第5話
おれは浴衣の肩にフリースを一枚引っかけ、フロントに愛想笑いをしながら外に出た。
旅館のすぐ脇が駐車場になっていて、これがまた「こんなにいらんだろう」というような、無駄に広い一面コンクリート張りになっている。
何か用事の際には活用されるスペースなのかもしれんが、旅館の規模に比べて広すぎるそこは、シーズン外というのを差し引いてもガランドウなのが侘しい。
吐息程の声でクウを呼ぶと、旅館側にある植木から、ひょっこり白い頭が出てきた。
「お前、本格的に野生だな」
「なんやと。この神々しい御姿を前に失礼な」
「うるせぇ、へちゃむくれ」
眼下のぶすっとした顔のさらに下、クウの浴衣の裾から尻尾の端が覗いている。
耳もいいし、鼻も夜目もきく。
あげく夜行性で何でも食うので、ますます野生の狸だった。
野良猫でもいい。おいしいものをたらふく食い、毛並みだけはいい。ストレスも無いに違いない。
忘れていたブツを掴んで、おれは車の中から顔を出す。夜空には無数の蛇の腹のような暗雲が波打ち、どんどん肥えていっている。
「なあ、クウ」
「なんやぁ」
「さっきはどうした。今日はやけに苛々してないか? 」
「えー? 」
しらばっくれるつもりなのか、クウは相槌にすらならない曖昧な声を出した。
「ちょっと、今日はやけに昔のことを思い出したっていうだけやァよ。気にせんとって」
気にするなと言ったって、さっきまでご機嫌だったくせに明らかに風向きの悪い返事をしているのだ。
「……なあ、クウ」
「なんやあ」
「いや……その、今日は雨が降りそうだ」
「しやねエ」
クウは短く言って、実に意地の悪そうなニンマリ顔をした。
……ああこりゃあ、やりやがったんだな。
おれは足のつかないほど深いため息をつく。こいつは雨雲を呼べるのである。
「嘘やよぅ! ぼくはなーんにもしとらへん。ね、カッちゃん信じたってぇ」
「信じたくても、おまえ相手じゃ信頼が品切れでな」
「ひどい。こんなに誠実に生きてるのに」
「おれをいじめることには誠実だよな」
「あと自分の欲望にも? エッヘッヘ」
……とか言ってるうちに降りだした。くっそう。
「ねえカッちゃん。ぼくが今死んだら、この雨止まるとおもう」
「何言ってんだ。おまえもう死んでるだろ」
「しやったっけ」
「しやったよ」
「はて、それはいつのことだったかいな」
「ちょうど三十年ほど前だってよ」
「ああそうだったあそうだったあ。ところで今日の晩飯はまだかねフネさんや」
「モウ食ベタデショ、オジイサン……いつまでやらせんだ。この茶番」
おれは目線を下にやり、チビの浴衣の裾から、尻尾以外のものが覗いているのを見つけた。呆れて溜息が出る。
「裸足で来たのか」
「ちゃんと汚れんように浮いてんもん。ほんの三センチ。これで問題ナシ! 」
クウは胸を張る。
「ますます狸じゃねえか」無駄に器用な無駄遣いとはこのこと。
「マ、なんにせよ、あんまり目立つなよ」
「わかっとるわかっとる」
クウはウンウン頷いて、さっそく車のボンネットに腰かけて、ガキのように足をぶらぶら。こいつは本当にわかってんのか。
こいつの相棒をやって長いが、夜のこいつは、おれにとってはまさしく未知である。
ものを知らぬ子供とおんなじ、何を仕出かすか分からない。
特に旅先なんて、知らない場所に常に興味津々で動き回る。
釘を刺した。
「いいか、絶対にそこから降りるなよ」
「わかっとるわかっとる」
クウはウンウン頷く。
てめーは本当にわかってんのか?
