マリアンナと黒野白也
黒野翠は、今日も政務に勤しんでいた。翠の父、白也の祖父にあたる黒野葵の代から続く政治家の一族であり、地元密着で頑張ってきた。翠の評判はすこぶるよく、葵の実績を追い抜く勢いでマニフェストを実現していた。真面目だが明るく、融通も効く上にスキャンダルもない、地元においては、まさに正大党の顔、ともいえる存在だった。
とはいえ、何にも手を染めなかったわけではない。葵は底辺から成り上がった人物で、そのためには手段を選ばなかった節があった。今では闇に葬られているが、何十年も前の事実を知っている人物がいた。それが、マリアンナだった。
――今では思い出したくない。黒野葵からの指示とはいえ、人間の命を奪う感覚。人を刺して跳ね返った血は、活きているソレと比べると不味く、飲めたものではない。そして、殺した人物が遺した家族、恋人、友達。誰かは知らないが、その人物たちが悲しむ姿は容易に想像できる。何度でも言う、嫌だと。この罪悪感は、いつまで背負えばいいのかと。なぜか、そんなことをふと思い返していた。
「……マリアンナさん」
「……え」
「どうしたんですか、ぼーっとして」
マリアンナの部屋。気がついたら、そばに黒野白也がいた。自分が悪いとはいえ、なぜか急に恥ずかしくなってしまった。
「……いや、何もねえ」
「……ほんとですか?」
「うるせえよ」
目の前の気弱なただの小娘のせいではないのだが、どうもそのどこか精悍な目つきには、葵の面影を感じてしまう。たまに頭の中の、引き出しの奥の奥にしまった嫌な記憶を引き出させてしまう。だから、黒野家の人間が近くにいると落ち着かないんだ。そんな複雑な思いを抱えつつも、翠から預かった弱っちい命を預かっている。黒野家の命令には逆らえない。だからなのかもしれないが、最近は黒野に対して冷たい態度を取るようになっていた。まあ、元々はあまり歓迎していなかったけど。
「あの、マリアンナさん」
「……なんだ」
「あの、私、マリアンナさんのファンで、ほんとによかったと思ってます。じゃなかったら、今頃、何を支えにしていればいいのかわからなくなっていたと思います」
「そうか、ありがと」
歌手として活動を始めたのは、そんな嫌な思い出をかき消すためだった。償い、とかそんな高尚なものじゃない。そんなことで償いをしたつもりになれるくらい、馬鹿じゃない。ただ、目の前の馬鹿一人でも救うことが出来ているのだとしたら、少しは人間様の役に立てているのかもしれないと思いこむことができる。そういう意味では、ありがたかった。
さて、今は夜だ。黒野はもうおねむの時間だろう。私にとっては、これからが仕事始めだ。黒野家からの支援があるから、今は何をしなくても衣食住は保証されている。だから、仕事なんかする必要はないのだけれど。仕事をしていないと、なんとも言いようのない焦りが襲ってくる。それを抱えたまま生きるのも嫌だった。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
黒野が寝るのを待ってから、外に出る。今日は黒野翠に顔を出す日だった。葵の代からの約束で、私はこの黒野家に付き従うことになっている。そんな約束なんて、いつでも破ることは簡単にできる。けれど、そんなことは私にはできない。私には、忘れることができない記憶がそれを邪魔しているんだ。
黒野家の玄関。成り上がりの男だった葵とは違い、翠はよく言えば礼儀正しく、お坊ちゃまな気質がある。葵のような豪快さはなくて、人間としてはつまらないところもあるが、私にとってはそれくらいがちょうどよかったりもする。
「嵯峨野さん、今日もありがとう」
「本名で呼ぶな。わざとか?」
「ごめんごめん、たまにはこうやってちょっと遊ばないと。気が張ってる感じがあるし」
「……誰のせいだよ。わざわざ娘を預かってくれ、なんていうどっかの気の抜けたパパさんのせいだろ」
「それはごめん」
「……はいはい」
この気が張っているのかどうかわからない腑抜けたところが気に入らないが、それが彼の周囲にとって都合がいいのだろう。いい意味で、持ち上げやすいし、利用しやすい。
「今日はちょっとした情報を持ってきたんだけど」
「細野のことか?」
「うん。もしかして誰かから聞いたりした?」
「蔀屋、からな。あいつはあいつで気まぐれなところがあるし、よくわからんけど」
ここから本題に入る。
「わかった。それなら話が早い。実は、細野が僕のところに来たんだよ」
「……」
