夢?の生活

「よっ、ストーカーさん……じゃなくて、黒野白也だったな」

「……何ですか」

 ある日、学校から帰ると、部屋にマリアンナがいた。この日は雨が降っており、陽が出ることはなかったのだが……今はまだ夕方で、夕日が沈む時間でもなかった。スマホを取り出して時計を見ても、まだ午後五時頃だった。それなのに、目の前には吸血鬼のマリアンナがいる。しかも、自分の部屋に。

 黒野の部屋は、マリアンナのポスターやチェキなどが壁一面に貼り付けられており、CDはもちろん、DVDや楽器なども置かれていた。こういうものは、一人で秘密にしておくから楽しいものだ。なぜここにマリアンナがいる、という疑問よりも、本人に見られて恥ずかしいという思いが先にこみ上げてくる。

 勝手に顔が赤くなっている黒野をよそに、マリアンナは彼女のベッドに寝転がった。

「お前、こんなに私のことが好きだったんだな。ありがとう」

「……どういたしまして」

「なあ、こんなに好きになってくれるんだったら、私の言うことはなんでも聞いてくれそうだよな」

「……」

 マリアンナのからかいに、黒野はうんともすんとも言えなかった。

 それを見てマリアンナはなんだかおかしくなり、つい笑いが出てしまった。一方の黒野は、バカにされたと思って顔を合わせようとしなかった。

「まあ、そう悪く思わないでよ。なんだかんだで私のファンがいるって思えるだけで、元気をもらえるんだからさ」

「……そうですか」

「なんだ、反応が小さいよ。つまんねえな、君。……そんなことより、今日は君に用があって来た」

「なんですか、早くしてください。私の血が欲しいのなら、さっさと吸ってください」

「それは後でもらうよ。それより、私のわがままに付き合ってもらっていいかな」

「……はい」

「ありがとう。よし、じゃあ、日が暮れたら私の部屋に行くか」

「わかりました」

 少し待って暗くなってから、二人はマリアンナの部屋に移動した。

 

 黒野にとって、二回目に訪れる部屋。まだ慣れないはずなのに、なぜか何もかもが懐かしく感じる。ほんの少しだけ血の匂いのする部屋の空気も、少しだけ暗い照明も、机も、椅子も、クッションも。人見知りのはずだが、とても居心地がよくて、安心できた。

 二人はテーブルを囲うと、早速マリアンナが話を切り出した。

「今日は付き合ってくれてありがとう。早速だけど、本題に入るよ。ちょっとだけ急いでいるんだ」

「はい、なんですか」

「まあ、君ならなんでも受け入れてくれると思って、この話をするんだ。びっくりするかもしれないけれど、聞いてほしい」

 マリアンナは少し何か、後ろめたそうな顔をしていた。黙ってから、少し悩んだような顔をして、もう一度口を開いた。

「申し訳ないが、私と一緒に住んでもらうよ」

「……え?」

「私のことを知っている人は、できるだけ手元で飼っておきたいんだよ。それに、君は私の餌でもあるんだ。……どうせ翠さんともうまいこといってないんだろ? それくらいのことは知っているし、ちょうどいいんじゃないか?」

「……」

「黙ってるってことは、それでいいってことなんだな? じゃ、決定だな。荷物はゆっくり持ってきてくれればいいぞ。この話は、私から翠さんにしておくから」

「わかりました」

 そして、マリアンナと黒野白也の奇妙な生活が始まった。

 正直なところ、黒野は翠のことが好きではなかった。常に仕事に忙しく、学校生活のことなどを話しても興味がなさそうにしていたし、何かあって心配してくれる風に接してはくるが、結局それも仕事の話が入ると、すぐに現場に向かってしまう。母親がいない上に一人っ子だった黒野にとって、唯一頼れる肉親だったはずなのだが、あまりのすれ違いの多さに辟易していた部分はあった。

 早速、マリアンナの部屋から学校に通うようになった。いつもの薄い苦痛は続いていたが、帰れば憧れの人がいる。そのささやかな楽しみが増えた分だけ、生きていくのが楽になった。用意された一室には着替えやパソコン、そしてマリアンナのグッズを持ち込み、いわゆるオタク部屋となっていた。

