第7話

すっかりおやつの時間になってしまったけれど、腹の虫は夜まで辛抱できない。宿から遊歩道を下って三十分もしたところに、雑誌に載っていた蕎麦屋があるというので、そこで食事にすることにした。



 ヘーコラ空腹を抱えながら、遊歩道と名のついたハイキングコースを、紅葉狩りしながら歩いて約一時間弱。……おい、どこが三十分だ。責任者出てこい。


 サボったおかげで、本日は平日の午後……というより最早夕方である。ピークが過ぎ、行列が出来ると噂の店にも、難なく座ることが出来た。漆塗りの木の長椅子がいくつも並ぶ店内で、私達はいちばん奥まった隅っこの八人掛けに通される。ワァイ。広いぞぉ。










「きつねそば一つと、天ぷらそば二つ……あ、替え玉とか出来るお店ですか? やっぱだめ? じゃあ、やっぱり天ぷら二つで……」









 私はマスクをあごの下まで落とし、念願の海老に齧りついた。七味の香りで、鼻がむずむずする。


 正面ではカッちゃんが器を顔の真下まで引き寄せ、猫背になって抱え込むと、翁の面を斜め掛けにずらし、片手で面を支えながらずるずる啜っている。カッちゃん曰く、面を外すときの感覚は、水の中で息を止めるようなものだという。


 面の視界は、基本的に目についた小さな穴である。

 こうしてずらしてしまうと、真下がようやく見えるだけだ。


 私から見れば、狭い視界で四苦八苦どうにか口に運ぼうと必死な構図なのだけれど、傍から見れば、怪しい風体の能面男でしかない。

 少ない客の目が痛かったが、それ以上に、逞しい横幅をしたおばちゃん店員の目が怖かった。







「ふう、食ったぁ」





 カッちゃんはまだふぅふぅやっている。

 膨れた腹をさすりながら、私は席を立った。

 カッちゃんが器から僅かに顔をあげる。


「どこにゆく」


 頭の上で傾いた翁が言った。下ではカッちゃん自身の口が、箸を咥えてもぐもぐやっている。



「ちょっと電話になぁ。おやじに到着したよぉって知らせやらんと。カッちゃん、ゼッタイここ動いたアあかんよ」



「おう。わしゃあ今は、アツアツのお揚げさんと一騎打ちの最中じゃあ」




 私は店の軒下まで出ると、先ほどからブルブル震えているそれを耳にあてた。


 もしもし、というと、渋い艶の含んだ声が返答する。


 わたしは、しばらく話をした。


 電話の向こうで、その人はわたしに繰り返す。





『あんたたちは、おんなじ人間じゃあないんだ。肩越しに違う景色を見ているんだよ。それは当たり前のことだ。だからいいかい、馬鹿なことはするんじゃないよ。あんたのそれは、思い違いだ……』





 毒にも薬にもならない話である。


 カッちゃんが食事を終えるのは、だいたいわたしの三倍かかるので、わたしは頃合いを見計らって話を切り上げる。胃が重たくて、頭が痛い。



 ―――――ぶちり。わたしは引きちぎるように通話を切った。






夕映えを背に、私は長い息をついた。湯気で溶かれてけぶる空には、もう微かに星が浮いている。






「クウ」


 カッちゃんが私を呼ぶ。




 鼻先まで硫黄に沈んで、ぶくぶくしながら私はお湯の中で返事をした。カッちゃんは面の代わりに、黒子のようにタオルを顔に巻いている。商店街の福引でもらったものなので、プリントされた『美墨生花店』の文字が絶妙にダサい。


 不機嫌な顔をしていたんだろう。カッちゃんは、湯船に顔半分まで浸かっていた私の頭を掴んだ。そのまま、ぐいっと引き上げ―――――うぎゃあ。




「あっだだだだだだだだ! あ、あほかっ! 首が引っこ抜けたらどないすんのや! 」



「頭ぐらい縛って入れ。湯船に髪が落ちるだろうが」



「タオル男に言われたアないわい! 」



「お前が、陽が落ちないうちに露天に行きたいっていうからだろうが」



「なんや上から目線やの! カッちゃんはいつからぼくの兄貴に……いてっ」



 何も夜が近づいたからって、一時早く面を取ったからって、そんなふうに言われちゃあ、温厚な私だって苛々する。







「空船のばぁーっか! 」





 カッちゃんのタオルを巻きつけた顔に向かって湯をぶちまけ、私はさっさと湯船を出た。せいぜい顔に濡れタオル貼り付けて苦しめばよい。カッちゃんは面は取れても、作り直している途中の顔・・・・・・・・・・・を晒すことはできやしない。


 つまり、今の時間じゃあ、カッちゃんは体は洗えても顔は洗えないのだ。風呂好きのこいつはひどく長風呂で、代わりにわたしの方は烏の行水でも良い方である。何もこいつと暑苦しく裸で景色を楽しむこともない。


 濡れた頭を掻き上げて、私はさっさと洗面具をまとめた。








「クウ、もう日が落ちそうだ」



「しやね」



「日が落ちる前に部屋に戻れよ。寄り道すんなよ」



「わあっとりますゥ」



「本当に分かってんのか。見られちゃ事だぞ」



「お面男に言われたないもぉん」










「がきんちょ……」





 カッちゃんの呆れ声を尻目に、私はへへーんと脱衣所に駆け込んだ。

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