第3話

 懐かしい音で目が覚めた。


 轟々と、水が流れる音だ。こういう音の事を、何というんだったか。

 早朝六時十二分。のったり身を起こして、側らの携帯電話で確認した。携帯の液晶が目にまぶしい。


 陽はとっくに上がっているはずなのに、窓の外は濃灰色をしている。遠景の山々はまだしも、眼下の景色はまた一面の駐車場なものだから、味気なさはひとしおだった。


 味気ないのに『ひとしお』とは、これいかに。

 いや、我ながらつまらないことを言った。



 襖に張り付くようにして、でっかい芋虫が転がっている。カッちゃんだ。


「起きやアで、カッちゃん」


 土踏まずで、腹のあたりを小突くと色男の顔が顰められて、「うぐぐ…」と、いやに苦しげなうめき声がカッちゃんの口から出た。


「カッちゃん? 」


 カッちゃんは夜行性生物なので、えげつないほどの美白を保っているし、どっちかっていうと優男だ。

 それでもなんだか、顔色が悪いような気がした。


 なにやら魘されている上に、暑がりのくせに布団蟲になっているなんて珍しい。


 こりゃ様子がおかしいぞ、ということで、とりあえず起こすことにする。

「おきろー! 」


 渾身のジャンプアタックが、カッちゃんの右わき腹にクリティカルヒット。

「ふげっ」

 飛び跳ねた布団虫は、さながら陸の上に打ち上げられた魚のようだ。

 一回大きく痙攣したカッちゃんは、それきり静かになった。


「カッちゃん? 起きた? 」

 沈黙が返ってくる。


 どんぴっしゃーん!



「し、死んでるっ…! 」背景にはカミナリツヤベタコンボフラッシュ!





「誰がだ」


 むくりと、緩慢にカッちゃんは体を起こした。ゆっくりとぼくを振り返るその顔には……ヒヨェエ、暴れん坊とお噂の男面じゃあないですか。



「手前、おれを殺す気だったのか」


「すンばらしいモーニングコールやったやなぁい。ネ、そう思うでしょ? 」


「ふざけるなよ」


「怒らんといて。かあいらシィ弟の、かわいらしぃコミュニュケーションやないですか」


「ふざけているだろう貴様ぁっ! 」


「怒らんといてって! 」


 男面はぬらりと立ち上がり、右の拳を握る。そこにはいつしか、白刃きらめく得物が。私は転がるようにカッちゃんから距離を取り、毛を逆立てた。



 男面は恐ろしい。


 いや、面達は総じてネジが一本二本抜け落ちているのだけれど、こいつは大切なネジが一本どころじゃなく落っことしている。


 それは主に、理性だとか、自制だとか、忍耐、道徳、根気、そういうところのネジだ。


「カッちゃんあのな、こんなところで、そんなもん振り回すもんやない」



「ぉぉおれが、知るかぁあ! 」



 ずずいと近づいてきたカッちゃんの腕が、私の浴衣の襟首をつかみあげた。


「いやあん。そんなご無体な」


「なんやとぉ……」


「ご、ごめん、謝るってェ。ちょっとした冗談やんかぁ」


「冗談だと! 冗談で人を殺めるというんか貴様! 」


「カッちゃん忘れてる! ぼくら、とっくに死んどります! 」



 きらきら光る綺麗な板切れが、私の首筋にぴったりつけられた。


「それでも痛いだろうが! 」


「知ってる! ごめん! やめて! それで首の皮を叩くのをやめて! 」


「殺すぞ! 」


「た、たすけて、ドザえもーん! 」



 えいやっ! と、右手を伸ばして男面を弾き飛ばした。怒り顔のまま男面は宙を舞い、畳にぽとんと落っこちて、カッちゃんの腕から力が抜ける。


「……剣呑だのう」


「翁! 」


 ぼくは諸手を上げて、両腕でしっかりと翁を歓迎した。



「おうおう、よーしよし。怖かったかぁ」


「怖かった! 」


 わっしわっしと、カッちゃんの手が私の頭を撫ぜる。



「よーしよし、翁が好きかぁ」


「好き! 」


「そうか、そうか」 



 男面はよく激昂するけれど、ふだんの顔は眉が下がり、唇が少しだけ捲れて黄色い歯が見えている様子が、なんだか憂鬱そうにボンヤリした顔に見える。興奮する時だけ目をひん剥いて、歯茎を見せて、口の端を釣り上げる。反面、翁は一番温和のうえ話が分かる人柄で、よく笑う面だった。