「身近なところにファンがいるって、私も嬉しいよ。そのことに関しては、君に感謝してる」

 マリアンナは一切嫌がらず、むしろ歓迎してくれた。

「マリアンナさんにそう言っていただけると、私も元気になります」

「それならよかった。……じゃ、私は出かけてくる」

「いってらっしゃいませ」

 いつも暗くなるのを待ってから、マリアンナは外に出かける。今日はボイトレらしく、夜明け前まで帰ってこないとのことだった。

 マリアンナを見送った後、ひとり残された黒野は、マリアンナのアルバムを聴きながら勉強していた。成績は決して悪い訳ではなく、今の成績を維持できれば十分だった。だからといって、気を抜くわけにはいかない。マリアンナというバネがある限り、今まで以上に頑張れる気がしていた。そして、寝る時間になれば、ぐっすり眠る。そんな生活が続いていた。

 困ったことがあるといえば、マリアンナとは生活リズムが大きく異なっていることだった。吸血鬼として生きている彼女に、朝起きるという概念が存在しない。遮光カーテンで遮られた部屋で寝ているうえ、少しでも太陽光を浴びる可能性があるといけないということで、部屋にはいつも鍵がかけられていた。そして、黒野が学校から帰ってきた頃に、マリアンナが目を覚ましてくる、といった感じだった。

「おはよう」

「おはようございます……。はい」

 黒野の日課といえば、起きてきたマリアンナに血液を差し出すことだった。セーラー服を脱ぎ、ブラウスを少し開けて、首を差し出す。そこにマリアンナが噛みつく。

「いただきます」

「……!」

 噛まれる瞬間に、チクッと痛みが走る。それは脳に届くと、変な脱力感とふわふわした感覚が全身に駆け巡り、いてもたってもいられなくなる。今は慣れたが、最初の二、三回はマリアンナの胸に倒れ込んでいた。

「ごちそうさま」

 吸血が終わると、また部屋に戻る。これがマリアンナのルーティーンだった。たまに機嫌がいい時は、黒野を部屋に入れてくれるのだった。

「なあ、翠さんには会ってるか?」

「いえ、まだ会ってません……。あの人は怖いです」

「それはどうしてなんだ?」

「……あの、どう話していいのかわからなくて。私のこと、興味持ってくれてるんだろうかって思うことがあって。それで、どう関わっていったらいいのかわからなくなって」

「……なるほどな」

 珍しく黒野がよく喋っていた。父親の翠とは、未だにうまく関われないでいた。

「もうこのまま、マリアンナさんと一緒に暮らすほうがいいかなって思えてきたんです。そのほうが楽なんです」

「そうか、わかった。……なら、しばらくはこのままでいいか。いつかは翠さんと打ち解けられるようにならないとな」

「……嫌です。このままがいいです」

 わがままを言いだした黒野を、マリアンナは黙って見過ごせなかった。

「今日はもう寝ろ。話にならねえ」

「……え」

「二度も言わせるな。今日はもう終いだ」

「……」

 黒野は部屋をつまみ出された。それから自分の部屋に戻った。そして、その日は黙って寝床についた。マリアンナはそれをこっそりと伺ってから、夜の街に繰り出した。今日はある人物に用事がある。それは黒野翠だった。道を飛び越え、民家を飛び越え、川を飛び越えて急ぎ足で黒野の実家に向かった。到着すると、黒野翠が玄関で待っていた。

