第5話
今から三十年と少しむかし、その乙子という修験僧が、台風一過の山奥をエッチラ歩いていた。
その時の乙子の顔には、蜻蛉の目ようにピカピカ光る偏光レンズのサングラス、脚絆の先にあるのはスニーカー、背中に小岩のように背負った登山用のリュックサックからは、錫杖の先っぽが飛び出しているという生臭具合であった。
獣道と交差する山道は、しばしば木々の切れ間から、果て無い海原のように山々が広がっているのが見える。嵐が過ぎ去って三日と経っていないというのに、夏の盛りから降下しつつある山脈は、紫幹翠葉の様と輝いていた。
不思議とそれを見ていないのに、私にはその山脈が、まるで歩いたことがあるかのように瞼の裏に浮かぶ。うつくしい山だ。おそらく空船……カッちゃんも、同じように感じていると思う。
乙子は、緩やかに張り出した崖上の道に差し掛かった。
眼下には、轟轟と流れる広い砂色の流れがある。広い河川敷は泥と流木で汚れ、これでも流れが細くなったことを表していた。川の流れに乗って、嵐の残滓が初めて感じられる。
何気なくやった下に、乙子は目を
黒い泥濡れの生き物が、泥溜まりに二匹絡まって蠢いている。
最初、それは大型の鳥が、泥に濡れてもがいているのかと思ったそうだ。
次には、死にかけの猿。しかしそれにしては、大きさがおかしい。最後には並外れて大きな山椒魚。
オオサンショウウオは、その体躯が150㎝にも膨れ上がるというので、乙子は「へえ、なんだァ」と、そこを通り過ぎようとした。
再び歩き出そうとした乙子の耳に、甲高い……何と称したら良いのだろう。乙子は「無数の尖った鉄針のような」耳に刺さる甲高い音を聞いたと語った。
思えばそれは、声だったのだろうという。
乙子は再び、河川敷を見下ろした。
次の瞬間、乙子は肩からリュックサックを下ろし縄を取り出すと、下生えを分け入って斜面を降りていった。河川敷の泥濡れの石の表面は乾いているが、無数の小石は踏むと転がって走りにくい。それに近づく頃には、そのころすでにオヤジだった乙子の親爺の心臓が、銅鑼のように胸を打っていた。
乙子の目に映っていたのは、山椒魚にあるはずのない、泥を掴む腕である。
近づくとそれは、確かに山椒魚とは違うものだった。
泥から腕が生えている。腕の横から、明らかに脚と思えるものがある。そのシルエットは、蜘蛛にも見えたかもしれない。
乙子は瞬間的に、泥の中から頭にあたるものをマジマジと探す。
再びの泥溜まりの声は、蛙に似ていた。
ィエッ……
ヤッ、アッ……
アアッアァ……
グォッゴッ、オッ
オッオッオ……
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