第4話 希望
俺の十歩ほど先に黒い髪を左右に靡かせながら彼女が歩いていた。
ずっと後を追ってきたのはいいが、苦労の連続だった。
駅前に来ていたことから想像できるように、彼女らは電車を使うようだった。
二人は自動改札機にスマホをかざして難なくゲートを通っていくが、俺はそうはいかない。
透明は機械にも適応されるのかが分からなかったからだ。
だから無理に自動改札機を通ることはせず、その端にある銀色の柵をまたいで二人の後を追った。太腿の内側に掠った柵は冷たくて実に気持ち悪かった。
電車内もそれは大変だった。帰宅ラッシュの時間帯で上り電車ではあったが車内はかなり混んでいて、人に当たらないようにするのにかなり骨が折れた。
もっとも混んでいた区間は、もはや座席の上にある荷物置きへ上がって、時折置かれる荷物を避けていた。
先に茶色髪の友人が降りるようで、手を振り合って分かれるところを、体に食い込む金網越しから見ていた。
だんだん乗客も減っていき、彼女が降りるときにはもう電車は空いていて座席にも空きがいくつかあるほどだった。
そして、駅を出て閑静な住宅街を、常に一定の距離を保ちつつ後を追って歩いていた。
駅で時計を見たとき針は七時半頃を指していたが、空はまだ明るく夏の日の長さを感じる。
十五分ほど歩いたところで、彼女はアパートの敷地に入って行った。
二階建てのアパートで、外観はお世辞にも綺麗とは言えない。
今まで恋人すらいたことはないが、もし自分の娘にこの家で一人暮らししたいと言われたら反対するレベルだ。
そんな心配をよそに階段を登っていく彼女を、俺は階段を一緒には登らずに立ち止まって、彼女が向かう先を目で追った。
彼女が入っていった部屋を覚え、バタンと扉が閉まる音を確認してから階段を登り、彼女が入っていった扉の前まで来ると、どうやら角部屋であるということが分かった。
名前の情報はなく、203と部屋番号が書かれているのみだ。どうにかして部屋に入ることはできないかと考えた俺は1つの案を思いつき、すぐに実行に移した。
まず、インターホンのボタンを押す。
ピンポーン。
「はい」
スピーカーからの声が廊下に響く。しかし、無視した。
「どちら様ですか」
数秒間、インターホンからは「サー」という微かなホワイトノイズだけが聞こていたが、カチャという音をたてて消えた。
するとガチャリという音と共に、扉がゆっくり開く。計画通りだ。
彼女が人の有無を確認するために、扉を開いたまま、二歩ほど前に出てきてくれれば入る隙が生まれるはずという思惑だった。
しかし、扉にはチェーンがかけられていて到底俺が通れる幅などない。
そして隙間から覗いて誰もいないと思ったのか、扉はすぐに閉められ、それは計画の失敗を意味していた。
さすがに彼女の行動頼りの部分が大きかった。次は確実性が欲しいところだ。
何かいい案はないかと一度アパートの周りをぐるりと回って建物の作りを調べてみた。
建物は一階と二階に三部屋ずつの計六部屋あるアパートで、玄関がある壁の反対側にはベランダがあり、彼女の部屋のベランダには物干し台が見えた。
それを見て、もしかしたら洗濯物を干すか、取り込むときに窓から入れるのではないかと思った俺は、彼女の部屋のベランダに行くため、一階のベランダの柵の上に立った。
通常ならばあまりに目立つ行動で直ぐにでも通報されかねないが、透明人間なので周りから見られてもどうということはない。
思い切り上に手を伸ばして二階の、つまり彼女の部屋の柵をつかんだ。そのまま振り子のように体を振って、片足を上げてつま先を柵の隙間に入れる。
そのまま足と腕の力でよじ登り、なんとか彼女の部屋のベランダに入ることができた。
万が一接触することがないように、隅っこでしゃがみこんで、彼女がこの窓を開けるときを待った。眠ることもなく、ただひたすらに待った。
その機会は思ったよりすぐ訪れた。
夜が明けて、太陽も真上にくるかという頃、突然ガラララと音を立てて窓が開けられた。出てきた彼女の手には洗濯籠が抱えられている。
思惑通り窓を開けっぱなしで洗濯物を干し始めたので、音を立てないよう文字通り部屋に転がり込んだ。
入って右の壁に沿ってベッドが置かれていて、左の方には台に置かれた小さめのテレビ、その間の空間にローテーブルが置かれていた。
雑貨などはほとんどなく、簡素な部屋だ。壁にかけてある時計を見ると十一時を指していた。とりあえず様子見のため、部屋の隅に移動した。
少しすると、洗濯物を終えた彼女が部屋に戻ってくる。
部屋の中に俺が入っているとも知らず、窓を閉じて鍵をかけ、ついに俺と彼女の二人の空間が完成した。
――さて、この女にどんな仕打ちをしてやろうか。
と考えていると、彼女はおもむろにノートパソコンをカバンから出して立ち上げ、キーボードをカタカタと打ち始めたと思えば、「うーん」と唸りだした。
気になって画面を覗いてみると、なにやら縦書きの文字列が並んでいた。
読んでみると小説だった。しばらく彼女の作業を見ていると彼女がしているのは、編集作業だとわかった。
――なんと惨めなことか。俺は一体なにをやっているんだ、俺は作品をなにも残せていないにも拘らず、この女はこうして本を世に出している。
しかし、そう思ったのも一瞬で、すぐに俺の頭からは迷惑をかけてやろうとか、痛い思いさせてやろうとかいう気持ちは消え失せていた。
むしろ、この女に希望を見出しさえした。
なぜなら彼女を見守り、助けることで、関節的に作品に関与できると思ったのだ。
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