 翁面は垂れ下がった細い目と、いつぞかの総理大臣そっくりに長く垂れ下がった眉をしている。

 皺を彫られた木目の肌は、もちろん木の質感なのだけれど、白粉の女面や象牙色の男面よりも、その素朴な木目が段違いに暖かい表情に見えた。


 頭を撫でてくれるのは翁だけと言ってもよかったし、だから私は、翁面をかけているときのカッちゃんがいっとうに好きだ。


「なあ、カッちゃん」


「どうした」


「昨日、ぼくはうまくできた? 」


「………」



 翁(カッちゃん)はしばし、私を見下ろして沈黙した。



「……なんもないよぅ」


 ふふふ、と翁は笑んだ。


「なーんもないよぅ」


「ほうか」


「うむ」


「………」


 今度は私が黙り込む番だった。これが男面か女面か…とにかく翁以外だったなら、意地悪ぅく私を言葉で刺したのだろう。


 ……どうして私だけ、こんなふうなのだろう。


「今日はええ天気やのうぅ」


 雨に煙る外を見て、カッちゃんは言った。


「おまえさん、好きじゃろう? 」


「……うん。雨、好きや」


「じきに朝餉じゃの。食うたら、ちょいとそこらを散策するか」



 私は頷いた。手を引かれる。


 踏み出した足が、じっとりとした泥を踏んだ。





 これは夢。これも夢。


 ……ぜんぶ夢だ。





 濃い霧が、森の中を揺蕩っている。ちいさい雨粒が降りそそぎ、私を湿らせる。


 くるぶしが冷たい。足元は水に浸かっていた。

 はだしの脚に、ざらついた木肌を感じる。



 白いものが、ひらり、ひらり。

 上を見上げると、白い薄いものが雨に紛れている。濡れた足首に張り付いたそれは、薄絹のような花びらだった。


 私は思う。……ああ、成功しちまったかァ……なんて、自分が望んだことのくせして。



 私は、浴衣のような、白い襦袢一枚を纏っている。肌寒さは感じず、むしろ妙な昂揚感があって、暑いくらいだった。


 足首までを濡らす水は、ずっと続いている。霧が、この水面から立ち上る湯気にも見えた。


 釜湯地獄にしては呑気だし、極楽にしては陰気である。足をひたひた打つ水を感じながらも、私はそこを動く気にはなれない。


 なぜだろうか。


 きっと、あっちは深いからだと思う。


 私の短い足は水底にまで届かないだろうし、そうなりゃ私は沈むだろう。


 なにせ、一度は水に溶けた身である。二度目は無い。きっと、こんどばかりは上がってこられない。



 ――――思って、爪先で水をすくってみたとたん、足先が指した目前の水面が、深い濁った緑色に沈んだ。深く暗い水底の色。


 ぶくぶくぶく…と緑色から黄色い気泡が浮かんできた。泡は水面で弾けては小さな粒になって、私の足元を舐めにくる。

 やがて、ぬらぬらと、気泡の後から蘇芳の糸束が浮かんできた。



 あかくてくろい―――――血だ。


 碧い水の中から湧き出た血液は、腕を伸ばして水を変えていく。仄かな血液の芳香。血液はどす黒い。私は、じっとうつむいて、自分の足首が浸かる水面を見ていた。


 ことり。


 乾いた木を軽く打ち付けた音。どこか聞きなれた懐かしい音。


 白いおもてが、いつにもまして不機嫌そうだ。


 三枚の見慣れた面が、翁は真っ暗な眼孔を晒して、プッカリと浮かんでいた。わたしはなんだか奇妙な気持ちで拾い上げて……。




 あれ。―――気付く。





 わたしは何をしている。それに、顔のまわりを簾のように覆う自分の髪が真っ白なのだ。これは、夜の自分である。


 しっかりと夜の雲児の姿を見たのは、三十年初めてのことだった。



 あれ。―――――また気付く。


俯いていたはずの私は、顔を上げている。

 まっすぐに向こうを見ているのだ。

 霧のまとわりつくその人物を、私の眼はじいっと観察している。



 その人物は、白金の髪をしている。

 顔は俯いていて、髪に隠れて見えやしない。あいつはきっと、尖った耳を持っているのだろう。



 それは私だった。

 あれ。



 ―――――では私は、誰だ。




 足が重かった。

 そうそう、久しい感覚だ。

 私は本来、人間なのである。人間の頃は、この足はこんなにも重かったか。


 いやあ、それだけじゃない。手はちんまりとしていて、細くて柔い。

 指なんか、そこの木の小枝ほどだ。

 まん丸の爪はちんまくて、桜の花びらみたいな色をしている。


 胸に抱いたままの面は冷たい。


 翁の笑顔は、目が入っていないというだけなのに、なんだか空寒いと感じた。


 私は思い出した。


 風がびゅううと鳴る。花が千切れて、あっというまに木を裸にしていく。




 そう、こういう音を、『竜神が啼く』と言うのだ。



 懐かしい。


 あの日も、山のあっちこちで竜神が啼いていた。さて、あの日からどれだけ経ったのか。


 私がカッちゃんを殺したあの日から、どれほどの時が……。


 私は霧の向こうに叫ぶ。


 ―――――おーい、クウ。


 あいつは、うつむいたままぴくりとも顔を上げない。


 ―――――カッちゃん、ひとりぼっちで置いてったらあかんよぅ。


 クウはちょっとだけ顔を傾けて、金色の目でこちらを睨んだようだった。




 ―――――ぼくらは一蓮托生なんやでぇ。忘れたらあかんよぅ。約束ねんからねぇ。



 遠ざかる雲児に、私は飛び跳ねて言った。体を殴りつける風に流されないように、胸には面を抱え込む。



 ―――――こいつらは、ぼくが連れて行くからね。いいかぁ。忘れたぁ、あかんねんでぇ。



 クウはちょっとだけ、頷いたようだった。

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