第一章 知らない世界、知りたくなかった世界

002 すれ違いと出会い①

 今日なんて来なければいい。この日さえ来なければ私はつらい思いをしなくて済むのに……。


 なんてことの無い休日の朝。アリア・アルテュセールは目覚めて、いの一番にそう思った。


 柔らかい日の光に照らされる卓上のカレンダーは、1895年12月25日を指している。

 クリスマス、そして彼女の誕生日であった。


 きっと今回も母さんは帰ってこない。プレゼントもなければクリスマスカードも寄越さない。でも、今回もどこか期待している自分がいた。そんなに自分が馬鹿馬鹿しくて、呆れるほど愚かで、消えてしまいたい。


 優しいまどろみの世界を求めて、彼女は毛布を頭まで被り二度寝を決め込もうとした。厚いが軽く、柔らかいダウンの布団は、冷たい空気とまぶしい日の光を防ぎ、ぬくぬくと心地良い空間を作り上げる。

 しかし――


「――アリア、そろそろ起きないか? 生活リズムが狂うぞ!」


 音だけは防げなかった。

 下の階から響く、耳障りで低い声。父の声はアリアの神経を逆撫でた。


「チッ!」


 短く舌打ちをすると、アリアは布団を跳ね除けながら体を起こす。


 腰まで伸ばした燃えるような赤毛が揺れ、光に透けて白いシーツに紅い影を落とした。急激に冷える体と寝覚めの悪さから、「ハァ〜」と大きく白いため息を付き、ドアの方を睨みつける。

 紅い瞳を持つ目は、寝起きということもあって、いつにもまして細く鋭い。


 ドアの先から、コツコツと近づいてくる音にアリアは枕をむんずと掴み、迎撃態勢を整える。

 そうしてすぐにドアは開けられ、茶色の無精髭を生やした男がヒョッコリと顔を覗かせた。


「アリア、朝ごはん冷めちゃうぞ?」


 カチンと来た。


「いつも言ってるでしょ。勝手に――」


 アリアは枕をつかむ手に、より力を込める。


「乙女の寝室を――」


 そのまま高らかに振り上げて、


「覗くな――!」


 父の顔面めがけて投げつけた。

 豪速球となった枕に父の顔は引きつり、すんでのところで頭を引っ込めた。

 ボスンと重い音がして、ゆっくり剥がれるように枕が落ちていく。


「あっぶないなぁー。いきなり投げること無いだろ」

「入るならせめて、ノックしてからにしてよ!」

「家族なのに?」

「家族でも!」

「あー、乙女だから?」

「乙女だから!」

「そうは言うけどね、アリアちゃん? 乙女はそんな剛速球なんで投げないし、怒鳴らない。ほらもっと、お淑やかに、ね?」


 またドアが開いたので、すかさず近くのものを掴む。


「――次は目覚まし時計にしようか?」

「それは結構でございます! まぁ、そいつは置いといて。ご飯、冷めちゃうと美味くなくなっちゃうから、早めにな」


 父はそう言うと、一階のリビングへと降りていった。足音が遠くなって行き、部屋の中はシンと静まり返った。

 そんな静寂が、どこか痛いようにアリアは感じた。

 手の中では脈打つように、目覚まし時計は時を刻む。もう朝九時を回っていた。


 またやってしまった。アリアは自らの横暴さを悔いた。


 六年前、母が音信不通になって、徐々にアリアと父の関係はいびつに歪んでいった。今日と同じクリスマスの朝に、淀みきっていた父の表情は今も瞼の裏に映っている。

 次の日には、いつものあっけらかんとした様子になっていたが、なんとなく取り繕っているのが分かった。

 きっと自分自身も心配し、混乱しているが、アリアに悟られまいとしていたのだろう。


 だがアリアにとっては、それが苦しかった。気を使ってくれる優しさは嬉しかったが、だからこそ無理せず素直に接して欲しい。そう思った。

 自分も素直になれないのに。


 謝ろう。


 目覚まし時計をベッドの端に置き、腰を上げる。

 クローゼットを開き、寝巻きから私服へ着替えると、アリアはリビングへと降りていった。


 階段を下る最中、焼けたバターと肉の匂いが鼻をくすぐった。

 スクランブルエッグとソーセージに、セロリのステックと、キュウリとニンジンのピクルスが添えられている。主食には久しぶりの白いバゲット。スープはなく、カップには代わりにホットミルクが入れられていた。

