第2話

 おれの鮮明かつ、きらめく錦の記憶は、兄が死んだ日から始まる。



 我が家はそこそこに裕福な家庭だったのだと記憶している。


 兄貴はよく出来たやつで、ごくつぶしでしかないおれが中学まで通わせてもらえたのも、まず兄貴が有能だったからだ。

 兄貴が一つ、これはどうだと薦めれば、両親のみならず村のみんなが頷いていたし、逆らえばまるで非国民だった。そして、その非国民がおれだった。



 小さな村だったが、うちの家には金があった。

 村一番の富豪の庄屋。いわは村長のようなものなのだから、小さな独裁国家として見るならば、都会の富豪よりも権力はあったろう。


 兄がなぜあの森に入っていったのか、おれには分からない。

 ……ああ、いや。『夢を見たのだ』と言っていたかな。

 なんにせよ、あの妖婦に誑かされたのだろう。


 ふらりと出て行ったまま、兄貴は帰らなかった。

 おれは兄を心配する両親に尻を叩かれて兄貴を探そうと森に入り、あの人魚の沼に辿り着いたのだ。



 そうして見つけた兄は、果たして肉になっていた。成り果てていた。




 初めて見る人魚は、おれの母より年を取っていて、けれども綺麗な婆アだった。


 しけたビデオの煽り文句のようだけれど、腐りかけの華とでも謂うのだろうか。


 黒目がちで、青白いほどに肌は白く、それでもやや魚顔なのは否めなかったけれども髪は黒々と豊かで、背中から肩にたっぷりと掛けられて、結い上げれば立派な髷が出来たろう。


 日焼け止めなんて無い時代、うちの母親は日に焼け、齢と共に毛が細くなっていった赤毛の女で、まるで似つかない。

 いやしかし、あれが母親だったのならば、おれは道を踏み外しかけないな。




 あれが、後に瑞己と呼ばれる人魚だった。


 側らには兄貴の肉。沼の淵に座す彼女の胸はべっとりと赤く腫れ上がり、下肢は鱗が剥がれて斑となっている。

 猫が傷を舐めるように、彼女はしきりに禿げた鱗のあたりを撫でさすっていた。


 沼の淵に浸る柳の枝に着物を干し、瑞己は狩で負った傷の治療にあたっていたのだ。


 おれは、一目兄貴の遺骸が散らばっているのだけ見て、すぐにその場を去った。


 兄を喰った人魚が恐ろしかったし、おれも喰われちゃァかなわない。

 しかし逃げて家路につく道すがら、ふと冷静になって考えた。

 このころから、おれの記憶は昨日の事のように鮮明に色を差す。




 ――――もし、このまま兄貴が死んだと伝えれば、どうなるだろう。




 両親は民草を集め、人魚の討伐隊を組むに違いない。

 そしておれは、それに加入しなければならない。もしかしたら、先導する将軍として。


 でもおれは、そんなのはいやだった。

 おれは筋金の怠け者だったので、大層な役目は欲しくないし、てっぺんの方に立つだなんて目立つことはしたくない。

 手柄を取ればそりゃあ目立つけれど、ヘマをしても目立つではないか。


 おれは兄貴の陰で、怠惰に暮らすのが良かった。


 中学は詰まらなかったが、都会は良い。いつかはあそこに舞い戻りたかった。

 うちには妹がひとりいるだけ。

 もちろん、兄亡きあとはあの家の跡取りの役目はおれに取って代わろう。

 そうなれば、もうこの村からは一生涯出られない。



 ―――――しまったな。逃げ道が塞がれてしまった。



 おれは考えて、兄貴は見つからなかったことにした。

 「兄貴を探してくる」と言い訳をして、毎日あの人魚の沼に通った。

 女の背中を、時に沼を泳ぐしぶきを見つめると、なんだか怖いものなんて無いような気がしてきた。


 放蕩駄目息子でも、兄想いの弟ではあるのだと、周囲は少しおれに優しくなった。


 二日、三日とも経てば、両親は人を集めて捜索隊を出すことになる。

 おれももちろん加入させられたが、こっそり抜け出して、あの人魚のもとに行った。


 背後では「あいつはやっぱり駄目息子」やらと呆れた声が聞こえたが、今さら気にすまい。


 いちかばちかの賭けだった。


 このまま村に縛られるか、この人魚を使ってうまく村を逃げ出すか。


 おれは人魚の前に進み出た。彼女は沼の淵、岩の上に腰かけていたが、おれの脚が木陰から出るか出ないうちには、身を固めて牙をむいていた。


 ――――人魚さま、どうかお静かに。


 ―――――人が何の用なのか。



 人魚はあぶくを吐く口で、上手に言葉を操ってみせた。おれは都会で齧っただけの丁寧な言葉を思い出し、劇中の役者のような気分で口を動かした。


 ――――――わたしは五日も前にここを訪れた男の弟です。兄を探し、じきに両親の討伐隊がここに参ります。


 ―――――――おまえは斥候というわけか。


 ―――――――いいえ。あなたの助けに参りました。


 ―――――――……助け?


 ―――――――ソウ。あなた様をなくすのは惜しいと思いました次第です。


 ―――――――わたしに惚れたとでも。


 ―――――――そのとおりで構いません。あなたのその御身がわたしは惜しい。


 ―――――――わたしはこの沼からは離れられぬ。ホレ見ろ。この足だぞ。


 ―――――――わたしが担いで参りましょう。

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