「それで、『嵯峨野マリを引き渡せ』って言ってきた。どうも、向こうもマリアンナさんのことが邪魔みたいで。人間と関係がある吸血鬼は殺せ、って話がまたあがっているらしいんだ」
「それで?」
「断った。そっちがこっちを裏切らないように、僕からもマリアンナさんを裏切るようなことはしない。それにわざわざ細野を寄越してくるんだ。それは嫌がらせ、と受け取ってるから。まともに相手するわけにはいかない。……あと、マリアンナさんに白也を預けたのも、それがあったからなんだ。僕じゃ吸血鬼には勝てない。マリアンナさんなら、細野から守ってくれるだけの力はあるから。信用しているんだ」
「わかった。それなら任せてくれ。あいつなんかに負けないから」
「ありがとう。その方が僕も安心できる」
「こっちもできるだけ細野のことは調べておくから、また何かあったら連絡するよ」
「……じゃあ」
「うん。それじゃ」
私は急いで部屋に戻った。それを聞いたら、できる限り白也のことを見守らないといけない。黒野家と私とを縛り付ける細野という存在が、また戻って来る。何か嫌な予感しかしなかった。
細野晴。私を人間から吸血鬼にさせるきっかけを作った張本人で、大切な人を奪った凶悪人で、黒野葵の人生を狂わせた大罪人でもある。私はあいつを、許さない。
黒野はベッドで静かに寝息を立てていた。それを聞くだけで、胸騒ぎが収まる。安心した。この時間から出来ることは――宣伝だった。再来週にはライブが控えている。バンドメンバーもそれぞれ仕事をこなしつつ、その日のために練習をしてくれている。私が何もしないわけにはいかない。だからこそ、パソコンに向かって画像、動画編集を頑張らないといけない。それが終わると、息抜きに冷蔵庫から出した血液を飲む。別に人間の飲むようなお茶やコーヒーも嫌いな訳じゃない。けれど、血液が一番落ち着く。空気が入って固まらないよう真空パックされたそれを破り、ストローを刺して一気に飲み干す。
「ぷはー」
何より、これが一番落ち着く。もう六〇年はこれを続けている。
その間に葵さんは老けたし、翠もクソガキからなんだかんだ周囲を引っ張っていく人間にまで成長した。実は白也のことも赤ちゃんの頃から知ってはいるのだが……なんだかんだでべっぴんさんになった、と思う。それに比べて私は、見た目は何も変わっていない。人間だった頃のように、年をとることはもうない。いつかは寿命を迎えて、楽に死ねるのだろうか。ふとそう思う時がある。
私の知っている吸血鬼は、みんな碌な死に方をしていない。だいたいは人間にハメられて殺されるか、吸血鬼どうしで殺し合いが起きたりする。永遠に生きる、と言う割にはみんな早く死ぬ。不思議なことに、そういうものなんだ。実際に、私を育ててくれた嵯峨野マリさんもそうだった。私の本名は、嵯峨野さんのをそのまま名乗っているだけだ。それだけ、私にとっては大きな存在だった。
さて、話がそれた。閑話休題はここまでにしよう。外はもう夜明けが近い。そろそろ遮光しないと、大変なことになる。カーテンを閉めて、ドアの鍵を閉めて、ベッドに入る。そうして眠りについたら、きっと白也が起きるだろう。そして、学校に行くのだろう。私が通ったことのない学校というものは、少しだけ羨ましい。いつかは通ってみたいけど、それが実現するのはいつになるのだろうか。夜間学校というものがあるらしいが、今は仕事で忙しい。周りに迷惑をかけるわけにはいかないし、それに、やりたいことを自由にやらせてもらっている。これ以上のわがままは、言うわけにはいかない。そんな思いをぼんやりと抱えているうちに、眠くなった私は眠りについた。
私は黒野白也といいます。一人っ子です。家族は、父親だけです。お母さんは、私が生まれてすぐに亡くなった、と聞いています。写真の一枚でもあればいいのに……それすら見せてもらえません。いつも『写真なんてない』って言われますが、これは嘘だと思っています。だって、好きな人の写真を持っていないなんて、あり得ないです。
私は高校一年生です。学校では……最近仲良くしてくれる人ができました。蔀屋さんっていいます。とっても美人で、明るくて、何より、強いんです。力が強い、とかじゃなくて、何があっても耐えられる、そんな、心の強い、私の理想としている人です。今日も、そんな蔀屋さんと一緒に帰ります。
校門で待っていると、蔀屋さんが校舎からやって来ました。
「しーちゃん、今日もかわいいね」
「そんなことないです……」
「そんなことない? それこそ、そんなことないよ。もっと自信持ちなよ」
「はい……」