 いつもと比べると少し豪勢だ。


「お、降りてきたな! 今日は昼も晩も期待してくれよ!」


 父はキュルキュルと鳴るラジオを弄りながら、にこやかな表情を浮かべていた。


「あ……、お父さん。その……」

「ん?」

「さっきは、ごめん……。理不尽に、その、あたっちゃって……」


 父はゆっくりと眉尻を下げた。小さく肩が上がり、ひとつ息を吐きながら肩をストンと下ろすと、優しく微笑みかけてきた。


「なぁに、いつものことだろ? お前らしくてよろしい」

「でも――」

「気にするなって。はい、この話はおしまい! ほら、座りな?」


「にしし」、と笑う父の姿に、アリアの詰まった息は抜けていった。

 微笑みながら「うん」と答え、促されるまま席につくと、ホットミルクを少し冷ましてから、一口啜ってみた。

 沁みる温かさと、仄かな甘みが心を和らげていく。身体が軽くなるような感覚に、アリアは心地よさを覚えた。


 しかし、暖まった心はすぐに冷めることとなる。

 ふと移した視線の先。いつも飾られていた、戸棚の上の写真立てが一つ、伏せられている。

 近づいて、アリアはそれを手に取った。


「……あ」


 七年前、アリアが九歳の頃に父が撮った写真。ケーキを前に母とアリアが笑っている、母との思い出が詰まった写真だった。


「――お父さん」


 ドスの利いたアリアの声は、父の「ラジオ、新しいの買わなきゃな」という独り言をかき消した。


「なんで、写真、伏せたの……?」


 アリアは父を尻目で睨んだ。


「いや、だって……」

「だって、なに?」


 詰められて、父はしどろもどろ言った。


「だって……、辛くないか? 母さんの写真、今日……見るの。きっと今回だって――」

「だからって否定しないでよ! 今年は帰ってくるかもしれないじゃない! たしかに、……たしかに辛いよ? ……苦しいよ? でも、だからってお母さんの帰る場所、私達が奪っちゃダメでしょ!?」

「でも――」


 パッとしない父の返答に痺れを切らした。


「『でも』? 『だって』? もう聞き飽きたよ!」


 吠えるだけ吠えてアリアはコートを羽織り、家を飛び出した。

 宛もなく住宅街を駆け抜ける。

 すれ違う家族連れに、笑いながら商店街へ向かう両親と子の姿に、息が詰まって視界が歪んだ。


 羨ましい。どうして私ばかりこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。周りは普通で、私に普通はない。学校でも母親がいないと笑われる。悔しくて、情けなくて、ただただ苦しい。

 そして何よりも、お母さんがいないことが私達の中で当たり前になってしまう。それがあまりにも恐ろしくてしょうがない。やっぱり帰ってきてほしい。あぁ、お母さんがいないことが普通になるのがきっと、私は怖いんだ。


 苦しい。

 寒い。


 コートを着込んでいるはずなのに、走っているはずなのに、身体が、胸の真ん中が、寒い。


 ――疲れたよ。


 もう走れない。吐き気がする。いつの間にか壁に手を伝い歩いていた。

 足が止まる。

 壁にもたれ、その場で腰を落とすと、抱えた膝に顔を埋めた。もはや人目を気にする余裕なんて、アリアにはなかった。

 街行く人がアリアを見て、何かをヒソヒソと呟いて、そそくさと通り過ぎて行く。


 ――消えてしまいたい。だからといって動く気力もない。もう、やだなぁ……。


 心で呟いた。

 その時だった。


「――あの、大丈夫です? もしかして、どこか怪我とか……」


 聞き慣れない少年の声がした。

 ふと顔を上げると、アリアと同い年ぐらいの少年が、そこには立っていた。

 中腰で顔を覗き込むようにしていたため、目が合った。


 深いが透き通った蒼い瞳は、今のアリアと対照的に、どこまでも真っすぐで、力強さを感じさせる。

 目元に掛かるか掛からないかの青髪の下は、中性的で整った顔立ちで、心配してはいるが、どこか穏やかな表情は、アリアに心の余裕を与えた。


「……ありがとう、大丈夫。ちょっとムカつくことがあっただけだから」


 立ち上がって、アリアは目を拭った。視界がより鮮明に、くっきりと映る。

 そうして、ふと思った。


「あれ、君は?」


 完全な見ず知らずの人物。

 家の居心地の悪さに趣味が散歩となったアリアは、この街のことを知り尽くしているはずだった。しかし、彼のことを全く見たことも聞いたこともない。だからこそ、こんな言葉が漏れ出した。

 はにかむ少年は言った。


「僕はトロワ。トロワ・レイヴン。この街には自分探しの旅で来ました」

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