「翠さん、どうも」

「どうも。白也は元気にしてる?」

「ええ、元気にしてます。……娘のことなのに、そこまで心配じゃないんですね」

「いや、心配だよ。でも、あの子は僕と一緒にいるより、嵯峨野さんと一緒にいるほうがいいんじゃないかなと思って」

 嵯峨野、というのはマリアンナの本名だった。それを聞くと、彼女の表情が少し濁ったように感じられた。

「本名は出さないでほしいですね。……それなら、部屋に入れてくださいよ。あんまり知られたくないんで」

「それはダメだ。君は黒野家の汚れ仕事をやってたんだ。家に入れる訳にはいかない」

「あーはいはい、わかりましたよ。所詮私は、黒野家に従うだけの存在ですよ。でも、そんな私に大事な一人娘を預けるなんて、翠さんもどうかしてますよ」

「それでいいんだ。……あの子は、君のもとにいたほうがいい。そのほうが幸せになれる」

「……はいはい、報告は終わったんで帰りますよ。次からは電話じゃダメですか? 面倒くさいし」

「ありがとう。でも報告するときは、できれば顔を出してほしい。昔からの習慣を変えようとしても、難しいんだよ。こっちも」

 マリアンナはそそくさと帰っていった。この程度なら電話でいいのにと呆れつつも、もと来た道をたどっていく。道中で過去のことを、ふと思い出しながら。

 マリアンナ――本名、嵯峨野マリ――は、長い時間を黒野家との関わりに費やしてきた。黒野白也の祖父に当たる、黒野葵と出会ったのがきっかけだった。それからは紆余曲折あった。結果として、マリアンナが吸血鬼だという事実を世間から都合よく隠してもらう代わりに、黒野家を影から支える、という仕事を任されていた。時には、対立候補の弱点を掴んだり、文字通り消したりというようなことを行っていた。そのため、本来は表に出るべき存在ではなかった。しかし、最近ではそのことを知っている人もかなり減ってきたので、昔よりはオープンに活動できるようになってきた。それでも、黒野家の監視が外れることはない。だからこそ、黒野翠が娘を自分に預けることは、彼女にとっても驚きだった。命令された以上は従うしかない。黒野白也との奇妙な生活は続くのだった。

 急いで部屋に戻り、パソコンに向かって仕事をしていた。来月のライブに向けて、動画を作成していた。その作業は朝まで続いた。

 

 翌日の夕方。黒野が学校から帰ると、黒野がいなかった。吸血鬼は太陽が苦手なはず。この前もあったのだが、まだ夕日が出ている時間にどうやって外出しているのかわからなかったが、とにかく誰もいなかったのだ。テーブルには「今日は帰れないかもしれないから、適当に何か作って食べて」と書き置きが残されていた。

 最近、一人でいると寂しいと感じることが増えた。父親がいなくても平気だったのに、マリアンナがいないとなると、心に穴が開いたような、何かで埋め尽くされていたものが萎んだような感覚に陥ってしまう。簡単な料理なら自分で作ることができる。冷蔵庫から冷ご飯と卵を出して、ざっくりとチャーハンを作って食べた。そして今日は、何もせずにただぼーっとマリアンナの曲を聴いて一晩を過ごした。いつの間にか夜が更けていた。今日も何もなく一日が終わるのか、とベッドに潜りながら考えていた時だった。

 ドアの鍵が、がちゃんと鳴り、マリアンナが玄関に入ってきた。その音を聞いた黒野が慌ててマリアンナを迎えると、いつもとかけ離れた姿だった。左肩には見たこともない傷があり、そこから血がドバドバと流れていた。それを抑えようともせず、平気な顔をしていた。

「マリアンナさん!」

「……なんだ、クソガキ」

「いや、その傷……」

「自分で治せる。ガキは寝とけ」

「でも……!」

「あ? 殺すぞボケ」

 マリアンナが今までに見たこともない顔で黒野を睨みつけた。黒野はそれ以上、何も言えなかった。

 あの傷はかすり傷でも無ければ、切り傷でもない。刺し傷だったらもっと裂けていてもおかしくないと思う。となると、あの真ん丸に近い形でぽっかりと空いた穴は……多分。

 銃創かもしれない。ただ、確証はなかった。自分で治せるとはいっても、不安で仕方なかった。その日は眠ることができなかった。

 なんとか眠い目を擦って学校に行くが、授業中のほとんどを眠ってしまった。ここまで居眠りが多いと先生に怒られ、陰で回っていた悪口も今回ばかりは面と言われ、笑われてしまった。ある意味でいつものことなのでそれもなんとか耐えたが、この日はいつも以上に、心の器がストレスで満たされた。そして、放課後。同級生に例の美術室まで連れ込まれた。

「お前、生きてるだけで迷惑かけてんのに。今日はとことんキモかったな」

「いや……ごめんなさい」

「黙れ」

 いつものように殴られる。この日はいつもより力が込められていたのか、いつもは我慢していた声が、口から漏れた。

「痛い!」

「痛くね―だろ、こんなもん。いつも通りだよ」

「……!」

 何発か腹にパンチを受けると、その場にうずくまってしばらく立ち上がれなかった。胃から何か苦いような、酸っぱいようなものが喉までこみ上げてくる。口に溢れ出てきそうなそれを、なんとか飲み込んで抑えるのに必死だった。