あんまりこういうことを言われると恥ずかしてくて、顔が赤くなってしまいます。こんな表情、とてもはずかしくて見られたくないです。そのせいで、顔をうつ伏せてしまいます。それそんなことは、もう全部美弥さんに見透かされています。でも、それを言ってくることはありませんでした。
「さて、帰ろっか」
「はい」
そうして駅までの道を一緒に帰ります。高校に入学してから少しの間は友達ができなかったのですが、最近になって、この蔀屋さんが仲良くしてくれています。それだけで、私はこの学校に入学できてよかったと思っています。これは……決して嘘じゃありません。ちょっと学校でのことを凌げば、すぐに楽しいことが来るので。今日は、いつも通りに帰るだけの、なんてことのない日でした。六月に入って、ちょっと汗ばんで、ちょっとじめっとしてきましたが、それでもまだ暑いとはいえないような季節でした。四月よりもちょっと長くなる夕日を眺めながら、ただまっすぐ、蔀屋さんと一緒に道を歩いていきます。ただ、いつもとなんか違う雰囲気を感じていました。そして、それは的中したんです。
「ねえ、しーちゃん」
「……なんでしょう」
「これ、そろそろ話さないといけないかなって思って。実はなんだけど」
「……?」
ちょっと口の重そうな蔀屋さんが、口を開きました。
「ねえ、あなたが一緒に住んでいるのって、人間じゃないよね」
「……え」
「安心して、隠さないくていいから。実は私も、吸血鬼なんだ。実は昨日、マリアンナさんに会ってきて。少し話をしたの。心配しなくていいよ。しーちゃんのことも、嵯峨野さんのことも知ってるから」
「あの、嵯峨野さんって……」
「マリアンナさんの本名。もしかして知らなかった?」
「はい、初めて聞きました」
「……そう、わかった。じゃ、私が知ってること、教えてあげようか。ほんとは嵯峨野さんのこと、あんまり教えるなって言われてるんだけど。でも、知りたいでしょ」
「……はい」
つい、知りたくなってしまいました。同居人のことを知らないなんて、よく考えればおかしいことです。それに、マリアンナさんのことは好きですが、ほんとうにどう関わればいいのかわからなくなってしまうこともありました。たまに血を吸われるのですが、マリアンナさんが吸血鬼だっていうことも、いまだに信じきれない私がいます。それなら、教えてもらうほうがいいに決まっています。隠し事をされるのは、私だって……嫌なんです。
「じゃ、今日の夜に、私の家に来れる? 時間と場所は連絡するから」
「わかりました、ありがとうございます」
そうして歩いていると、もう駅までついてしまいました。蔀屋さんなら、きっと真実を教えてくれる。そんな期待を、私は抱いていました。
「それじゃ、夜にね。……あっ、嵯峨野さんには内緒ね。あの人にバレると、ややこしいから」
「わかりました。夜にまた会いましょう」
私と蔀屋さんは反対の方向です。ホームで電車を待っていると、先に私が待っているホームに電車が来ました。電車に乗り、ガラス越しに手を振って、蔀屋さんと別れました。
夜。私は嵯峨野……いや、マリアンナさんに「コンビニにいってきます」といって部屋を出ました。マリアンナはさんは何か仕事に気を取られていたみたいで、「おう」と軽い返事が返ってきました。これなら蔀屋さんとの予定がバレずにいけるかもしれない。そう感じていました。
そして、電車に乗って、蔀屋さんの家へと向かいます。時間は夜の八時。こんな時間に一人ででかけるのも、友達の家に遊びに行くのも、実は初めてのことでした。なんだか小学生の時の遠足を思い出してしまい、ちょっとしたドキドキを抑えられずにいました。電車を降りて改札を出ると、歩いて五分くらいの場所にそこがありました。
ピンポーン。ドアホンを鳴らすと「入ってきて」と蔀屋さんの声が返ってきました。玄関を開けて「おじゃまします」というと、蔀屋さんが出迎えてくれました。
「よーく来たね。うれしい」
蔀屋さんにギュッとハグをされて、うれしくてうれしくて……つい、声も出せませんでした。でも、それだけじゃなかったんです。
急に首にチクっとした痛みが走りました。これは、もう私には何も見なくてもわかります。血を吸われているんです。マリアンナさんにされているときと同じように、力が抜けて、なんかちょっと気持ちよくなって、頭が溶けるような、そんな感覚に襲われてしまいます。
「……あ、あの」
「……ごめん、我慢できなくなっちゃった。ついおいしそうだったし」
「……はい」
解放され、少し荒くなった息をととのえて……少しすると落ち着きました。それから、二階にある蔀屋さんの部屋に行きました。
