世界の外で会おうよ
小森悠大
憧れの歌手
黒野は、ある人物――といっても、人間といってよいのか――を追いかけていた。
今日は、あるバンドのライブ当日だった。今日これから出演するバンドのボーカルを目当てにしていた。−ライブが告知されたその日から二ヶ月ほど、黒野はいろんなことを努力してきた。学校のテストもいつも以上に頑張ったし、ダイエットだって目標を達成した。何より、その人物のスタイルに少しでも近づこうとしてきた。その成果が出た上でのライブ参戦。何よりも楽しみにしていることが、いよいよこれから始まるのだ。心の中で、叫びそうになるくらいのテンションを抑えるのに必死だった。
コーラを飲んでしばらく待っているとやがてバンドメンバーがステージに入り、軽いチューニングが始まった。それが終わり、いよいよ一曲目が始まった。
バンドのど真ん中で繊細ながらもパワフルな歌声を魅せる彼女こそが、マリアンナだった。このバンドはメジャーデビューこそしていないものの、根強い人気があり、黒野がその存在を知ってから約二年、そのバンドは黒野が自分を変えようとする決意を固めさせた存在であり、今まで生きてきた世界観を百八十度変えさせてしまったのだ。そして、その憧れが目の前にいる。手を伸ばして、ちょっと歩けば文字通り触れられる距離にいる。これ以上ないワクワクだった。
思春期の心をたった数分の時間でここまで突き動かす。音楽の力がいかに偉大なものか。このライブが図らずも黒野とマリアンナの運命を大きく変えていく。
黒野は帰路を歩いていた。まるで夢の中に入り込んだようなフワフワ感。夢の中でこけた時のような、あの急に落とされるような感覚も、ずっと空から街を眺めるような浮遊感も、たった数時間の間に、全て体験したような気分になった。一瞬のように過ぎていった数時間が終わり、ライブが終焉を迎えた時には、どうしようもない虚無感が黒野の心の中を満たしていた。そして、頭の中が空っぽになったような気分を抱えたまま歩いていくと、いつの間にか駅の改札口まで来ていた。
いつもなら一人でまっすぐ帰るのだが。実は、このライブに来ると決めてからあることを計画していた。
「さて、マリアンナさんに、会いにいきますか」
このライブが開催されると知ったその日から、マリアンナのことを調べ上げていた。彼女の素性や本名、生年月日など……。そして、ある時に知ったことが一つある。それは、マリアンナがごく限られた人にしか打ち明けていない、ある秘密。それを知ってから、黒野はよりマリアンナに心酔……というより、崇拝に近い感情を抱くようになった。
踵を返し、歩いてきた道を戻っていく。
その秘密を暴いてしまえば、マリアンナさんは私のものになるかもしれない。そういった独占欲が暴走していた。今までいじめられてきて、ずっと一人で過ごしてきた彼女にとって、それしか人との関わり方を知らなかった。それでも、黒野は求めてきた“友達”というものを得られるかもしれない。期待と欲望が黒野の足を回すエンジンになっていた。
黒野はライブ会場だったライブハウスまで戻った。ここでは、まだ設営の撤収が済んでいないはずだ。中に入れば、バンドメンバーがまだいるはずだ。閉まっているドアにそっと耳を立ててみる。防音になっている分厚いドアだったので、当然ながら中の様子が聞こえることはなかった。思い切ってドアノブに手をかけてみる。回してみると、ガチャっとノブが回った。恐る恐る引いてみると、なんとドアが開いた。今までこんなことをしたことがなかった黒野は、まるでホラーゲームの扉を現実に開くような感覚に陥った。そして、ゲームよりもドキドキした感覚を持ちながら、中に入っていった。
暗い建物の中を少し歩くと、急に明かりがついた。そして、カウンターに座っている人物を見つけた。長い黒髪にすらっとしたスタイル。そして透き通ったような透明感の肌。間違いなくマリアンナだった。
