしたところ、とある人物に呼び止められることになる。


 ***


「アヴリル姉様」

「こら。勝手に開けないの」

「あら、珍しくご機嫌斜めですのね?」

 からかうような響きを持たせた声でアヴリルの自室の扉を開けたのは、二つ年下のいとこであるフェヴリエ・ドラクロワだった。

 さっきの下校途中での顛末を偶然にも目撃したフェヴリエは、何食わぬ顔で皐に声をかけ、これはいい退屈しのぎになると、わくわくしながら天野家を訪れたのだ。

 不機嫌そうな背中だけでひとこと返したアヴリルは、勉強机に着席していた。机上に参考書を広げているにもかかわらず、その実、本の内容はまったく頭に入ってこない。

「今日、舞先輩と和菓子店さんに行かれたのでしょう?」

「……」

「わたくしも誘ってくださればよかったものを」

「……」

「あのお店は登下校の際に見かけますけど、わたくしの隣のクラスの子が働いていらっしゃるんですよね」

 無視を決め込んでいたアヴリルが顔を上げる。

「弥生さん、でしたっけ? それと、和菓子店の娘さんである水無月さん」

「フェヴリエ。あなた、まさか……」

「心配ご無用。姉様と違って、わたくしにそういう趣味はございませんので。ですが、舞先輩はどうでしょう?」

「……」

 かくして、アヴリルにとっては非常に気が進まないながら、とはいえ聞き流すこともできないまま、にわかにその場が恋愛相談の様相を帯びてくる。尤も、実際はフェヴリエが八割ほど一人で喋っていたのだが。

 いつの間にかフェヴリエに向き直っていたアヴリルは、さっきまでの不機嫌はどこへやら。今や真剣にフェヴリエの話に耳を傾けている。

「とにかく、頭で考えていても始まりませんわ。勝負は先手必勝と言うではありませんか」

「先手必勝……」

「ええ。つまり、相手より先に動くこと。早いお話が、舞先輩より先に弥生さんに気持ちを伝えるのです」

「そ、そんなことは、私にはとても……」

「では、弥生さんを取られてもいいんですか? 舞先輩に」

 それは嫌だ。アヴリルが首を横に振る。

 だが、弥生の気持ちはわからない。心を伝えたところで、却って迷惑になりはしないか。

 ひと昔前に比べると、同性愛に寛容になった現代だが、まだまだ風当たりは強い。断られるどころか、弥生に嫌がられでもしたら、しばらく立ち直れない気がする。

「では、弥生さんを取られてもいいんですか? 舞先輩に」

 同じ言葉を繰り返すフェヴリエに、アヴリルが再度小さく首を横に振る。

 まるで幼子のように素直な反応に、フェヴリエは吹き出しそうな笑いを必死で噛み殺しながら続けた。

「生徒会のお仕事をされているときのように、毅然とするんです。いつ如何なるときでも堂々と、ですよ」

「だけど……」

「では、弥生さんを取られても――」

「わ、わかったわ」

「それに、考えてもみてくださいまし。もしも弥生さんも同じ気持ちだったらどうですか? そのときから、姉様たちは晴れて恋人同士になるのですよ」

「恋人……」

「恋人になられたら、手を繋いだり、デートをしたり、他にも色々と楽しいことがあるのでしょうね。恋人とは、そういうものですからね」

 フェヴリエがにやりと笑う。楽しいこと。楽しいこととは……?

 アヴリルはつい夢想してしまう。

 弥生の満開の桜のような笑顔を目にし、透き通るような声を耳に聞く。鼻先には甘い香りが漂って、それらすべてが自分のものとして隣にあったとしたら、どんなに幸せか。

 細い腕が己の首に回され、あのたおやかな体をこの腕で抱きしめたら、どんなに柔らかいだろう。

 弥生の小さな唇も思い出されてくる。触れたら甘いのだろうな。想い合う二人であるのならば、触れるだけでなく、それ以上のことも……?

 それが、恋人というもの。恋人とは、なんて魅惑的な関係なのだろうか。

 急激に体が熱くなる。アヴリルの顔は茹蛸のように真っ赤になり、今にも蒸気が噴き上がりそうだった。いけないわ、私はなんていう想像を……!

 フェヴリエの口車に乗せられて、さっきはつい頷いてしまったアヴリル。ふと見れば、にやにやと笑ういとこの視線にぶつかって我に返り、今度は羞恥に苛まれ、額に汗が滲む。

 好きな人に自身の気持ちを告げるなど、これまで一度もしたことがない。というか、好きな人ができたこと自体が、アヴリルには初めての経験である。

 高校入学当初から生徒会役員として働いていたアヴリルだが、彼女にしてみれば、全校生徒を前に挨拶や演説、その他の仕事を行うよりも、敷居の高い行為に思える。自分にそんな勇気があるのだろうか。

「フェヴリエ。やっぱり、私には……」

「先ほど、わかったと仰いましたわよね? 姉様。女に二言はありませんことよ」

「うっ……」

 本来、アヴリルは言葉を翻すことをよしとしない一本気である。

 フェヴリエは厳しい目をして――内心では、腹を抱えて転げ回りたいほどに爆笑していたが――、アヴリルの性格上の弱点を的確に突いてきた。

 一体、なぜこのようなことになったのか。事の経緯を脳内で遡れば、すべては舞が和菓子店に誘ってきたことから始まった。

 思い出せば、時に甘く、時に苦しく胸を締めつけてくる弥生だが、何も知らずにいれば、学内で時々見かけるだけで充分だったし、心の中で慕うだけで満足だったはずなのだ。

 そこへフェヴリエが駄目押しをする。

「もしも舞先輩が先に想いを告げられたら、どうなると思います?」

 だが、そうだ。まったくもってフェヴリエの言う通りなのだ。

 よく考えてみれば、さっき自分が想像したあの甘い夢は、場合によっては、そのまま舞に奪われてしまいかねない。

 知らなければよかったが、こうして舞の気持ちを知ってしまった以上、なかったことにはできない。そんなことを考えているうちに、舞が弥生に触れる姿までが想像されてくる。離れなさい、舞!

 アヴリルは目を見開いて大きく手を振り、脳裏に浮かんだ不吉な映像を追いやる。

 同じ頃、舞の部屋でも皐によるレクチャーが密かに行われていたことを、このときのアヴリルは想像もしていなかった。

「……ちょっと待ってくれ、姉さん。それは確かなのかい?」

「何が?」

「うーん。まずは、天野にその点を確認するべきだね」

 舞と皐の間で交わされていた会話。それがたった今、天野家でアヴリルとフェヴリエがしているものより幾分――いや、かなり真っ当な内容であったことなど、アヴリルにわかるわけがなかった。



©涼水藍那2024.

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