「ここなら、落ち着いて話ができると思うから」
「……そうですね、私もそう思います」
蔀屋さんはベッドにこしかけて、私に「おいで」と言ってきます。机も椅子もなかったので、私はその横に座りました。
「それじゃ、さっそくだけど、嵯峨野さんのことについて話すね。えーっと……何から話そうか?」
私は、心の中で密かに抱えていたことを、今初めて他人に話しました。
「吸血鬼っていうのは、本当にいるんですか? それと、マリアンナさんはどうして吸血鬼になったんですか?」
「それね。わかった。吸血鬼っていうのは、本当にいるの。私だってそう。さっきは悪いことしちゃったって思ってるけど、私たちは人間の血液でしか栄養を得られない。それに、不老不死だって言われているけど、それは多分本当。私はマリアンナさんと出会って五〇年は経っているけれど、二人ともずっと見た目は変わらない。吸血鬼になったときから、変わってないの」
「はい……」
「それと、こっから本当に内緒ね。どうして嵯峨野さんが吸血鬼になったのか。これは本当に知られたくないらしいんだけど、いつまでもしーちゃんに隠しておくのも悪いと思うから、私から教えちゃうね。……嵯峨野さんは、人間だった。私だってそう。別の吸血鬼から血を分けてもらうことで、吸血鬼になることができる。けど、嵯峨野さんはなりたくてなったんじゃない。なるしかなかったの」
「……え」
「うん。嵯峨野さんには両親がいなかった。産まれた時に親に捨てられたらしくて。物心ついた時には、人間じゃなく吸血鬼に拾われたらしいの。吸血鬼なんて化け物だから、周りに見つからないようにひっそりと生活していた。人気のないところにこっそり捨てられていたんだから、人間より先に吸血鬼に拾われるなんて当然かもしれない。そして、人間のまま嵯峨野さんは育てられた。吸血鬼は何を食べても栄養にならないんだけど、育ての親もできるだけ気を使ったんでしょうね。どこかからもらったり盗んだりして、ご飯をなんとか用意していたみたい。嵯峨野さんは学校に通うこともできなかったけど、それでも友達はできて幸せだったらしいわ。けど、それはいつまでも続かなかった」
「……はい」
ここで、蔀屋さんの口が一旦止まります。そして深呼吸をして、もう一度話を始めました。
「ある日、嵯峨野さんが別の吸血鬼に襲われたの。本当は人間と吸血鬼が仲良くすることなんてできないっていう考えが私達の間では広まっていたの。当然、人間も吸血鬼のことなんて理解してくれない。だから、嵯峨野さんは誰にも助けを求められなかった。……そうやって死にかけた嵯峨野さんを救う方法は、吸血鬼になることしかなかった。嵯峨野さんの意志なんか関係ない。とにかく助けるためにはそれしかなかった。とりあえずこれが、嵯峨野さんが吸血鬼になった理由。まあ、詳しい話はいくらでもできるけど、とりあえずざっと話すとこんな感じ」
「……」
「……まあ、嵯峨野さんも色々と苦労はしてるのよ。歌手としてそんなことは見せられる立場じゃないし、こんな話をしたところで誰も信じてくれないから。でも、そんなことしーちゃんには関係ない。だから、しーちゃんはしーちゃんで、嵯峨野さんに振り回されないで」
「ありがとうございます」
「何か、他に聞きたいことはある?」
「いえ、今日はこれで。……ありがとうございました、また教えてください」
「うん、いいよ。他にもいっぱい教えたいことはあるから。明日もあるし、しーちゃんとお話したいから。なにか困ったらいつでも聞いていいよ」
「わかりました」
「じゃ、駅まで送るよ」
「ありがとうございます」
私と蔀屋さんは、一緒に玄関を出ました。でもそこに、意外な人が立っていました。それは、マリアンナさんだったんです。私に対して、怒っているような感じでした。
「よう。一人でのおつかいは楽しかったか? さっさと帰るぞ」
「いや、私が連れてきたんです。しーちゃんは悪くないから、怒らないでください」
そんな私を、蔀屋さんが庇ってくれました。
「本当にか? まあ、いいわ。とりあえずうちの飼い犬が逃げなくてよかった。……おい、一緒に帰るぞ」
私は黙って帰るマリアンナさんの背中を慌てて追いました。蔀屋さんに挨拶は出来ませんでしたが、また明日会えるから、その時に話をすればいい。そのときはそう思っていました。でも次の日から、蔀屋さんが学校に来なくなりました。
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