おれはドアを開け、
(誰にも見られませんように)
と、祈るように車内に潜った。
後部座席を探る俺の頭の上で、ボンネットが鈍い音を立てる。
夜のクウの気まぐれが起きたら、中古車一台どころじゃあない被害が出ることを知っているから、おれは黙って手を早めた。
山をくり抜いたような立地のこの旅館は、駐車場から一歩出ると、そこは山林になっている。
窓越しに、木々が枝をびょうびょう揺らしているのが見えた。今日はやけに風が強いことに、おれはようやく気が付いた。
おれが忘れ物を袖の中に押し込み、車に鍵をかけている間にも、雨はあっというまに土砂降りになった。
憎たらしいことに、元凶はおれの頭ひとつ上でくすくす笑っている。
クウが細いのどを逸らして空を仰ぐ。夜だけの白金色の髪が、雨粒を縫って枝葉を伸ばすように広がっていた。
クウ―――――雲児は気持ちよさそうに、くるくると空をバタ足で掻くように裸足を伸ばして全身で雨を受けている。
やがて、くすくす笑いは豪雨に打たれながらの叫ぶような狂笑に移行する。
しかし、濡れ鼠のおれはまったく気持ちよくない。
遺憾を抱えたおれは、さっそく狸の襟首を掴んで荷物のように肩に背負った。耳の後ろあたりで、短い腕がばたばたしている。
「カッちゃん」
「ちゃんと帽子被っとけ」
クウが喚く。
「ちゃうわアホ! 」
「誰が阿呆じゃ落っことすぞ! 耳元でうるせえんだよ」
「見て! あれや空船! 」
クウが頭の後ろで腕を伸ばすので、俺は振り返った。
「あれ、なんやろね」
アスファルトを打つ無数の雨粒の間を縫って、クウが言ったのが聞こえた。
おれの踝が水に浸る。
……おれの目の前には、巨大な水たまり……いや、あれはもう、沼だ。
空から落っこちてきたように、いつのまにか沼があった。
その沼の中には、樹があった。
岩のようにごつごつとした木肌は、雨に濡れて艶がある。
枝はおれ達に傘を差すように影を作っていて、黒々として尖った梢が眉間に刺さるほど近くにあった。
その枝先が、あまりに鋭利で硬そうだったものだから、おれは小さく息を飲む。
「わぁ」
クウが楽しげに笑う気配がする。
「なんやろねぇ、あれ」
「クウ、おまえ……」
口をつきそうになった一言は飲み込んで、嘆息した。
いつものことだった。クウは雨風を呼び込むことができる。
やけに夜間のゲリラ豪雨の多い地元では、四割くらいの雨はこいつのせいじゃあないかと思っている。
夜のこいつの手綱を握るのがおれの役目。
昼と夜と、おやじがおれ達にまず叩き込んだのは、互いの御し方である。
残念ながらおれは、クウよりもそれが苦手らしい。
それとも、おれよりもこいつの方が、たちが悪いのだろうか。
むっとして、やつの下半身を支える腕を揺らす。
すると濡れて冷たい細腕が、浴衣のたっぷりとした裾をはらんで、おれの首回りに巻きついた。
「見て」
耳朶を、雲児の囁きが這う。
風が吹く。
樹が身震いする。
クウはすっかり子泣きジジイのように、両腕で背中に張り付いている。
枝は根元のこぶを間接にして、驚くほどしなやかに、艶めかしくしなって、おれ目掛けて伸びてきた。
ふれる枝を払うために、おれは右腕を胸の前に掲げた。
枝が、女の腕に見えた。
ふっくらとした二の腕の感触を、一瞬ふれただけの掌に感じた。
冷えた脂肪が詰まっている女の腕だ。おれが知り尽くした、水に浸かった死体の感触。
左上から腕が迫る。
筋骨隆々とした、男の腕だ。左の手首でそれをいなす。
女の腕と違い、それは死後硬直でかちかちに固まっている。
真上からの手刀のように振り落とされた老人の腕は、軽く払っただけで、手首からぽっきり折れた。
轟、轟轟、轟……轟轟、轟………。
枝葉が、波の音に似た啼声を上げる。
首に巻きつく腕の力が、ぐっと強くなった。
「ねえ、カッちゃん。ぼく、思い出したんよ」
「雲児ッ! なに、しやがるっ」
がっちり首が固定される。
足元で折れた老人の手首が、腹を上にした蜘蛛のように蠢いている。
「クウ! 」
温く、生臭い臭気が顔にかかる。
ぼこり。
幹に黒子のように付いた瘤が、押し出されるようにして丸いものを形作った。
灰色のつやつやした木肌が目蓋を上げ、黄白色に濁った眼球だけが、ぽつんと二つ浮かび上がる。
その顔には鼻が無い。眉丘も無いつるりとした顔立ちに、まつ毛の無い大きな白濁の眼と、ぱっくり割れたような唇。
風が唸る。
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