第5話
「しっかりしな! 空船っ! 」
重い瞼をようやくの思いで開くと、やたら薄暗い場所だということが分かった。宿の部屋だ。
どうやら気を失っていたらしい。
視界の端に、何やら赤いものが垂れ下がっている。灯りではないようだ。
ぐりぐり首を横に向けると、ぼやけた視界にも派手な赤い振袖が見えた。
……よくよく見りゃあ、着物の柄が桜じゃねえか。季節感がないし、何より今回にいたっては不吉すぎる。
ふんわりと花の香が香る。白くて冷たい手が伸びてきて、おれの額に触れた。
「目を開けたな? よし。まだおっ死ぬには早いからね。雲児を迎えに行くよ」
「雲児………」
徐々にひらいていく視界には、すっかり陽の落ちた窓の外と、何も変わらないあの宿の部屋が見えた。
「そうだ……クウだ。あいつ、瑞己さまンところにいるかもしれない」
「そうか。あんたがそう言うのなら、そうなんだろう。よし、あたしの見立ては間違っちゃあいなかったってことだ。準備は出来てる。行くよカツ助」
陽が落ちたからか、なんとか立ち上がることができた。
人気が無く、しんとした廊下は明かりもついていない。幸い、窓が沿ってついている。今日はよく晴れた明るい満月だ。
「女将は? 」
「宿の従業員には全員帰ってもらった。臨時休業サ。こんな状態で営業させるわけにゃ、いかないね」
「ここ、どうするんです? 」
「もともとはあたしの調査不足もあったさ。観念して買い取って、しばらくは学校のやつらの郊外活動にでも使うさね」
斜めに差し込む僅かな灯りを頼りに、おれは照朱朗さんの背を追った。
「……あんたには、謝らなきゃあいけないね」
「それは、昼に溢したあれですか」
「そうさ。アタシが、雲児にここを教えちまった」
じゃあ雲児は、分かっていてここに来たのか。
「天下の人魚の姫も、墓がコンクリの下ジャア浮かばれないねぇ」
と、辿り着いたのは、あの駐車場だ。
昨日は確かに、おれたち以外にも軽自動車が置いてあったはずである。どうやら本当に、宿から人間はすべて追い出したらしかったが、現場には見慣れぬ人影がひとつある。
人手は(いや十中八九、人じゃあないんだろうが)おれたちの他にも用意されていたようだった。
やってきた照朱朗さんに気付いたそいつが、座り込んでいた地面からはっと顔をあげて立ち上がり、アスファルトの上をかつんこつんと下駄を鳴らして近寄ってくる。
「雪ちゃあん。こっちは準備万端でェす」
驚いたことに、それはセーラー服を着た女子高生と見えた。
栗色の髪をくるくるにパーマをかけて、ばっちりメイクをしている。とくに目元なんて、増量した睫毛が目玉のまわりを黒々と縁取って、ぎょっとするほどの目力である。
おれの胸がざわついた。
(これがギャルというやつか)
年寄りのような感想である。いちばん苦手なタイプの女の子だった。
彼女は「こんばんわ」と、脇のおれに向かって丁寧に頭を下げ、黒くなったつむじを見せた。
「空船、こいつはおゆう。幽霊のおゆうだ」
「はじめまして~。今年で十一回忌、永遠の十七歳! おゆうでぇーっす」
ずいぶん明るい死人である。
「学校の、お方ですか」
「ウチの最年少教師だよ」
「雪ちゃんたら。バイト帰りに呼ぶなんて、職権乱用もいいとこですよ? 」
「今日は月曜だから客も少なかったろ」
「む。そうなんですけどぉ。お給金、色つけてくださいよね。あたしもけっこう危ないんだから」
「はいはい。わかってるよ。ごくろうだね」
『どういうことをするんですか』という意味をこめて、照朱朗を見つめ返した。
「『祟り屋』なんだよ、おゆうは」
「オバケにはオバケをぶつけるんですよォ~」
おゆうは、にやっとして言った。
「あたし、
しめ縄を駐車場の外周フェンスに巡らせながら、おゆうは言った。
「学校で先生もしているんでしょう? 」
「それはなんていうか、『出稼ぎの留学生がビザのために日本語学校に並行して通ってる』みたいな話で。あたしはほら、幽霊ですから、本来なら現世に留まらず、あの世に行かなきゃいけないんです。でも現代妖怪って、どんどん居場所が縮小されていってるでしょ? その改善のためにつくられたのが『学校』なんですけれど、あたしは人間代表としてそこで教えることで、この世に留まる特別な許可証として、手形が発行されてるんです。ほらこれ」