 しばらく立ち上がれないでいると、丸まった背中を蹴り込まれる。腹にもらうよりは耐えられるものだったが、それでも痛いものは痛い。それよりもピンチだったのは、必死に我慢してきた胃酸を、吐き出してしまったことだった。喉が焼けるような感覚、歯がギシギシとなる感覚、苦くて酸っぱくなった口の中。そして、酸い匂いの液体が、黒野の口からこぼれ、床にぶちまけられた。

「汚え」

 さすがにこれには耐えられなかった。その場から逃げたくなった。でも、逃げても追いつかれる。味方なんていない。そんなことわかっているから。そう思っていた。そして飽きられると。みんな帰っていく。一人残される。

「掃除しなくちゃ……」

 こんなの、誰にも言えるわけがない。雑巾を探してきて固く絞り、床を拭く。そして、片付けを終えたときだった。誰かが教室のドアを開き、入ってきた。

「こんなとこにいたのね、黒野さん」

「……あ」

 それは、先日転校してきた、クラスメートの蔀屋美弥だった。彼女はこの学校において、普通に接してくれる数少ない人物だった。

「何してんの。帰るよ」

「……うん」

 その言葉を聞いて、黒野はさっさと帰る準備をした。少し汚れた制服をぱっぱっと払い、一緒に下校した。少し前までは帰り道が全く違う方向だったこともあり、こんなことはなかったのだが、黒野がマリアンナと一緒に暮らすようになってからは、同じ駅から学校に通っていることが判明した。そして、今日は初めて一緒に帰る約束をしたのだった。

「ねえ、しーちゃん」

「……?」

「しーちゃんと一緒に帰るの、なんか新鮮だね」

「……そうだね」

 ずっと一人だと思っていたこの生活に、マリアンナと蔀屋という友達ができたことで、少しずつ元気になっていけそうな気がしていた。蔀屋とは最近、特に仲良くなった。これもマリアンナと一緒に生活を始めてからのことだった。〜何か小さな変化が起きることで、大きく自分を変えられるきっかけを掴めるかもしれない。それだけ、蔀屋という存在が大きく感じられていた。

 ただ、こんな経験は初めてだったのもあり、うまく話を切り出すことができなかった。そうして歩いているうちに、駅に到着した。

「また今度一緒に帰ろ、今日は楽しかった」

「……ほんとに?」

「うん、ほんと。実は、私もそんなに友達いないし、話もうまくないし。だから、一緒に帰ってくれるだけで楽しかった。ありがとう」

「……こっちこそ、楽しかった。また来週」

「うん、来週!」

 電車は別のホームだった。それぞれ帰宅ラッシュの満員電車に乗り込んだ。

 その日の夜。今日はマリアンナも部屋にいた。前日の傷はてん……既に治っていた。時々行われる吸血以外は、至って普通の人間とすら思えるほど、人間らしく、美しい彼女だったが、血なまぐさい傷跡、それが1日で治ってしまう回復力。それを見せられると、やはり人間とは別の何かである、ということを感じさせられる。それもあったが、蔀屋と別れてから急に淋しくなっていた。黒野は、つい彼女に甘えたくなった。

「……あの、マリアンナさん」

「? なんだ」

「……えっと、マリアンナさんのこと、もうちょっと知りたいなって、思ってて」

「だからなんだ?」

「マリアンナさんがいつから吸血鬼になったのかとか、そんなこと、聞いてみたいんです」

 マリアンナは少し思案した。

「わかった、と言いたいところだけど。この話は翠さんに禁止されてるんだ。だから、私も話せない」

「……わかりました。でも、どうしてお父様が関わってくるのか、理解できません。一体、マリアンナさんとお父様は、どういう関係なんですか」

「……それも聞かないでくれ」

「……もういいです。意味不明です」

 黒野は自分の部屋に戻った。そんなつもりはないのだろうが、あの父親の名前を出されると、何も言えなくなる。市議会議員というものはとても多忙らしく、人には言えないこともたくさんあるはず。それはなんとなく察していたのだが、それがマリアンナまで巻き込むようなことがあったと聞くと、自分だけ仲間はずれにされたような感覚になってしまう。また、そんな気持ちを訴えられない自分自身に腹立たしくもあった。

 ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。自然と出る涙のせいで、泣き叫ぶ声を抑えることができなかった。ドアを閉めるのも忘れていたせいで、その声はマリアンナにも届いていた。


