第4話
ここ最近、冬も近いというのに、やけに雨が多い。
もう一月近くなるだろうか。
古い壁面のコンクリの罅が、こころなしか広くなった気さえする。
雨になると巽は元気だ。
花が咲いたような雑踏も傘の下で項垂れたように見えるのに、調子の良い巽は、ことによっておれの外出手前に起き出してきては外出をねだる。
今年は空梅雨で、ことさら堪えたようだったから、顔色がいいとほっとする。
しかし毎朝九時には外に出なければならないおれは、冷たい雨に生気を吸われてゲッソリだった。
つまるところ元気なのは、人魚くらいのもんなのだ。
おれは車に乗り込み、キーをまわした。遠慮なく暖房の温度を押し上げ、濡れた指先を擦り合わせて暖を取る。
あのころは良かったなあ、と思う。
あの山村にいたころは、まさしく天下であった。
もう、半世紀ほど前になるだろう。あっというまだ。
今のおれに出来るのは、小銭を稼ぎ、その合間に野良猫野良犬をあさるくらいだった。
巽には、生まれて一年以内の若い血しか与えないことにしている。獣を代用しているのだ。それくらいはしよう。
保健所や、それらを集める施設や、ネットで検索した子犬譲渡である。懐が温かければ、ペットショップやブローダーも巡った。
そしてどんなに遅くなっても帰りには、いわゆる自殺の名所というものにも行ってみる。
この小さなスマートフォンが、おれたちの命綱だった。
ここ十年ばかりはインターネットを覚え、だいぶ楽になったと同時、やりにくさも出てきた。
現代は検索で一発、地域のそれらが出てくるが、ネットでおれの情報を拡散されてしまうことが怖い。また、同じ施設で続けて調達することは出来なかった。
疑心暗鬼に陥った情報社会の弊害か、書類仕事がかっちりしてきたところが多くなったように思う。
身分不確かな者には、野良犬だろうと与えてはくれない。
捕まるわけにはいかないから、気をつかう。
一番良いのは、自殺者がたまたま男で、まだ息がある場合。
次に、街にいる野良を攫うことだ。
発情期の春先などはいいが、獲物が見つからず、見知らぬ街をあてなく歩き回ることもしばしばである。
エンジンを無駄にふかしながら、やっと溶けだした指先でハンドルを握る。
灰色に曇った街道に、たくさんの傘が咲いていた。今日は風もある。巽は窓を閉めていてくれるだろうか。
気が付けば、人魚に出会って一世紀以上にもなってしまったのだった。
最近では、目に見えて体力が落ちてきている。
黒さを保ってきたこの頭に白髪を見つけたのは去年の秋だ。巽は気付いているんだろうか。
逆に、人魚はどんどん若返る。
より一層と、美貌の曇りが晴れていく。
おれたちがあの山村を出たのも、雨の日だった。
歩く横で、黒い鉄砲水が噴いていて、互いの顔が泣いているのか笑っているのか分からないほど霧で曇った道。
おうおうと山の上で竜神が吠えていた。
おれたちは手と手を取り合い、一度も振り返らずに山を下りた。
まるで最初の、おれが故郷から逃げ出した、あの時のように。
今日は野良探しをしたあと、夜から早朝にかけての仕事があった。
とりあえず国道に出ようとハンドルを切る。
住宅街と田園の混在する中に、ひときわ鮮やかな緑のフェンスと、白い四角い建物が見える。
児童の手作りの交通安全の看板の脇をのろのろ通り過ぎた。
小学校は早くも門が閉じ、すでに授業が始まっているらしい。
ラジオをかけようと左肩を下げ、手を伸ばしかけた時だった。
視線が左上を向いたのだ。
巽はいつも、助手席ではなく後ろへ座る。
後部座席に向けられたバックミラーが、目の端に映った。くっきり白い顔をした誰かが、そこにいたように思ったのだ。
巽だと思った。
確かに見慣れた人魚の肌色に見えた。
これは間違いない。
あいつが隠れてついて来たんだと思い至り、そして、そんなわけがないと知ってもいた。
巽が、おれより先にこの車に乗り込めるはずがない。苦手なエレベーターを使ったとしても、あの鈍い箱じゃあ階段には勝てるわけがない。
おれは慌ててバックミラーを二度見した。
いない……。
車を止め、おれは後部座席を覗き込んだ。誰もいない。
いるわけがないのだ。座席は冷たく、乾いていた。
これは、あの時に似ている。
背負った桶の中から声を聞いた時の、あの冷たい手で肌を撫でられたような、総毛立つ感覚。
―――――――おまえ、約束を違えたな。
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