おゆうはセーラー服の胸にかけた紐を手繰り、漆塗りの黒い木札を見せた。
「表に『鬼』、後ろに『隠』って刻まれてますでしょ。どっちも『おに』って読みます。昔の言葉で『幽霊』のことらしいですね。この手形を閻魔様から発行されてるあいだは、あたしは三途の川を渡らなくてもいいんです。
でも、やっぱりあたしって幽霊なので、現世だとちょっとした影響が出ちゃうんですよね」
「このしめ縄はそのための? 」
「この縄は、どちらかというと被害を拡大させないためのものですね。結界をつくって、これより外には影響が出ないようにするんです。だから、あたしがこれからするのは、また別のこと。よし、こんなもんかな」
手慣れた仕草で、しめ縄の端どうしを結び付けたおゆうは、手の埃を叩きながら立ち上がった。
「空船さんも、死人でしょう? 死因は溺死ですよね」
「わかるのか」
わずかな驚きとともに目を瞠ると、おゆうは誇らしげに笑った。
「分かるんですよ。それが特技。人間がルーツなら、とくに相性がいいんです。
いまからあたしは、この瑞己人魚がどうして人を祟るのか、雲児さんをどこにやったのかを調べます。
でもその前にも分かったこと、空船さんには教えておきますね。パーソナルな情報なんで、雪ちゃんには空船さんが話したかったら言ってください」
駐車場の真ん中で、照朱朗さんがこちらを気にしながらも待っていた。
子供の形をわずかに残したままのおゆうの手が、おれの右手を取る。艶めかしさは感じない、手相を見るような手つきだった。
「ここにいる瑞己人魚とこの場にいる誰よりも相性がいいのは、空船さんです。おそらく、いえ、確実に、生前にご縁がある関係だったと思います」
「それは、おれの死因と関係が? 」
「直接的な加害者と被害者の関係じゃないです。それはあたしの感覚と、没年の差があることから確実です。空船さんは死んでから三十年とちょっとだけど、瑞己人魚は二百年前くらいに死んでますから。でも確実に、生きているときの縁があったはず。たとえば近いのは……血縁者、とか……? 」
言いながら、おゆうは怪訝そうに顔をしかめた。
「……人魚は女しか生まないから、男性の空船さんが血縁者ってのは、道理にあわないんですけど。でも、例えるなら、そうですね。『同じ井戸から汲んだ水』って感じがするんですよ。雲児さんも、それが分かっててここに来たのかな」
それは、おれたちが何十年も探して、はじめて出てきた出生の手がかりだった。
「始めていいかい」
「ハァイ! いつでもー」
腕を組んで待っていた照朱朗さんが、おゆうに向かって薄く微笑んだ。
「じゃ、あたしは後ろまで下がってるよ。空船はどうする」
おゆうの視線がちらりと交差した。
「雲児さんを探すなら、空船さんはここにいてもらいます。いいですよね? 」
おれはうなづく。
すれ違いざまに、照朱郎さんが肩を叩いていった。
おゆうは、照朱郎さんが駐車場の切れ目まで下がったのを見届けると、深呼吸をして目蓋を薄く閉じた。
「空船さん」
「なんだ」
「いまふと思ったんですけど、あなたってティラミスみたいな人ですね。全く違ういろんなものが重なって、ひとりの形になっている。……とても不思議です。こんなこと、さっきは分からなかったのに」
「おれはどうすればいい? 」
「とりあえず、そこで見ててください。……来ましたよ」
白くたなびく女の着物の袖が月明かりに見えた。だらりと乱れた帯の、鮮烈な赤が、瞬き消える間に、おれの眼に焼き付く。
陽炎のように消えた女の立っていたそこに、痩せぎすの老人のような樹が聳えていた。
灰色の乾いた表皮には苔が生し、空気に湿った泥の匂いが混じる。生臭い、水底のにおい。
それと同時に―――濡れた土のにおい。
クウが呼ぶ、雨の香り。
さぁっ、とくるぶしが濡れる。月明かり、濃い緑の沼が夜闇を溶かして、たぷんと波打っていた。
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