第6話

 これが河童桜の沼。


 ただひたすら、沼の対岸で樹は静かに夜風に揺れるだけ。さわさわと、囁くように梢のこすれる音がする。



 おゆうが進み出る。おれは、黙ってその後ろ姿を見送った。


 ざぶざぶと少女が樹に向かう。大の男が腕を広げたほどにも近づいた時、ふるりと、桜は身を震わせたように思った。


 ほぅ……と、樹は甘い息を吐く。



 木肌が割れ、ぬるりと濡れた手が伸びる。

 生木の色じゃあない。浮腫んだ灰色の肌に、紫の痣がまだらに浮かぶ男の腕だ。


 おゆうは腰まで水に浸かると、その手をささぐように両手で取って、額を寄せた。

 彼女の紺のセーラー服に包まれた細い肩が、深くゆっくりと上下する。少女幽霊のあるはずがない呼吸まで、聞こえたように錯覚した。







 オオォォォォ………オオォォォォ………






 樹は恍惚と震える。

 枝は無数の腕に変わり、わさわさと指を伸ばして、天にぽっかり浮かぶ月まで抱かんとする。


 さしのべるように伸びた枝は、こっくりと樹の陰を見上げたおゆうの首を、おもむろに掴みあげた。


 くっ、とおゆうの喉から空気の玉が吐き出され……気付けば跡に残ったのは、水面の大きな大きな波紋。ぞろりと沼から伸びた老若男女の腕らが、彼女の脚を、腰を、肩を、手首を―――絡み取って水に引きずり込んだのだ。



「照朱朗さん! 」


 唐突。背後から聞こえたおゆうの声に、おれはハッと振り返った。

 呑まれたはずのおゆうが、セーラーのひだをヒラリと靡かせ、照朱朗の手を取って地面に足をつく。

 彼女はおれの顔を見ると、強く首を左右に振った。





 今、おれの目の前には、昨日と同じように木が立っている。





 獲物を逃した樹は、こしょこしょと囁いていた。

 無数に、きっと最後に発したろう一言を。


 ……やがて、大きくなっていく声々が唸る。


 オゥオゥ……オゥオウゥ……オゥウウゥゥゥウウウウウ………。


 それを聞くおれは、ひどく穏やかだ。

 一つ一つの怨念が込められた声だというのに、木の一部となったそれらの声には、こちらの耳が痛くなるほど訴える力は、もはや無くなっていた。



「なあ、釣眼」


『なんやいな』


「なんでだろうな。あの樹の声は、おまえらと似ているな。声の響きがよ……」


『ぬしは無礼なやつじゃのぅ。鬼と怨霊を一緒くたにするのか。……まあ、似たようなものだがの』



 おれは顔を覆うように手を広げた。


 ―――――カタリ。顔の皮膚が外気から塞がれる。





 濃い潮の匂いがした。ずいぶんと、久しぶりの感覚の気がする。


 おれ……いや、釣眼は身をかがめ、樹に向かって走る。竜神は滑るように水面に小さな波紋を残し、風を斬った。


……ああ、恋しい。恋しい。

 潮の味が。あの波が。甘い甘い、命の水が。

 真水は苦くていけない。陸のものどもは、無粋でいけない。



「くさい。くさいのぉ。なあ、空船。雲児はなぜ、こんなにくさいものの方へ行くのかのぉ」



 知らんさ。あいつの考えることは。



「知らんのではない。忘れとるだけじゃ。わしらはみな、覚えているさ。忘れるものか。なあ、空船。ぬしは空の船じゃ。波を流れに流れるまま……それしか出来ぬな。そうだろう? ぬしが乗せるとするなれば、わしらと雲児だけではないのかえ」



 ……どういう意味だい。




「雲児にとっても、それはおんなじ、ということさ。ぬしらは向かって前の互いの頭の向こう側しか、見通しがきかんからのう。まったく、世話の焼けること焼けること……」




 何が言いたいんだよ、釣眼。




「雲児はわしの贄じゃ。それはおまえが空船に生まれる前から決まっていたこと。雲児はわしが喰うのだからの。いなくなっては困るのサ……クククッ」


 空が白く光った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る