第6話

歪に丸い泥溜まりの中心に、一組の白い眼球に浮かんだ黒い瞳が、ゆっくりと頭を下げる様に、乙子に向かって瞬きをしたのを見て、乙子はそれに、触れることを選ぶ。酒で泥を洗うと、それは二つのヒトの形を取った。


 それが、だった。




 私たちを拾い上げた乙子誠光という人は、現在、地方の開発途中の田舎町で平屋建ての邸宅に住み、一年のうちほとんどを夜な夜な飲み歩くという生活をしている。


 聖職者らしい看板はひとつも出していないが、『不思議』にかかわる商いで、私たち二人を含む三人の生計を立てていた。


 乙子のその『仕事』については、この先機会があれば話す時も出てくるだろうと思うので割愛するが、彼は基本的に、『幽霊を見た』といえば枯れ尾花を疑うし、神仏の存在を肯定する口で神仏の救いの手を否定するうえ、酒も飲めば女も抱く。家電が好きなので、しばしば最新のものを買いたがる。


 面相も、達磨か地獄の極卒かという強面の禿げ頭なので、普段着の和服も相まって、隠居したやくざの幹部だと近隣に噂されているくらい俗世に染まり切った生臭である。


 乙子の目は、『かもしれない』のフィルターがかかっている。


「あれは幽霊ではないかもしれない」「これは本当は人間ではないのかもしれない」「あいつには自分には見えないものが見えているのかもしれない」「ここには悪いものなんて無いのかもしれない」他、他、他他……。



 乙子が我々を拾ってしたことといえば、病院で体中隅々まで検査し、その合間に近郊の行方不明者の一覧を探し出し、古新聞を漁っての情報収集に努め、我々のとある『特異な人間離れした体質』が露出してくると、DNA検査までやらされた。


 そこまでやって乙子は、ようやく拝み屋家業の出番とばかりに、今度は怪異を通した目で、我々を調べ上げた。





 そして分かったことは、おおまかに三つ。



 まず我々の痕跡は、この世に存在していないも同然だということ。


 三十年たった現在においても、我々がどこの誰かということは、公的な記録はもちろん、我々自身の記憶に尋ねてみても、答えが返ってこなかった。


 次に、我々はおそらく死人だ。水で死んだということは、人間の検査で判明した。


 昨今の数十年での検死解剖の技術は発展著しい。内臓の具合で、いつどう死んだかが分かるのだそうだ。損傷が少なく、今しがた生きていたくらい綺麗な体なら、わかることも多い。




 最後。


 我々は、日の半分を人として過ごすことができた。日のもう半分は、化生の類に


 私と空船は、『人』であるときの自分こそを我が身と思っているが、妖となったときには夢うつつのごとく曖昧になってしまう。


 裏返っているときの記憶も、霞がかかっているかのようだ。その時の行動に、責任は取れない。

 だからぶっちゃけちまうと、一蓮托生の相棒と言えども、私はカッちゃんとは一緒に歩きたくない。とくに公道なんかに出たもんなら、奴はとんでもなく目立つもんだから、私まで変に見られてしまうからだ。


 立てば死神、座れば怨霊、後ろ姿は、さながら妖怪変化。


 無念なことに、カッちゃんはありえないほど真っ黒いセーターに、黒いズボンを好んでいる。


 私の後ろを猫背でスタスタ憑いて……訂正、着いてくるこいつは、夏もこの調子のふぁっしょんせんすなのである。




 青空に紅葉が映える、秋の陽気。舞う紅い葉っぱが、私の肩を避けて石畳に落ちる。微かに硫黄の匂いがした。


 ふと振り返ってみると、カッちゃんの頭にも真っ赤な葉っぱがくっついている。私はそれを、無造作に払ってやった。




 ……何せこの不気味な男にくっつくと、せっかくの風流も、風流と云うより禍々しかったので。





 仕方のないことだけれど、観光地は人の目が多い。私はマスクの下で嘆息した。


(私はひどい鼻炎持ちなのである。)



 ちょっと軽く拳を握って、こいつの頭を叩く。



「あんたなぁ、ついてくんなら、もーちょいマシな格好でけへんのかいな。目立ってしゃあないやないの」


 混乱しないでほしい。これは正真正銘、私がくっちゃべった言葉である。地方人の脳内は、わりと標準語で構成されているものだ。




「出来んのう。クウちゃんが見繕ってくれるんならばァ、また別じゃがの」



「ぜぇったい、いやや。文句言うんやろ。色が派手だとかナントカ言って」



 カッちゃんは首をのけぞり、皺枯れた声がけけけ、と笑って、大きな手があごの白いひげを掻く。

 硬い硬い木目の浮いた頬の筋がぱかっと下に落ちると口が開いて、笑顔の体裁を取った。


 昼間のカッちゃんの体は、死んだばかりの水死人。


 この爺どもが本体だ。


 見あげるように細長い真っ黒の大男は、顔に能面をかけている。

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