「よう。はじめまして」
「あ、はい……はじめまして」
「君が私のことを調べ上げていたことは、知っていたからさ。多分ここに戻ってくるだろうって思ったから、みんな帰ってもらったんだ」
「……」
「行動力の割には、大人しいんだな。まあ、座れよ」
黒野はマリアンナの隣に座った。それから、マリアンナが冷蔵庫から取り出したコーラを注いで黒野に出した。
「とりあえず、話を聞かせてもらおうか。どうして君は私のことを調べていたんだ?」
「……えっと、私、マリアンナさんの大ファンなんです。だから、気になって」
「それは本当か? 嘘だったら、ちょっと考えないといけないんだけど」
「本当です……」
中々顔を上げようとしない黒野の顎を掴み、その瞳をそっと覗き込んだ。そして、しばらくじっとしていた。しばらく黙っていた口を開いた。
「嘘はついていないみたいだな。すまなかった。これだけ生きていたら、眼を見ればだいたいのことはわかるようになっちゃってね」
「そうですか……」
「もう君は知っているんだろ? 私が吸血鬼だっていうこと」
「え……あ、はい」
「うん。そうだよね。いいよ別に。今までいろんな人に明かしてきたんだ。だから、バレたからって何もするつもりはないよ。ただ……」
「ただ?」
「申し訳ないけど、私の餌になってもらう。バレてしまった以上は、な」
「……」
「嫌だっていっても、力ずくで君のことを奪うことなんて簡単にできるんだぞ。いいじゃねえか。憧れのマリアンナさんに、文字通り、身を捧げることができる。これ以上悪い話はないじゃないか」
「……わかりました」
「それじゃ、話は終わりだな。私は帰る」
「えっ……」
そそくさとマリアンナがライブハウスから出ていった。慌てて黒野も出ようとして後を追いかけたが、間に合わなかった。閉められたドアには鍵がかけられており、何回ガチャガチャとドアノブを回しても、開くことがなかった。それを何回か繰り返していると、店に仕掛けられていた防犯システムが作動したらしく、警備員が到着していた。
「どうしてここにいるんだ」
「いや、えっと、その……」
「とりあえず、ここから出て行って」
黒野がどう見ても未成年だったこともあり、その後は警察に通報され、その日は警察のお世話になった。
それから数日のこと、黒野は学校に再び通うようになった。両親にはひどく怒られた上に、学校にも通報され、停学になるかもしれなかった。しかし、それはなんとか逃れられた。ただ、このことは学校中に広まってしまい、ただでさえ硬みの狭い黒野の学校生活は、さらに窮屈なものになってしまった。それでも、学校に通い続けた。いや、通うしかなかった。
今は使われていないある教室。昔は美術室として使われていたらしいのだが、今は置かれている石膏で出来た像や飾られなくなった絵画などが、ホコリを被っている。誰も使わない、そこだけ時が止まったような空間に黒野がいた。彼女の周りを、三人の同級生が囲っていた。そのうちの一人が、言葉もなく黒野の髪を掴んだ。
「てめえ、調子乗ってんじゃねえよ。お前ごときがライブに行った?」
「はい……」
「気に入らねえ」
同級生の一人が、黒野の髪を掴みあげ、引っ張った。痛いし怖いが、もういつものことになっている。これを耐えればいいだけ。そう自分に言い聞かせて耐えていた。
「何か喋れよ」
そう馬鹿にされても、ここを耐えればどうにでもなる。いつもそうやって過ごしていた。
「気持ち悪い。行こうぜ」
何も話さずにじっと耐えていると、そういってみんな離れていった。
これでいい。それでいい。そして学校での時間を過ごした後、すぐに帰宅した。
自分の部屋に閉じこもり、マリアンナのバンドの楽曲を再生し、密かに楽しむ。これだけが救いだった。そして、一人で静かに勉強をする。他人からはこれだけのことしかせず、つまらないと思うかもしれない。しかし、これが今の黒野にとって最高の生活だった。
