歪な二人

禊藍

第1話 「出会い」

白野はその夜、いつものように家を飛び出し、深夜の街を彷徨っていた。特に行き先があるわけでもなく、薄暗い街灯が作る影の中を漂うように歩いている。その小さな背中は、夜風に震えているのか、それとも泣いているのか――どちらともとれる儚さを纏っていた。

「こんな夜中に、一人で歩いてるなんて危ないよ、お嬢ちゃん。」


不意に背後から聞こえた低い声に、白野の心臓が強く跳ねた。振り返ると、そこには薄汚れたコートを羽織った中年の男が立っていた。ニヤリと浮かべた笑みは、どこか飢えた獣を思わせる不気味さを宿している。

「ぼ、僕は男です……」


か細い声でそう告げるが、男は聞く耳を持たないようだった。むしろその言葉に、興味を深めたように近づいてくる。

「男でも女でも関係ないよ。君、可愛い顔してるねぇ。」


舌なめずりするような声色とともに、男の手が白野の腕に伸びる。咄嗟に逃げようとする白野だったが、掴まれた腕を振り解くことはできなかった。

「い、いやっ……!」


必死に抵抗するも、力の差は明白だった。白野はあっという間に地面に押さえつけられ、背中に冷たいコンクリートの感触が広がる。

「可愛いなぁ…お人形さんみたいだ。」


男の汗ばんだ手が、ぞっとするほどゆっくりと白野の頬を撫でる。その行為に嫌悪と恐怖が募り、白野の瞳には涙が浮かんだ。

「いいねぇ……その顔。もっと虐めたくなるよ。」
男の呼吸が荒くなる。耳元で響くふぅふぅという息遣いが、白野の心にじわじわと絶望を染み込ませていく。

男が白野のスカートに手をかけようとしたその瞬間、不意に冷たい声が闇を裂いた。

「何しているんだい?」

その声は穏やかでありながら、底知れぬ冷酷さを孕んでいた。耳に届いた瞬間、全身が凍りつくような威圧感があった。

白野は恐る恐る目を開け、視線を巡らせる。そこに現れたのは、全身を黒に包んだ男だった。月光すら拒むように闇に溶け込んだその姿は、まるで青白い顔だけが浮かび上がっているように見える。

「な、なんだお前は!」


男が怒鳴る声は、どこか震えていた。しかし、その問いかけには一切応じず、黒ずくめの男は静かに白野へと視線を落とす。

「君、大丈夫?」

その言葉には妙に穏やかな響きがあったが、黒い瞳に宿る光は底なしの暗さを抱えている。白野はその瞳に吸い込まれるような感覚を覚え、恐怖と安堵の狭間で立ち尽くすしかなかった。

「邪魔をするな!」


そう叫んだ中年男が振り上げた拳は、音もなく空を切った。次の瞬間、鋭い光が夜の闇を裂く。

「ッ――!」

気づけば、男は地面に崩れ落ちていた。ナイフの刃先から滴る血が、地面に静かな音を立てる。漂う鉄の匂いが夜風に混じり、白野はその場に硬直するしかなかった。

黒ずくめの男は、崩れ落ちた男に目もくれず白野に近づいてきた。

「怖かったね。でももう大丈夫だよ。」

その言葉は穏やかに、そして優しく響いた。だが、白野は恐怖と混乱の中でただ一つの思考が頭を支配していた。『逃げなくちゃ______』

次の瞬間、白野はその場から全力で逃げ出した。夜風が頬を叩き、心臓が痛いほど脈打つ。全速力で走り、気がつけば小さな寂れた公園にたどり着いていた。錆びたブランコが軋む音だけが響き、周囲には人気がない。

「はぁ…はぁ…」

白野は荒い息をつきながら、ベンチに腰を下ろした。両手で顔を覆い、震えを隠そうとするが、それでも思い出されるのはさっきの光景。自分を襲おうとした男が、血を流して崩れ落ちた瞬間が瞼に焼き付いている。吐きそうになる気持ちを抑えながら白野は冷静に考えた。