 日曜日。この日は何もやることがなかった。ストレスまみれの週末を過ごしたこともあり、勉強もしないことに決めて、朝からベッドの上でだらだらと過ごしていた。掛け布団の心地よさが、眠気を引きずってくる。一応、毎朝ドアの向こうにいるマリアンナに声をかけるのだが、今日はそうする気も起きなかった。

 いつも聴いているマリアンナの曲を聴く気にもなれない。ただ、無駄にエネルギーが湧いてくる。どうすればいいのかわからない。自分に対するあの苛立ちが、黒野に「動け」と誘ってくるような感じがしていた。

 どうしよう。このまま眠っていても変わらない。でも、どうすればいいのかわからない。今日は寝るって決めたんだ。決めたのに……どうにかして動かないと気がすまない。

 ふと気になって、スマホを手にとってみる。明日会えるとわかっていても、もう一度蔀屋に会いたい。この気持ちをただ、聞くだけ聞いてほしい。だから、思い切って連絡してみよう。眠気と動きたい衝動とが戦った結果、衝動が勝利した。そうと決まれば、早速メッセージを送ってみる。


”みやさん、今日会えたりしませんか?”


 すると、こんな返事がきた。


”今日? いいよしーちゃん。会おっ!”


 この返信に、つい気持ちが舞い上がった。布団の羽毛よりも跳ね上がったテンションを抑えるのに必死だったが、待ち合わせの連絡をして、支度して、気持ちを落ち着かせて、部屋を飛び出した。


 待ち合わせ場所の喫茶店に到着した。出会うなり、早速二人で抹茶フラペチーノを注文した。思い返せば、父親との外食の経験すらなかった。初めて、誰かと一緒にカフェをする。これだけでもう舞い上がっていた。つい嬉しくなった気持ちが、顔面ににじみ出てくる。

「しーちゃん、あえて嬉しいよ」

「うん、私も。まさか、友達ができるなんて思ってなかったもん」

「そんな。しーちゃんかわいいし頭もいいし、きっとモテるし、もっと前向きに頑張れば、学校でも人気者になれるよ」

「そ、そうかな……」

「うん、きっとだよ!」

「ありがとう……」

 その言葉に黒野は嬉しくなった。案外単純なもので、そういったことは表に出てしまう。それがいいところでもあり、悪いところでもあった。そういうところが、蔀屋にとっては黒野の面白いところだった。

「ねえ、しーちゃん」

「……なんですか」

「最近引っ越したって聞いたけど、お父さんとはやっぱりうまくいってないの? そもそも、一人暮らしなの?」

「うん。お父様とは……。あと、一人暮らしだよ」

「ふーん。そうなんだ」

 黒野はマリアンナの存在を隠していた。まず、吸血鬼だということをどう説明すればいいかわからないし、彼女の人となりを詳しく知っているわけでもない。話をしたところで、これ以上話題になるような気がなかった。話を聞いた蔀屋は、うんうんと頷いた。

「ふーん、しーちゃんも大変なんだね。何か手が足りなかったら、私が手伝うから。いつでも頼ってよ」

「……え、いいの?」

「うん、いいよ。だって、友達じゃん」

「……ありがとう」

「うん。いつでも頼ってね」

「うん、こっちだって……私なんかにもできることがあったら、いつでも話してね」

「ありがとう。嬉しいよ」

 その後、二人は買い物をして、夕飯を一緒に食べて、駅で別れた。帰りの電車の中で、太陽が沈んで暗くなった空を窓から眺める。

 帰ったら、マリアンナさんはもう起きているはず。今日は吸血の日だ。あの力が抜けて、ちょっと気持ちよくなる、嫌だけど嫌じゃない数分間が待っている。ただ、先日のこともあり、顔を合わせるのはちょっとだけ気まずい。そんなちょっとした思いを抱えて、マリアンナの部屋に帰っていった。


「おかえり」

「……ただいま、です」

 帰るなり、玄関でマリアンナが出迎えてくれた。

 腹が減ってるんだよ、と言わんばかりによだれを垂らしていた。その場で黒野の首筋に噛みついた。もう何回目なのだろう。毎回力が抜けてしまうし、脚に力が入らなくなる。本当にこれは慣れない。しんどいし辛いのだが、なぜか懐かしい気持ちにもなる。程よく心地よいという矛盾も抱えてしまい、抵抗もできない。

