後編

    ◇◆◇



 鞄の中に詰められるだけ荷物を詰めた。両親から譲り受けたレシピと、簡単な調理器具は外せない。どこかの町でカフェを営業するのには資金が足りないけれど、それでもこれは大切なものだ。

 店の家具はもうすでに売り払っている。残っているのは両親の手作りの看板と、廃業のプレートぐらいだろう。


「お父さんお母さん、ごめんね。店を守ってあげられなくて」


 看板も持っていけたらよかったのだけれど、移動の邪魔になってしまう。


「じゃあ、ルン。行こうか」

「ワンッ」


 ルンの返事に自然と笑みが浮かんでくる。


 三年前に両親が亡くなった後、墓の前でエミリーが泣いていると、どこからか現れた黒い犬が目の前で倒れた。犬の背中には傷があって、流れた血が地面に跡をつけていた。

 それなのに黒い犬はエミリーの姿を見ると、いたわるように頬を流れる涙を舌で舐めはじめたのだ。

 エミリーは慌てて彼の傷の手当てをして、食事を与えた。

 傷はほどなくして治った。それからエミリーはルンと一緒にこの店で暮らしてきた。

 

 ルンはとても人懐っこく、首輪は着けていないものの、もしかしたらどこかの飼い犬で捨てられたのかもしれない。

 そう思って迷子の犬の捜索届を探したが、ルンほど大きくて黒い犬の届けはなかった。

 だからいまではすっかり、ルンは家族になっている。


 ルンはとても不思議な犬だ。

 彼が一緒にいるのなら、別の町に行ってもエミリーは静かに暮らせるかもしれない。


 そういえば、ルンは基本的に人懐っこくって、常連客が頭を撫でたりするのに拒否することもなかった。

 だけどなぜかヨーゼフだけには歯を剥き出しにして唸っていた気がする。ヨーゼフもルンのことを嫌っていたから、彼が来店するとルンを店の裏に繋ぎに行かなくってはいけなかった。


(賢い犬だからあそこまでヨーゼフにだけ凶暴になるのがわからなかったけれど……)


 もしかしたらエミリーを守るためだったのかもしれない。




「エミリー。今日こそ僕のプロポーズを受けてもらうぞ」

 

 店の外に出ると、また性懲りもなく赤い薔薇の花束を抱えたヨーゼフが待っていた。


(ほんと懲りない男。嫌いって言われた相手にまたプロポーズをするなんて。やっぱりこの男は人の心がわからないんだわ)


 怒りを通り越して呆れてしまう。

 エミリーはもうすぐこの町から出ていく。だからここはもう一度きっぱり断ろう。

 そう心に決めて一歩踏み出すよりも、犬の吠え声が響く方が早かった。


「う、うわあ。なんだこの犬はッ!」

「る、ルン!?」


 ルンは一目散にヨーゼフに突進していくと、その足に嚙みついた。

 バランスを崩して倒れたヨーゼフの上に乗り、その顔に向かって大きな吠え声を浴びせている。


(ああ、嚙んじゃった! 貴族に傷を負わせたらどうなるんだろう。それよりも、ルンが危ない!)


 貴族子息がひとりで出歩いているとも思えない。

 だからきっとどこかに護衛がいるはずだ。

 たった一人の家族であるルンが殺されでもしたら、エミリーはもう生きていけない。


「ルン! ダメ! 戻ってきて!」

『……なぜだ、エミリー』

「……え?」


 どこからかくぐもったような人の声が聞こえたような……。

 周囲を見渡すが、騒ぎに気づいて家から出てきた町の人たちの姿しか見えない。


 もしかして、と黒い犬に視線を向けると、赤いルビーのような瞳と視線が合った。


『オレはこの男が嫌いだ。エミリーのことを散々傷つけたくせに、エミリーにプロポーズなんてしやがった。首を噛みちぎればすぐ死ぬただの人間の分際で、オレの大切なエミリーを侮辱したんだぞ』

