第3話
―――――――その小さな痩せ木のような体でか? どうせ力尽きてほっぽりだすに違いない。水気のないところで捨てられるくらいなら、ここで討たれたほうがまだ苦しむまい。
―――――――近場の沼にお連れいたします。山向こうならば、大きな湖もございます。
―――――――母にここに産み落とされてから三十余年、ここ以外を見たこともない。余所にはいまさら行けぬ。
―――――――三十? あなたさまの齢は、三十ほどなのですか?
―――――――人魚の齢は人とは逆の方に廻るのさ。齢百ともなれば、尾を裂いて陸を歩くことも出来ようが、わたしはまだ血の道の通ったばかりの小娘だ。
―――――――では人魚とは、齢と共に若返るのですか。
―――――――不老の妙薬とはよくぞ謂ったものよと、そういうことさ。
―――――――その身を生きたままで絞られるかもしれません。それでも、逃げる気はございませぬのか。
―――――――来るのはみな男か?
―――――――みな雄健な男ばかりでございます。
―――――――子供はおらぬか。
―――――――子供など、森には入らせやしません。
―――――――ならば良い。何の心配も無い。おまえには気の毒なことだけれど、本当にわたしに惚れたというのならば、黙っていることだね。さっさとお帰り。今日は見逃してあげる。
おれは森の木の上で一団を見送り、一晩を過ごしたのち、村に帰った。
村では、男たちが帰って来ぬと女どもが騒いでいる。
おれは村には顔を出さず、家に帰るや訝しむ母に飯を用意させ腹拵えだけをすませると、そっと道を引き返した。
清水がなみなみと湛えられていた沼は、村人たちで死屍累々と赤く染まり、地獄の有様であった。
血の池をゆうゆうと泳ぐ人魚は、鱗も剥がれ、柔肌は腫れ、髪もざんばらに絡まっていたけれど、楽しげに踊っているかのように見えて、おれはウットリその場に立ち尽くす。
―――――――また来たのか。今度はおまえが喰われにきたのか?
―――――――いいえ。どうしても心配になって。
―――――――今は気分が良い。おまえの警告で準備ができたから、こうして一網打尽にできた。これであの子の腹もくちくなろう。
―――――――あの子とは。
―――――――人魚とて、あぶくとへその緒で繋がっているわけではないのさ。
おれはそこで、気が付いた。沼が清水の様を取り戻しつつあることに。こんなに骸が散らばっているというのに、空気にさほどの生臭さがないことに。
―――――――おお、よしよし……。
―――――――よい子だね……おなかはいっぱいになった?
猫なで声で囁く人魚の手で、沼から拾い上げられたそれは、大きく立派な白い鯉に見えた。きらきらと雲母のように鱗が西日に反射して、長いひれが帯のように長く、水のつぶを滴らせて垂れた。しかし。
―――――――そ、それは、なんですか!
―――――――人魚の赤子サァ。
まるで小人の老人が、つるつるの毛の無い老猿が、腰の下から鯉を履いているような。青白く血管が脈打つ小さな人魚はひたすらに醜悪で、口を開けると歯の無い白い歯茎があり、舌ばかりがぬらぬら赤く、流木のように擦り切れた皺皺の爪の長い手が目前の懐をまさぐり、乳房に爪を立てて吸いつこうとするのである。
おぞましい生き物がそこにいた。
―――――――おまえ、本当にわたしに惚れてる?
娘を撫でながら、人魚はおれに言った。
―――――――山の向こうに湖があるというのは本当?
―――――――ほ、本当です。行ったことがあります。まるで海原のように広い湖がございます。
―――――――なるほど。それは良い。では、この子をそこに連れて行ってやくれやしないかい。
―――――――なんですって。
―――――――この子一人なら、おまえでもそう荷物にはなるまい。いましがた、たらふく喰わせたもの。水さえ絶えなければ、一月は喰わずとも死にはしない。
―――――――な、なぜ“それ”をわたしに……。
―――――――五百川の倅や。かわりに、おまえの旅路に守をつけてやろう。なあに。追手はおまえに辿り着かず、病の虫はおまえに憑かず、災厄の種もおまえに寄り付かない。そういう守だ。
人魚は側らの柳の木にすいすい泳いでいき、水に浸る葉を、いくつか手折った。
―――――――葉についた水をお舐め。わたしが産湯がわりに育った水を吸い、若木の頃から育った木だ。人魚の肉ほどとはいかずとも、健常な若者を健常なままにしとくには十分だろう。
おれはおそるおそる、その葉を受け取った。人魚の水かきのついた手は厚く細い爪があり、とても冷たかった。彼女の手はおれを掠めた瞬間、逃げるように水の中に浸される。
―――――――お飲み。
―――――――いや、しかし……。
―――――――飲まねばここで、おまえを喰うてやろう。
―――――――ええい!
おれはぺろりと、葉についた滴を一粒舐めとった。
―――――――これでいいか!
―――――――よぅし。よいよい。柳は旅の護の木よ。わたしはすでに罪人となった。清めきれぬほどの血膿で水を汚し、いずれ血の毒でわたしは病となる。母の教えに従い、わたしはここで死ぬ。しかし娘がいる以上、この子を生かすことが先立つことだったのだ。五百川の倅、おまえ、五十年も待てば、この猿はたいそうな美人に化けるぞ。人魚に愛される男は至福の時を過ごすという。おまえがあと五十年生きのびれば、最期の幸福は悠久ともなろうぞ。なにせ我らは、もともと天女なのだからな。
―――――――こ、ここでおれが逃げればどうなる。
―――――――その時はその時。人魚は呪い殺すも得意なのさァ。
静かな昼の沼地に、けらけらと人魚の笑い声が響く。
―――――――ああ、なんてことだ。とんだ荷物を引き受けてしまった。
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