そして、十一時を過ぎたら寝る。また明日は学校で耐える。嫌な思いはするが、それもあと二年の話だ。それをして学校を卒業したら、思う存分にマリアンナさんのことを追いかけよう――その思い一つで、黒野は生きていた。
そんな黒野だからこそ、彼女が先日の事件を起こすとは誰も思っていなかった。
両親にもひどく怒られたが、それからはまた大人しい、いつもの黒野白也に戻っていった。本人には自覚がなくても、周囲からすれば大事件だ。その自覚が彼女にあるのか、よくわからない態度だったことが、心配の種を蒔く原因になっていた。だから、いじめを受けるようになったのかもしれない。
ふと黒野が目を覚ました。ふと時計を見ると、まだ午前二時だった。ただ、妙に体が重い。まるで何かが体の上に乗っかっているような、そんな感じだ。その違和感の正体は、なんとマリアンナだった。
「よう、ストーカーさん」
「……え? マリアンナさん?」
「そうだ。……まあ、なんだ、君に話があって来た。悪いけど、付いてきてもらうよ。もし断ったら……二度と会えないようにしてもらうから」
黒野に拒否権はなかった。二人は部屋の窓からこっそりと抜け出し、マリアンナが住んでいるというアパートの一室に着いた。
ピアノやギターといった楽器、ぬいぐるみなどがいくつか置かれている普通の部屋といった感じだった。
「おじゃまします」
「ここは防音だから、いくら喋っても問題ないよ。だから。ゆっくり話しようか」
「……」
マリアンナが冷蔵庫から麦茶と赤い液体を出した。麦茶はコップに淹れられ、テーブルにぺたんと座る黒野に出された。赤い液体は恐らく血液なのだろう。マリアンナはそれを、コーラを飲むようにがぶがぶと飲み干した。
空になった容器をシンクに置くと、黒野と同じテーブルに向かい合って座った。
「さて、君はどうやって私のことを知ったのかな。教えてもらいたいんだけど」
「……その、なんというか……」
「なんというか?」
「あ、あの……お父さんに聞きました」
「正大党の、黒野翠だろ?」
「え……」
「知り合いなんだよ、実は。そこから話が漏れたんだろうなって予想はしてたよ。まあ、それが分かればいいんだ。君をどうこうしようってつもりはないんだ」
「……」
黒野翠。白也の父親だった。彼は正大党に所属する市議会議員であり、近いうちに行われる予定の選挙に備え、精力的活動をしていた。だからこそ、先日の事件は選挙に影響が出る恐れがあると、ひどく怒られたのだった。
「どこまで私のことを聞いているのか、教えてほしいんだ」
「えっと、マリアンナさんが選挙の応援に参加してくれるって聞いていました。そのときに、夜にしか出られないって話があって、吸血鬼みたいだって冗談みたいなことを聞いたんです。その時はみんな冗談だって笑ってたんですけど、それが引っかかってしまって。つい、探偵を使ったんです」
「それで、私のことをつけていた変なやつがいたんだな」
「そうです。私が使った探偵です」
「君のやることって、よくわからんな……。まあ、その探偵くんには何もしてないけど。変に話を漏らしたら殺すって伝えてあるから。それは誰のせいか、わかる?」
「いや……」
「君のせいだよ。君が私のことを調べさせたから、探偵くんは墓場まで持っていかなきゃいけない秘密を持たなくちゃいけなくなった。まあ、依頼してきた君には、私のことは話していいって伝えたけどね。その代わりに、君のことを教えてもらったんだ」
「……」
「都合が悪くなったら黙るのか。それはダメじゃない? とりあえず、人の知りたくないものを暴いちゃったんだ、君は。だから、君にもあの探偵くんと同じように、私に命を預けてもらうよ」
「と、いうと……」
「私のことを誰かに漏らしたら、殺す。いいね?」
「はい……」
「それともう一つ。この前も言ったけど、私の餌になってもらう。君が死ぬまで、血をもらい続ける。もし君が死んだら、君の血を全部抜き取る。もう一回言うけど、君に拒否権はない」
