第5話
袖の下で鳥肌が立っていた。
おれは思わず、車を降りた。ただの空見だった気がしなかった。
雨は霧雨になっていた。
ミラーの脇に立ち、しばし雨に打たれる。
じわりと温まっていた身体に、雨が染みていく。
細かい水粒は、街路を白く煙らせていた。
裸の田畑に霞がかかり、霞の中に家々や木々の影が見え、さらにその霞の上に影が落ちているのである。
びゅうと風が吹いた。
霧が体に吹き付けられる。
何かの群れのように、霞がいっせいに蠢いて渦巻いて行進する。
息が白い。顎が痙攣していた。
運転席の窓におれが映っている。側らには、色の無い子供が立っていた。
細いあごに、吊り上がった黒々と濡れた眼。
血の気の少ない唇。
華奢な四肢をたらりと脱力させて、どこかで見たことがある服を着たそいつは、泣きはらしたように赤く潤んだ目尻をおれに向ける。
記憶よりも背が伸び、顔立ちが洗練され、よりいっそうと巽に似てきていた。
巽と血の繋がりなんて無いのに、不思議とそいつは、あれとよく似た面差しだった。
おれは、そいつの名前を知っている。
喉から押し出されるように、そいつの名前が口から出た。
「カツミ」
それを合図にしたように、カツミははっと目を見開いて、大きく口をあけた。
黒々とした瞳は一瞬で膜が張ったように濁りきり、柘榴の粒のような歯列の奥の蠢く粘膜の洞穴をおれに向け、白濁した舌を跳ねさせ、痩せた手をおれに向かって伸ばし――――――また強く風が吹いた。
渦巻く霧と共に、カツミもまた、蝋燭の火のように風に流れて空へと消えていく。
風が雨雲を攫ったのか、空があっというまに晴れた。
しかし青空の下では、まだ雨は降っている。
肩の肉を打つような、さっきよりも大粒の雨だ。
こんな天気雨を、『狐の嫁入り』という。聴くところによると、神隠しの予兆だそうだ。
――――――ねえ、柳さん。
記憶の中の幼い顔が、おれを見上げて言う。
――――――ぼくがもし、うつせおみを落としたら……
――――――クウは、死なんですむんですよね。
カツミは、その時まだ十三歳だった。
夏の日差しと蝉の声が燦々と降り注ぐ。木陰からはみ出た背中が暑かった。
――――――ぼくはね、柳さん。もし運よく生きていたとしても、くわれても、ええんです。ええんですよ。
あいつが成長して、高校生にでもなっていたのなら、こんなふうになっていただろう。
そう、あいつは死んでいる。この世にはいないはずなのだ。だからおかしい。
おれはその現場に居合わせたのだから。
おれがあの、奈落に繋がる滝壺に、落っこちるように仕向けたのだから。
――――――ぼくはちゃんと、巽ちゃんを助けてみせます……神さまなんて、きっともう、この世にや……おらんのですから。
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