「る、ルン?」

『ああ、この姿だからいけないのか。まだマナが足りないが仕方がない』


 黒い犬の全身が黒い靄に包まれたかと思うと、その中から長身の一人の男が姿を現した。

 長い黒髪をひとつに縛った赤い瞳の男だ。ヨーゼフを踏みつけたまま、彼は少し不貞腐れたようにエミリーの様子を伺っている。


「る、ルン?」

「ああ、あなたのルンだ」

「ひ、人だったの?」

「正確に言うと、オレは獣人だ」

「獣人!?」


 確かに他所の国には、人間とは別の種族も暮らしていると聞いたことはあるけれど。


「三年前、襲撃を受けて傷を負ったオレをあなたが助けてくれた。だが人の姿になるにはマナが足りなくてな。ずっと獣の姿のままだったんだ」

「そ、そうだったんだ」

「ああ。だがエミリー。あなたのおかげで、やっと元の姿を取り戻すことができた」


 赤い瞳が優し気に細められる。その瞳は大きな黒い犬と一緒だった。


(ほんとうに、ルンなんだ……)


 両親が亡くなってからいつも傍にいてくれた黒い犬。

 前から賢い犬だとは思っていた。まさか獣人だったなんて驚いたけれど、彼は紛れもなく家族のルンだ。


「それで、エミリー。この男はどうしたらいいんだ? 首でも噛みちぎってやろうか?」

「駄目よ、ルン。戻っていらっしゃい」


 ついいつもの調子でルンを叱ってしまった。

 ルンは叱られたときにいつもするように、少し悲しそうなウルウルとした瞳で見上げてきたが、彼を人殺しにするわけにはいかない。


「もう充分よ。クレーマー野郎の上からどいて」

「……わかった」


 踏みつけていたヨーゼフの上から足を退けると、すっかり怯えたヨーゼフが立ち上がろうとする。だがその足は震えていて、おぼつかない自分の足に躓いて無様にも転んだ。美しい金髪はボサボサで、ぴっちり着ていた服のボタンはいくつか取れていて、ところどころ汚れているしとてもダサい。


「な、なんだよおまえら。お父様に、言いつけてやるからな! 覚悟しろ!」


 足が使えないのなら這ってでも去って行こうとしているのだろうか。

 虫のようにバタつく様子を見ていると、すこし溜飲が下がるような気がした。


 去って行く背中を眺めていると、入れ替わりのように警備兵と思われる人たちが走ってくる。誰かが通報したのかもしれない。

 早くこの町から出たいのに、捕まるなんてたまったものじゃない。


「エミリー」


 ルンが手を差し出してくる。


「逃げるぞ」

「……っ、うん!」


 その手を掴む。荷物の入った鞄はいつの間にかルンの手にあった。

 ふと後ろ髪を引かれるように振り返る。

 父と母の手作りの看板。エミリーのなによりも大切だったカフェの象徴。

 唇を噛みしめるのと、ルンが手を引くのはほぼ同時だった。


「看板は、落ち着いたらまたあとで取りにくればいい。いまは逃げるのが優先だ」


 ルンの言葉に押されるように、エミリーは走り出す。

 さすが犬だけあってルンの足は速かった。途中でエミリーを抱えるとさらに加速して、警備兵との距離はどんどん開いていき、町の外に広がる森に入ったらもうすっかり警備兵の姿は見えなくなった。


 森の中心までくると町明かりは見えなくなり、やっとルンは走るのをやめた。


「……すまない。隣の町までたどり着きたかったが、マナ不足のようだ」


 地面にエミリーを下ろしたルンがそう言うと、彼の体は黒い靄のようなものに包まれて、いつもの大きな黒い犬の姿に戻ってしまった。


『エミリー。いままですまなかった。本当はもっと早くに自分の正体を明かすつもりだったのだが……気持ち悪がられたり、嫌われるかと思って口にできなかったんだ。あなたを騙すような形になって、本当にすまなかった。……その、もしかしてオレのことを、嫌いになっただろうか?』