「……わかりました」
「本当だな? じゃ、早速だけど君の血をもらうよ」
マリアンナが黒野の首筋に噛みついた。しばらくしてそれが離れると、噛みつかれた跡から、うっすらと血が流れた。それをマリアンナがそっと指で拭い、ちゅぱちゅぱと舐めた。
それから、マリアンナが黒野の唇にそっとキスをした。
いきなりのことに黒野は驚いたが、いくら力を込めても離れることができない。まるで力が抜けるような感覚に陥ってしまったのだ。
そしてそれも終わると、疲労感がどっと黒野を襲ってきた。立ち上がろうとしても、それができない。見えない水に溺れるような感じ。どんなに足掻いても、遥か遠くにある水面には届かないような、そんな感覚に陥っていた。何か抵抗の言葉を出そうとしても、それが口から出てこない。代わりに荒い呼吸が、はあはあと出てくるばかりだった。
黒野はそっと抱きかかえられ、ベッドに寝かされた。
「今日はもう寝ろ。明日は休みだろ? 今日のことは、私がなんとかしておくから。安心しろ」
その言葉を聞くと、疲れ切った体にあった緊張の糸が切れ、途端に眠くなった。そして、ぐっすりと寝ることができた。
翌朝、黒野は自分の部屋で目覚めた。どうやら、寝ている間にマリアンナが運んでくれたらしい。夢かとも疑ったりはしたが、首筋に手をやると、ちいさなかさぶたが二つできていた。どうやら噛まれたことは本当らしい。そして、キスをされたことも――。
なぜかそのことが頭から離れないままで、学校に通っていた。挨拶をしても、誰も答えてくれない。クラスのみんなが無視をする。時間が来ると、また美術室に呼び出される。そして、同級生の女子生徒から殴られる。その毎日を、今日も繰り返す。帰宅すると部屋に引きこもり、またマリアンナに夢中になる。
「……」
そうしていると、つい昨日のことを思い出してしまう。夢にまで見たマリアンナからキスをされたのだ。嫌なことはない。むしろ、かなり嬉しかったはずだった。だったのに。
なぜか嬉しいと感じることが出来なかった。文字通り身を捧げることができたのに。餌になることで、あのマリアンナさんに貢献できたはずなのに。あまりにも現実にはないようなことが立て続けに起こったせいで、思い出そうとすればするほど、頭がふわふわして溶けるような感覚になってしまう。
その夜は眠ることができなかった。何故か体が火照っていた。そして、忘れれば忘れようとするほど、鮮明に思い出される昨日の記憶。それを収める術は、持っていなかった。
それから、一週間学校を休んだ。普段いじめられているストレスが、ついに溢れ出した。まるで心のコップが割れたように泣き出し、熱を出した。それが落ち着くのに、一週間ほどかかったのだ。普段仕事でほとんど家にいない父親の黒野翠も、このときばかりは心配して仕事を休み、白也のそばにつきっきりだった。
娘が学校でいじめを受けていることは翠も知っていたが、解決法を思い出せずにいた。話を聞こうにも、彼が育ってきた環境とは無縁の趣味にハマっている娘のことを理解することは、とてもではないが難しかった。白也はそんな父親のことがあまり好きではなかったが、他に甘えられる相手もいない。このときばかりは感謝していた。
そして、またいつも通りの学校生活に戻った。ストレスは溜まるが、段々とコップのサイズが大きくなっていくことを感じていた。耐えれば耐えるほど、どうでもよくなる。この前みたいにコップが割れたとしても、また修繕すればいい。それには時間がかかるが、また私ならなんとか戻すことができる。黒野白也が日常を取り戻すのに、そう時間はかからなかった。
しかし、そんな黒野の心の片隅に、どうしても片付けることができなかったものがあった。それがマリアンナの存在だった。
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