「あの人は…誰だったんだろう…」

呟きながら、頭には次々と考えが巡る。警察に行くべきなのか?でも、あの男の名前も何も知らない。そもそも、自分が襲われかけたなんて話を信じてもらえるのか。何をどう説明すればいいのか、何もわからない。

___いや、それよりも。

「あの人…また僕を見つけたら…」

その考えに至った瞬間、全身が強張った。耳鳴りのように胸の奥がざわつき、不安が押し寄せる。

「怖い顔してるね。」

不意に背後から声が響き、白野は跳ねるように振り返った。そこには、黒ずくめの男____先ほどの男が立っていた。

「君…大丈夫だった?」

夜の闇に溶け込むような存在感の中で、その声だけはどこか優しく響く。しかし、白野は恐怖に目を見開き、後ずさった。

「…こ、殺さないで…!」

絞り出した声は震え、涙がこぼれ落ちた。黒い瞳がじっとこちらを見つめてくる。白野は必死に言葉を続けた。

「だ、誰にも言わないから…な、何でも言うこと聞くから…!だから、僕を殺さないで…!」

その言葉に、黒ずくめの男はわずかに眉をひそめたように見えた。そして、ゆっくりと首を傾ける。

「殺さないよ。」

静かにそう言うと、黒い男は一歩近づいた。白野は反射的に身を引いたが、その動きにも男は無理に迫ろうとはしない。

「ただ、君が心配だっただけなんだ。」

その言葉は白野にとって信じがたいものだった。襲ってきた男を躊躇なく殺した相手が、今目の前で心配そうにしている____。

「あぁでも、何でも言うこと聞く、か…。なるほど、悪い条件じゃないね。」

男が口元を歪ませて笑う。その笑みはどこか楽しそうでありながら、冷たい影が差しているようだった。

「じゃあ、僕の恋人になってくれないかな。」

白野は目を見開き、ただその言葉をに呆然と立ち尽くすしかなかった。目の前の存在の言葉を飲み込もうとするが、頭の中は真っ白だった。

「恋人…?」

その言葉を反芻するように口に出すと、男は満足そうに頷き、微笑む。

「そう。君に、恋人になって欲しいんだ。」

その言葉にこそ狂気じみたものを感じるべきだったのかもしれない。しかし、恐怖と混乱に飲み込まれていた白野は、ただこの場を収めることしか考えられなかった。

「…っわ、わかった。わかった、から…」

弱々しい声で、白野はその提案を了承した。それを聞いた男の顔には、一瞬だけ驚いたような表情が浮かんだ。しかしすぐに、それはどこか子供のように喜びに満ちた笑みに変わった。

「嬉しいなぁ。君みたいな可愛い子が僕の恋人になってくれるなんて。」

白野はその笑みに背筋が凍るのを感じながら、静かに目を伏せた。その沈黙を破るように、男はぽんと手を叩いた。

「あぁ、そうだ。そういえば、まだ自己紹介をしてなかったね。」

男は微かに笑いながら言葉を続けた。

「僕の名前は黒井。よろしくね。君の名前は?」

「…僕は……白野。白野二葉です。」

男____黒井に促され、震えながらも白野は自分の名前を名乗る。その声を聞いて、黒井は満足げに頷いた。

「白野二葉、か。いい名前だね。」

白野くんか、とどこか楽しそうにその名を繰り返す黒井の姿に、白野は底知れない恐怖を感じた。

「それじゃあ、これからよろしくね。白野くん。」

そう言って黒井は手を差し出したが、白野はその手を取ることができずただ、その場で固まるしかなかった。

それでも、そんな白野に構わず黒井は微笑み続ける。

「大丈夫。君のことは傷つけないし、必ず守るよ。だから安心して。」

その言葉には、優しさと狂気が入り混じっていた。

こうして、逃げ場を失った白野と、歪んだ優しさを持つ黒井の奇妙な関係が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歪な二人 禊藍 @keiLan_000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