 しゅんとして項垂れるような姿に、胸がキュンとする。

 大きな犬だから破壊力は抜群だ。


「嫌いになんてならないわ! あなたは私のたった一人の家族なんだから。何があったとしても、嫌いになんてならない」


 良いことがあった時は一緒に喜んでくれて、辛いことがあった時はいつも寄り添ってくれた。

 そんな彼の正体が獣人だったとして、それがなんだというのだろうか。

 ルンはルンだ。

 エミリーのたった一人の大切な家族なんだから。


『そ、そうか。それならよかった』

「ねえ、ルン。抱き着いてもいい?」

『お、オレは構わないが……いざそう言われると、悩むところだな』


 なんか俯きながらブツブツ言っているけれど、構うことなくエミリーはその黒い毛に顔を埋める。こうしている時が一番落ち着く。


『……エミリー。これからどうするんだ?』

「うーん。とりあえず町からは出られたけど……貴族に喧嘩を売ってしまったからね。指名手配されるかもしれないし」

『あの男ならやりかねんな』

「だから、どうせなら別の国にでも……」

『それならおすすめの国がある。本当は、オレもその国に行こうとしていたんだ』

「おすすめの国?」

『ああ。三年前――生国から抜けたオレはその国に向かう途中に、生国の刺客から襲撃に遭ったんだ』


 襲撃に遭ったルンは、命からがらこの国に入り込み、あの町に逃げてきたらしい。

 そして墓の前で泣いているエミリーに会った。


『本当はあの時の傷、けっこう深かったんだぞ。だけどエミリーのおかげで、命拾いした』

「そんな大げさにいうことじゃないわよ。私はただ、目の前の命を助けただけ」

『――もしかして、気づいていないのか?』

「なにを?」

『なにって、あなたの能力だ。店の客も言っていただろう。不服だがあのクレーマー野郎も言っていた。あなたの淹れたコーヒーを飲んだり、料理を食べたりすると、元気が出るって』

「え?」

『わかっていないという顔をしているな。もしかして、いままで無自覚だったのか? オレは三年前、確かに死にかけていた。だけどエミリーが傷の手当てをしてくれて、何かを飲ませてくれただろう。その瞬間、体を温かいものに包まれる感覚があったんだ』


 三年前のあの日。怪我をした黒い犬を助けた時、エミリーは持ち歩いていたお手製の果実水をルンに飲ませた。スプーンで少しずつだったけれど。


『あなたの作る料理には、回復効果がある。オレは、それに命を救われたんだ。あなたはオレの命の恩人だ』


 赤いつぶらな瞳と視線が交わる。


『だからオレはこれからもエミリーの傍にいる。家族でもペットでも、なんだろうがずっと傍にいる。エミリーも、オレの傍にいてくれないか?』


 これはもしかして本当のプロポーズ!?

 一瞬そう思ったエミリーだったが、首を振って考えを吹き飛ばす。

 ルンはたった一人の家族だ。それはこれからも変わらないことなのだから。


「もちろん。ルンも、私の傍にずっといてね」


 黒い犬が、嬉しそうにクゥンと鳴く。


「それでさっき言っていたおすすめの国ってどこのこと?」

『ああ、ここから一カ月ぐらい歩いたところに、多種族国家があるらしい。そこの国では種族間の衝突も、身分などもないそうで、とても暮らしやすい国だと聞いた』

「……身分などがない。いいわね、それ」


 身分が無ければ、悪質クレーマーが現れたら我慢することなく、拳をお見舞いできるかもしれない。

 それはとても興味がそそられるお話だ。


「その国に行きましょう」

『ああ。ちなみにオレの足なら、一カ月もしない内に着く』

「ふふ。あなたに抱えられて走った時、とても気持ちよかったの。楽しみね」

『あ、それと。オレの本当の名前は、リカルドだ』

「リカルド。良い名前ね。これからはそう呼んだ方がいい?」

『いや、いままで通りで良い。オレはあなたのルンなのだから』


 昨日から怒涛の展開で疲れているのかもしれない。

 ルンの毛並みが気持ちいいからか、大きな欠伸と共に眠気が襲ってくる。

 微睡みの中、ルンの優しい声が聞こえてきた。


『おやすみ、エミリー』

「うん。おやすみなさい、ルン」


 明日はもっといい日になる気がした。

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美貌の伯爵子息に求婚されましたが、そもそもクレーマーは願い下げですから 槙村まき @maki-shimotuki

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