「ごちそうさま。今日は楽しかったか? 蔀屋っていう友達ができたらしいじゃん」

「……うるさいです。なんでもう知っているんですか。気持ち悪いです」

「家畜は管理しないとな。お前、それを飲み込んで一緒に生活することを選んだんだろ? 文句言うな」

「……わかりました」

「よろしい」

 そそくさと部屋に籠もる黒野を見送ると、マリアンナは暗い外の世界へと飛び出した。 

 今日はボイトレの日だった。いつも使っているスタジオへとまっすぐに向かう。こういったスタジオ等の施設は、全て黒野家の計らいによっていつでも使っていい、ということになっている。そして、講師も――特別に用意してくれている。

 そして、三〇分ほどかけて歩くと、小さな古いビルが一つ、現れる。その三階にある部屋の一つが、スタジオとなっていた。そのビルの目の前で、思わぬ人物がマリアンナを待ち構えていた。それは、蔀屋だった。

「嵯峨野さん、お久しぶりです。相変わらず、美人さんですね」

「なんだ、てめえ。それを言いに来ただけか?」

「いえ。今の私は、ただのあなたのファンですよ。ペットのしーちゃんと同じように」

「……あっそう」

「久しぶりなのに、そんな返事じゃ悲しくなりますよ。せっかくの再会が台無しじゃないですか」

 黒野がイライラした口調で、怒鳴り始める。

「あのさ、さっさと用を言ってくれない? 私の応援をしているんなら、こんなところで時間をとらせないでくれ」

「わかりました。でも、ゆっくりと話を聞いてほしいんです。せっかくしーちゃんとも仲良くやってるのに、その楽しみを私から奪わないでください」

「……どういうことだ?」

「まあ、ここでお話をするのもなんですから。スタジオにお邪魔してもいいですか?」

「わかった。稽古が終わってからでいいか?」

「もちろん」

 スタジオでは黒野が稽古に勤しんでいた。蔀屋はそれを見学していただけだったが、その歌声にひどく感動していた。

 音楽は人の心を動かす。たった数分の歌のために、何時間もつぎ込み、作品として完成させるための努力はすさまじいものだった。それに命をかけている。これは誇大なものではなかった。

 三時間ほどの稽古が終わり、講師には引き払ってもらった。部屋には黒野と蔀屋の二人っきりになった。

「さて、ようやくお話ができますね。この件は、早急に嵯峨野さんのお耳に入れるべきだと思ったんです」

「はいはい。碌な話じゃないんだろ、どうせ。もう慣れてるよ」

 蔀屋はここで一呼吸置いて、話し始めた。

「だったら、ありがたいです。……実は、細野ハルがまた動き出しているらしいんです。詳細はこれから調査するところなんですが、とりあえずお耳にいれておこうかと。どうやら、黒野家で最も弱い人間を狙っている、とか。私は、それがしーちゃんのことなんじゃないか、って思ってます。別にそれはどうでもいいんですけど、細野のバカにはどうしても説教がしたくて。だから、しーちゃんに近づいているんです」

「……わかった、ありがとう」

「じゃ、私はこれで。明日はまた学校がありますし」

「じゃあな」

 黒野は一人で帰路についた。実は、蔀屋も吸血鬼の一人だった。昔は仲が悪く、よく喧嘩もしていた。今は互いに距離をとっているのだが、彼女は人間として、生活を謳歌しているようだった。

 確かに吸血鬼は昼に行動することができない。太陽光を浴びると文字通り肌が焼けていき、一時間もすれば黒焦げになってしまう。しかし、マリアンナと蔀屋はある方法を使って、それを克服していた。だからこそ、蔀屋は女子高生として学校に通うことができるし、マリアンナも夕方に移動することが可能だった。ただ、マリアンナは蔀屋ほどその手段をうまく扱えないため、あまり昼に外出することはない。

 そして、細野の存在がどうしても気になる。細野とは、マリアンナと深い因縁のある吸血鬼であり、人間だった嵯峨野マリが、マリアンナという吸血鬼になるきっかけに関わっている。彼女が最も嫌いな人物であり、実際に殺し合いにまで発展したこともあった。今は大人しいと聞いていたが――その腹黒さはどうしても気に食わない。動き出した以上は、何か企んでいるに決まっている。

 部屋に戻ると、黒野はもう寝ていた。時間は深夜の三時。まだ寝るには早いのだが、今日はもう寝ることにした。細野の名前を聞くだけで気がそわそわしてしまう。それを抑えるためだった。

 

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