第4話

 それからしばらくは、黙々と、もぐもぐと、咀嚼していた。

 味はもう、よくわからない。たぶん美味いのだろうが、家で食う飯の方が恋しくなるのは毎度のことだ。こいつはこれで、料理が得意なのだ。




 おれは空になった茶碗に、箸を揃えて置いた。


「ごちそうさまでした」


 障子の向こうは沈黙したまま。







「さて」


 おれは立ち上がり、バックを手に取る。

 そして、障子の向こうに声をかけた。




「なあ、ちょっと車を見てくるけど、おまえ何か取ってきてほしいもんはあるか」


「ない。ないけど、ぼくもいく」


 くぐもった拗ね声で、返事が返ってくる。




「おまえなぁ、さっきの話はどうしたんだ。その成りじゃあ、夜は出歩けんだろう」


「やだ。ぼくも行く。夜やし、どうせ見えへんもん。いつも見つからんし、ええやろ」


「万が一、という言葉を知ってるか? この前やらかして、夜歩きはしないって約束しただろう」


「カッちゃんがいるなら問題なっしんぐ。万に一しかばれる危険は無いということやから、0.01%の確率やな」


 屁理屈では、おれは敵わない。




「では正直者になろう。おれもお前を連れて行くのはいやだ」


「うわ、小心者がおるぅ。ぷぷぷ」


 馬鹿にした口調に、ぐっと堪えて飲み込む。







「……小心者と言われようともおれは嫌だ。たかだか五分でおわる用事で、どうして寿命を縮める思いをしないといけないんだ」


「やだ! ぼくも行くんや! 」


「夜はおれに譲れよ! 昼間に好き勝手やってるだろ! 」


「好き勝手でけへんもん! 我慢してるもん! やーだー! いっしょに行く! 」


「融通の利かない餓鬼だな、おまえってやつは! 」


「わからずやっ! 」

 次の瞬間。






 ごうっ!


 目の前をつむじ風が渦巻いた。

 目の前の障子が、部屋の端まで吹っ飛んでいく。酷い音を立てて、障子は床の間の脇にぶつかった。



 ひぃ! おれは悲鳴を上げて、部屋に踏み込んだ。


「いい加減にしろ!この―――――」




 ごんっ



 言い終わる前に、右側頭部に衝撃が襲う。

 思わず米神に手の平を押し当て、恐ろしいものを見た。


 べったり手についた血糊に、おれ以上に驚いたつむじ風が、慌てたように終息していく。





 廊下からか、ばたばたと足音が近づいてきた。



 こりゃアいかん―――――!


『まずいんじゃあないのかい』


 ついにおれの頭の中越しから、ぼおぼおと水泡に曇った声が呟いた。


『どうする、空船』


 耳元を、奴らの声が通り過ぎる。こいつらまで出てきやがって―――――。


(ああもう、頼むよ)


 部屋いっぱいに、見えない水の濁流が渦巻く。空間をかき混ぜ、引き倒されたものが浮いては渦に巻かれる――――――。


 布団蟲を抱きこむようにして、畳の上にへたりこむおれに、女将と仲居は息も絶え絶えに部屋を見渡した。



「おや、何か――――? 」


「い、いえ、ものすごい音がいたしましたので、何事かと……」


「エエエッ、そんなにすごい音がしましたか! すんません、この莫迦のやつが、立派な和室にはしゃいでそこの押入れから思い切りジャンプしまして…今、ようやく落ち着かせて叱っていたところなんですよ。ハハハハ……」





 布団の下で潰れたカエルになったクウが、もごもご「すいませぇん」と、しょぼくれた声で言う。



 愛想笑いを浮かべるおれの顔を、穴が開くほど凝視して、女将はなるほどわかりました、というように無言で頷いた。





「他にもお客様がいらっしゃいますので、あまり騒ぐようなことはお辞め下さいね」


 そんな女将の後ろから、俺に熱烈とは真逆の意味で、視線を送る仲居がいた。そう、あの、おれたちを部屋に案内した無礼な担当仲居である。


 血の気が引いた顔で、おれの顔を穴が開くほどじいっと見てきやがる。



「あの、何か? 」


 こちとらせっかくの湯上りの体も、冷や汗でパァの身だ。

 ひきつった笑顔で返すと、なぜだかあちらさんは青い顔を湯上りのような顔にして、そそくさ何も言わずに部屋を出ていった。

 女将も呆れたような溜息を吐いて、仲居の後を追う。







 潰れたカエルが布団の下でいった。


「……罪作りな男め」


「てめぇ、反省してないな」


「ちゃんと見られる前に全部直せたモン」


「そういう問題かっ」


「……ちゃんと後で謝りに行く」


「そうしろ」


「その……カッちゃんごめん。頭……」


「もう治った。済んだことだ」


 憮然と俺は言う。




「……おれは車を見に行くが、おまえはどうする」








「い――――――行く!」








 びよんとカエルが跳ねて蘇生した。

 長くて白く染まった髪が、ご機嫌の持ちあがりと一緒に、ふわふわ靡いている。ああ、夜のたびに溜息を吐いている気がした。夜の溜息は、いつも絶えない。






「……ただし、万が一をもう起こさないために、おまえは窓からだぞ。問題ないな? 」

「うん! 」



 まったく、返事だけはいいんだから。

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